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2024.01.13 Saturday

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2014.09.27 Saturday

今週の連載はお休みさせていただきます

いつもアクセスいただきありがとうございます。
突然ですが、筆者急病で入院中のため、今週の「チャオプラヤ左岸派」は休載させていただきます。
まことに申し訳ありません。
来週には復活できるよう治療に専心いたします。
よろしくお願いします。

波照間エロマンガ島 拝
2014.09.20 Saturday

[chapter 130] 紅の拳銃 (赤木圭一郎・遺作)/ 菅木志雄 もの派の精神的支柱/ 中森明菜「少女A」/ 三原順子「だってフォーリンラブ突然」/ 中高年ニート=年金パラサイト/ Sunset in Pattaya Beach/ ヒッチコック「泥棒成金」/ You lady boy?/ 洋装光沢系緊縛ほか


(初めて来られた方へ)
「圧縮並行日記」というコンセプトで週1回記事をアップロードしています。過去35年間くらいのさまざまな時期の今日(9月20日)前後1週間くらいに書いた日記を恣意的に取り出してきて並べています。瑣末なこと、人の記憶からこぼれおちるどうでもいいことが好きです。書店で売っている「○年連用日記帳」にインスパイアされて2012年4月4日に始めました。筆者はタイのバンコク在住です。





1982年9月22日(水) 東京 19歳

「紅の拳銃」(1961年日活)

今日は京橋のフィルムセンターで「紅の拳銃」(1961年 日活 牛原陽一監督)を観た。赤木圭一郎最後の主演作。保存状態が良く、カラーが異様なまでに鮮明だった。これはつまり、現在の日活ロマンポルノと同じ撮影スタジオで撮影され、美術、照明、撮影、編集などの技術部が現在とつながる地続きであることが可視化されているわけだ。これは貴重な作品だと思う。中原弓彦は赤木を「大根役者」と痛罵していたけれど、俺はそうは思わなかった。なかなかどうして演出家の指示通りかそれ以上に画面を演技で塗りつぶすまともな演技をしていた。(好みで言うと、裕次郎の自然体っぽい演技よりも、多少芝居くさいトニーのほうが好きかもしれない)
あと相手役の笹森礼子、これがいいんだナ。浅丘ルリ子に似ているんだけど、笹森礼子のほうがよりフォトジェニックだと思う。そんな日活黄金期の代表的娯楽作品。

そのあと、かねこアートギャラリーで菅木志雄展を観た。画廊に菅さんが居たので、少し話す。(2014年メモ…当時、菅木志雄のクラスで美術を習っていた。私の人生において最も大きな影響を受けたアーチストの一人)

(参考リンク)菅木志雄インタビュー

帰り、地下鉄を明治神宮前で下車し、Nのアパートへ。今夜レッドシューズのRude Flowerのライブに誘われる。返事は後ですると答えバイバイし、渋谷から電車で帰宅。(結局行かず)

(読書)山本周五郎「正雪記」。これでもかと偶然(シンクロ)を積み重ねるプロット、作為のあざとさが気になるものの、その切れ味に「ほだされ」るように涙腺を刺激する。これは卑怯だ、でも凄みを感じる。最近、周五郎づいていて、「五瓣の椿」、「月の松山」と連続して読んでいる。

(買物)都立大学のHUNTERで中古レコード。ドリフターズ「ほんとにほんとにほんとにご苦労さん」、ずうとるび「恋のぱぴぷぺぽ」、レモンパイ「友だちブギ」、川崎麻世「青いシンボル」、異邦人「太っ腹ブギ」、カーペンターズ「ジャンバラヤ」。6枚500円
1982年9月23日(木) 東京 19歳

「ザ・ベストテン」中森明菜「少女A」初登場9位!

1位 あみん「待つわ」
2位 田原俊彦「NINJIN娘」
3位 松田聖子「小麦色のマーメード」
4位 郷ひろみ「哀愁のカサブランカ」
5位 近藤真彦「ハイティーン・ブギ」
6位 高樹澪「ダンスはうまく踊れない」
7位 しぶガキ隊「100%そうかもね」
8位 河合奈保子「けんかはやめて」
9位 中森明菜「少女A」
10位 嶋大輔「暗闇をぶっとばせ」

中森明菜、このアイドルのプロモーション、存在のあり方等々、理解に苦しむ。これからもっと売れて、大衆的な人気を得られるのだろうか。今のところ判断停止状態。
今週のスポットライト、一風堂「すみれSeptember Love」。メンバーの見岳章と藤井章司がロンドンに行って、Japanのワールドツアーのリハーサル中の土屋昌巳と合流、ロンドンで収録していた。

(2014年メモ…この日は中森明菜と「邂逅」した日でした。けっこうイムパクトはあったようです。その後30余年の活躍と衰退はご存知のとおり。しかしチャートを見るとアイドル全盛時代ということがわかりますね)
先週日曜日お昼の「NHKのど自慢」のゲスト歌手は三原順子だった。新曲「だって・フォーリンラブ突然」を歌ったのだが、これが凄かった。伴奏がのど自慢と同じくアコーディオン、ピアノ、ベースギター、エレキギター、ドラムスの