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2024.01.13 Saturday

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2016.01.24 Sunday

[chapter 198] 石川浩司 ガラクタパーカッション・セッション ライブ x The 昭和歌謡 Vol. 2 (昭和50年代 1970's Japanese Folk Songs) ~ Sing Along with Nostalgic Songs~


サワディークラップ、波照間エロマンガ島です。いつも拙ブログにアクセスいただきありがとうございます。
連載開始198回目にして初めてイベントの告知をします。


(以下、こちらよりばっすい)
『石川浩司 ガラクタパーカッション・セッション ライブ x The 昭和歌謡 Vol. 2 (昭和50年代 1970's Japanese Folk Songs) ~ Sing Along with Nostalgic Songs~』

日時:2016年1月31日(日)18:30 開場 20:00開演 ~ 22:00
エントランス:
前売 200バーツ (ワンドリンク)、500バーツ (飲み放題<ビール、焼酎、泡盛、梅酒>)
当日 300バーツ (ワンドリンク)、600バーツ (飲み放題<ビール、焼酎、泡盛、梅酒>)
定員:30名

一昨年、金城のカウンター席にて。「Namiさん、毎月Fujiyama Night主催したり、J-Liveやったり、ホント音楽好きですよね~。何がきっかけで音楽やろうと思ったんですか、、、?」 「いや~オレはね、高校生の頃にね、まずは吉田拓郎から入ったんだよ。それから、◯X△❑だろ、、、ホニャララ (さっぱり知らないアーティストや曲名が出てきて、付いて行けなかった)」 という会話がきっかけで始まったこの企画!

コンセプトは、Namiさんが青春時代に聞いていた昭和50年代、1970’sの昭和歌謡 又は Japanese Folk Songのライブをやろう!です。前回は、Namiさんと同世代の方々にとっては、とても懐かしい、下の世代の方々にとっては新しくも聞こえてしまう曲の数々。

出演は、一昨年同様、「Nami」さん、そして当時まだ生まれてもいない世代の「クレシェンテ」と「伊藤タケシ」くん。

さらに!今回は、Namiさんと同世代で、今や世界的なパーカッショニストの石川浩司さんが、金城の鍋や空き瓶、ポリバケツなどのガラクタで即席パーカッションセットを作り、即興で参加!また二人と同世代、石川さんもよく知るDJ 『波照間エロマンガ島』とは!?


そんなわけでDJをやります。生まれて初めて石川浩司さんと同じステージに立ちます。どうなることやら、ドキドキワクワクであります。


(参照 Click please↓)





(今週のおまけ)
2015年1月25日(月) バンコク 53歳 

寒波襲来


2016.01.16 Saturday

[chapter 197] 2991219/ 沖縄料理金城で酩酊/ 石川浩司のひとりでアッハッハー/ 空中遊園からの眺望/ 日常の時間と旅の時間とのあいだ/ ねじまき鳥クロニクル(村上春樹)/ 赤っ恥電話/ ペストコントロールほか


スクムビットの某新築コンドミニアム屋上プールからの眺望(2016年1月12日)



2016年1月4日(月) バンコク 53歳

沖縄料理金城





2016年1月6日(水) バンコク 53歳

石川浩司のひとりでアッハッハー


こちら→http://ukyup.sr44.info/
2016年1月8日(金) バンコク 53歳

2991219

2016年1月12日(火) バンコク 53歳

空中遊園からの眺望


2016年1月15日(金) バンコク 53歳

ペストコントロール

2009年1月6日(火) チェンマイ 46歳

日常の時間と旅の時間とのあいだ

日常の時間と旅の時間とのあいだには、計量できない「重さ」の違いが確かにあるような気がする。

タイで8ヶ月生活して、この年末年始に1週間だけ、生まれ故郷の日本に帰国した。
帰国した12月27日から29日ころまでは、自分の心と身体がふわふわしていて、「日本」という国への無意識的帰属に対してどこか違和感を覚えていたが、30日に自動車を運転して親戚宅を訪ねたあたりから「日本」との一体感覚を心身が思い出し、31日にはほぼ渡航以前のメンタリティーが復活したように思った(あくまで個人的感覚であるが)。

そんな状態で新年を迎えた。新しい年になって、昨年までのもろもろな懸案や心配事がすべてリセットされて、あらためて新たに計をたてられてよかった。この独特な「日本の新春の気分」 を味わった。元日の日本の雰囲気は、初詣などの正月的儀礼と同じく、日本的な気持ちの切り替えのできる機会として、とても重要な事柄であると思った。この雰囲気を体験するために毎年帰国してもよいとさえ、思った。

さて、1月3日にはもうタイへの帰国の途についたのだが、とても不思議に感じたことがある。

1月4日、チェンマイの自宅に帰宅したときに、まったく違和感なく、日常時間から日常時間への接続ができたと感じたのだ。つまり日本での日常生活時間での心持ちを保ったまま、タイでの日常生活時間への心持ちへスムーズに移行できた。これが以前のように日本からタイに旅をして日本に戻ってきたときは、これほど感覚の移行はスムーズではなく、深いため息と疲労とともに、旅の時間の終わりを認識したのだが、今回は本当に不思議に、それはまったくなかった。日本とタイの2つの日常生活が、50%50%で均等なバランスで並行して存在していて、自分はただ物理的に移動しただけだったので疲労が少なくて済んだのかもしれない。

部屋に着いて10分後くらいに日本の友人から電話があって会話したのもそう感じた理由だ。日本から何千キロも移動しているのに、まったくギャップを感じずに会話できた。まるで国境などないかのように、くだらない話題を話せたことが、私に何かを気づかせてくれた気がする。
(以上、メモ)

2009年1月7日(水) チェンマイ 46歳

ねじまき鳥クロニクル(村上春樹)


「ねじまき鳥クロニクル」読了。

今までこの小説は読んだことがなかった。実家の書棚に誰かが買った(たぶん末弟かな)文庫本があって、タイにもってきたというわけである。ところが、どういうわけか「第1部 泥棒かささぎ編」しか持ってこなかった。「第2部 予言する鳥編」と「第3部 鳥刺し男」は日本に置き忘れてきたのであった。
第1部を読んだのが去年の9月頃。読み終わるとつづきがただちに読みたくなった。ところがタイでこの本を見つけることは難しかった。チェンマイ中の書店をまわったが見つからなかった。

実は年末年始に日本に帰国した真の動機は、

この本のつづきを読むため

というと大げさに過ぎようか。はたして、日本に帰国して、第2部と第3部を無事入手した。

そして寝る間を惜しんで、読書に没頭、夕べ読了したというわけである。
2009年1月8日(木) チェンマイ 46歳

赤っ恥電話


実家から携帯に電話があった。かかってきたときはわからなかったのだが、実家の固定電話の番号の着信履歴が残っていて気がついた。

日本から電話がかかってくることは滅多にないので、もしかして緊急事態かもしらんと思い、日本時間で夜10時を過ぎていたが、母の携帯に電話をかけてみた。留守電になっていた。

メッセージを入れた。

「もしもし、○○(私のファーストネーム)ですが。昼間電話があったみたいで電話しました。また電話しまーす」

15分後、念のためもう一度、電話をかけてみた。今度は電話に出た。

「もしもし」と私。
「もしもし?」
「あれ、母さん?」
「えっ??」

なにやらおかしい。間違えてダイヤルしたか?

「もしもし。すいませんが、××の携帯ではないですか?」
「違います」
「あ、すいません」
「○○さん?(私の名字を呼ばれた)」
「あれ、どちら様でしょうか?」
「Sです!」
「おーーー、すいませーん!!間違えてSさんに電話しちゃいましたー!!お久しぶりですー!!」

電話の相手は、以前勤めていた会社の同僚で、カラオケなど遊びに行っていた女ともだちSさんだったのだ!!
その人の番号は母の番号と酷似していて、間違えて登録してしまっていたのだとわかった。

「もしかして、さっき入れた留守電も聞きましたか?」
「はい、だれかと思いましたよ。○○さんだったんですねー」

そうとうに恥ずかしかった。

久々だったのでお互いに近況を話しあって電話を終えたが、留守電に残したメッセージがまぁまぁ無難だったのが救われた。これが普段の親子の会話、言葉遣いだったらと思うと、恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいの心境だっただろう。

翌朝、あらためて実家に電話をした。要件はさして重要なことではなかったのでがっかりした。

というわけで、赤っ恥電話の一幕でした〜♪
2016年1月13日(水) バンコク 53歳

在タイ国日本大使館



所用で日本大使館に行ってきました。
2016.01.09 Saturday

[chapter 196] 記憶ビルディング(1)渋谷東急文化会館

はてさて、ここで唐突に 2016年新企画をスタートします。

今は存在しない建物を召還して、思いつくままその建物について書き出してみようという企画を思いつきました。
(思い出したら追記する「ひとりwiki」方式で書き足していきます) 「記憶の中だけで生きるビルディング」。

第1回目は
「東急文化会館」 を取り上げます。皆さん、このビルディングを覚えていますか? 私は1975〜77年の中学3年間、ここの裏の学習塾に通っていたのでよーく覚えています。また時代はくだり、1991〜95年頃は金王坂に勤め先がありましたのでこのエリア一帯は通勤途中にありました。


渋谷東急文化会館(とうきゅうぶんかかいかん)は、かつて東京都渋谷区渋谷にあった複合施設である。東急百貨店が所有・運営し、渋谷駅前(東口)を代表する文化施設として知られた。
2003年(平成15年)に閉館、建物も取り壊された。跡地には2012年(平成24年)、新たな複合ビル「渋谷ヒカリエ」が開業した。


↓外観はこのような感じ。渋谷駅東口バスターミナルの前にあり屋上のプラネタリウムのドームが目立つビルでした。




ビルディング名:東急文化会館 住所:東京都渋谷区渋谷2-21-12
開店日:1956年12月1日/ 閉店日:2003年6月30日 設計:坂倉準三 
最終更新日:2016年1月9日
8階

 
五島プラネタリウム小学校の社会見学で何度か行った。ナレーターが天球図の説明をするときに火星をより以上に赤く見せて「実際はこれほど赤くありません」とその場で色合いを補正したり、木星の大赤斑も同様に肉眼で見せたりする見せ方に子供ながら感心した。(同級生のあいだでは天体観測が流行し、天体望遠鏡を買ってもらう友人が何人もいたが、私は天文少年にはならなかった)
7階
東急ゴールデンホール結婚式場
6階
東急名画座1977年(中3)の夏休み、部活の友人10人ほどで「宇宙戦艦ヤマト」を観に行った。調べてみると幻の「スターシャ死亡編」を観たらしい。異常に混雑していてビルの非常階段の横側の戸隠そば屋の通路まで列が及んだ。普段は名画座のプログラムを上映していた。
翌1978年8月に「さらば宇宙戦艦ヤマト」を鑑賞したときには激しい怒りを呼び起こされ、以来このシリーズは2010年の木村拓哉主演の「Space Battleship Yamato」を観るまで自分の中でモチベーションが再燃することはいっさいなかった。
5階
渋谷東急/三省堂書店
三省堂書店では高校受験と大学受験の両方参考書を購入した。後者のときは赤本など。
渋谷東急では何を観たか記憶がおぼろげだ。キアヌ・リーブスの「スピード」(1994)はなんとなく観たような気がするのだが。。
4階

3階

2階
文化特選街
東急東横線渋谷駅改札口から屋内歩道橋が宮益坂に向かってあり、2階からビルに入ることができた。2階は小売店舗がたくさん軒を連ねていたが、島田結いのカツラ屋さんが印象に残っている。
1階
渋谷パンテオン/ユーハイム東急文化会館内映画館でもっとも多い席数(1101席)を誇る映画館。1970年代半ばから2000年代前半まで都内でもっとも多く劇場公開映画を鑑賞した映画館。いちばん最後に観た映画は「ハンニバル」(2001)
地下1階

東急レックス1977年4月(中学3年)、「家」というホラーサスペンス映画を観に行ったとき、入り口付近で芸能事務所の某氏にスカウトされた。某氏は「ケンちゃん」シリーズでお父さん役をやっていた前田昌明氏に容姿がそっくりだったことが印象に残っている。


(覚書き)
わたしにとって渋谷と言えば、中学時代は「東急文化会館」だった。週4日通っていた学習塾が文化会館の裏にあったのである。東急東横線渋谷駅を下りて改札口を出て右側に向かうとそこはすぐに屋内歩道橋になっている。橋を50mほど渡ると文化会館の2階の入り口にぶつかる。すぐ左側にあるエレベーターに乗って5階の三省堂書店に行くのが習慣だった。渋谷には大きな書店がいくつもあって私のホームグラウンドは東急新玉川線渋谷駅地下改札口近くの旭屋書店で、そこから大盛堂書店、東急プラザにあった紀伊国屋書店、渋谷古書センター、ヤマハ楽器横の古書店等々…、本屋さんをめぐる散歩コースができている街だったのだが、(高校、大学時代にはこれに輸入レコード、中古レコード屋さんが加わる)三省堂書店はその最初に訪れる本屋さんであった。
大岡昇平の「少年」ではないけれども、1970年代の渋谷を思い出しながら書いてみるのもよいかもしれないな、と思う。
でも、あまりにも身近にありすぎたので建物の写真は残ってないですねー。今度実家の家族のアルバムから掘り起こしてみよう。あ、そうだ、思い出した。ロバート・ロドリゲスの「フロム・ダスク・ティル・ドーン」(1996)は渋谷パンテオンで鑑賞したな。タランティーノの顔の看板の映像が想起された。
2016.01.02 Saturday

[chapter 195] ニヒル牛2大団円/ 牡蛎フライセット/ 悪人正機(吉本隆明)/ 蛍の光/ 声楽レッスン歌い納め/ トリュフォーの「家庭」に出演しているジャック・タチ/ 七七日ななをさんと再会/ 地方出身者の羞恥心/ 祖母見舞い/ キチガイスラッガーほか


(近況)2016年1月2日は、吉祥寺Manda-La2にホルモン鉄道を観に行きました。このブログの読者の皆さんにお会いでき、よかったです。



山中奈緒子「炭鉱の街」最終形態(2015年12月31日)



2015年12月28日(月) 目黒 53歳

牡蛎フライセット




2015年12月29日(火) 東京 53歳

昔の写真発見


2015年12月31日(木) 西荻窪 53歳

七七日ななをさんと再会

2006年12月28日(木) 東京 44歳

[趣味] 歌い納め〜声楽レッスン

今日は今年最後の声楽のレッスンだった。歌い納めということで、今年印象に残った好きな曲を7〜8曲選んで、歌わせてもらった。

今年レッスンで歌った曲は以下の通り―――

MON COEUR EST UN VIOLON (私の心はヴァイオリン)
DARK EYES (黒い瞳)
TOSCA (トスカ) 第三幕 星は輝きぬ
'A vucchella (かわいい口もと)
Dicitencello vuie (彼女に告げてよ)
アカシヤの花
蝶々夫人〜さらば愛の家
Amore perduto (失われた愛)
MARTHA マルタ M'appari tutt'amor 第3幕 夢のごとく
Memory〜ミュージカルCATSより
Limelight ライムライト
Serenade From "Student Prince" (学生王子のセレナード)
Piscatore 'e Pusilleco (プジレコの漁師)
Senza nisciuno (孤独)
Love Is A Many-Splendored Thing (慕情)
Auf Flugeln des Gesanges (歌のつばさに)
イヨマンテの夜
MAMMA MIA, CHE VO' SAPE?! (お母さん、何が知りたいの?)
Parlami d'amore, Mariu! (マリウ愛の言葉を)
PECHEURS DE PERLES (真珠採り)


*ジャンルはオペラのアリアからナポリ民謡、カンツォーネ、シャンソン、映画音楽、ミュージカルナンバー、日本の歌謡曲など、多岐に渡ります。

来年も楽しみながらレパートリーを増やしていこうと思います。

2010年12月27日(土) チェンマイ 48歳

イミグレーションでビザ更新


帰宅。今日はイミグレーションに出頭、帰りはセントラルエアポートプラザ、チェンマイ門方面で用を済ませてきた。自転車で移動したのだが10kmちょっとくらい走ったと思う。疲れたー。思ったほど汗はかかなかったよ。やっぱ乾季だぬ

自転車のチェーンがはずれた。暗いので明日直す。

冬至過ぎたらいきなり日が長くなった気がする。

トリュフォーの「家庭」(1970年)にジャック・タチが出演しているらしいのだが、トリュフォー曰くジャック・タチに出演交渉したら、替え玉を出してきた、と。ユロ氏そっくりの替え玉が10人くらいいたらしい。(山田宏一・蓮實重彦対談「トリュフォー以前・トリュフォー以後」より)

タニン市場のタイマッサージ屋で施術終了間際、とつぜん急激な便意に襲われ、コーヒーを入れるというのを「用があるから」と丁重に断り、1階のトイレに駆け込んだ。ぎりぎりセーフだった。ふー、助かったー。

チェンマイでは2車線以上の交差点では自転車も右折時に右折レーンから右折する人がほとんどで、二段階右折などしているのは見たことがない。私もすっかり「郷に従い」、この習慣が身についてしまった。こちらの交通法規的にはどうなのかは知らない。

同音異義のことば発見。 「逆なでする」と「魚でする」

わずか50時間くらい前、気温19℃で寒い寒いと連発しぶるぶる震えていたのにも関わらず、現在気温21℃くらいでそう変らないのに、暑くて窓を開け扇風機をまわし下着姿でパソコンに向かっている。私の身体はヘンなのでしょうか。

金井美恵子『小説論〜読まれなくなった小説のために』より覚え書き

(・・・)『死の棘』には、まだ小さい時分のマヤさんというお嬢さんが当然登場するのですが、彼女は時々、ニャンコとかニャンコちゃんと呼ばれていて、どうしてそう呼ばれるのかという説明はまるでなく、突然、会話のなかで、マヤはニャンコと呼ばれているのです。こういうのは不親切といえば不親切と言えるのかもしれませんし、たしかに私小説には、こうした類いの説明ぬきの飛躍というものが、読者を苛立せる場合が、ままあります。読者というものがずっと最初からある作者の私小説を読みつづけている、作者を良く知っている人たちだ、という前提で書かれていたからなのだと思います。
それはともかく、後で柳田国男の『海南小記』を読んでいたら、奄美では猫のことをマヤと言うのだということがわかって、それで、ニャンコちゃんと呼ばれるのだということが納得いき、単純に感動したことがあります。





ニヒル牛2ラストセレモニー「蛍の光」(2015年12月31日)


2015年12月31日(木) 西荻窪 53歳

ニヒル牛2、大団円


2015年12月31日(木) 西荻窪 53歳

ニヒル牛2ダンボールの街

2005年1月1日(火) 東京 43歳

[読書] 悪人正機/ 吉本隆明 (聞き手)糸井重里



2001年、朝日出版社刊。聞き手の糸井重里による章のイントロ部分があまりにも教条的でうざいので折り曲げて読めなくしてやった。「お前はすっこんでろ!」って本に向かって叫びましたね。これは編集が駄目。糸井を黒子に徹しさせて、「成り上がり」みたいに独白だけの構成すればよかったのに。吉本隆明は親鸞を紐解いてそこから本当にいいことを言っている。いいことっていうのは面白くてわかりやすいということだ。最近は聞かなくなったけど、ビートたけしの「だから私は嫌われる」シリーズの人生訓話(週刊ポストで連載していた)を数段高次にしたような内容を、平明に述べた処世訓、人生訓、日本人論になっている。
2009年1月2日(金) 東京 47歳

祖母お見舞い

今日は母といっしょに、介護付き老人施設に住んでいる95歳の祖母を訪ねて行った。約8か月ぶりの再会であった。

びっくりしたのは前回会ったときには私の名前を思い出せなかったのに、今日は「○○ちゃん」と最初に愛称で呼んだくれたこと(祖母はぼけがかなり進行している)。これはびっくりしたのと同時に感動した。

祖母は60歳くらいのときに大病をして死線をさまよったことがあるのだが、それが治癒してからはたいそう健康になり、95歳の現在にいたるも食欲旺盛で、足腰と脳の働きは弱くなったが、それ以外はすこぶる元気な老人である。今のところ100歳は軽くクリアーするのではないか、と思われる。

ただ私が留学していることを話しても理解できなかったようで、長く日本にいないという説明のほうを勘違いしてしまい「今、○○ちゃんは船員なのかい?」と、とんちんかんな逆質問をされて母と爆笑した。俺が船乗りに転職って……、でも想像するとかっこええなぁ(笑)。

祖母は言葉が出てこずに言いたいことが言えないことをしきりに気にしていた。
そして「ごめんね、あんたのことを褒めようとしても、言葉が出てこないんだよ」と言ったとき、私は心の中で泣いた。ありがとう。長生きしてくださいね、おばあちゃん。また帰国したら会いに来ますよ。



2010年12月27日(土) チェンマイ 48歳
地方出身者の羞恥心


太宰治『東京八景』にある東京の地図についてのくだり。私には想像できないが「地方出身者の羞恥心」が定着されていると感心した。
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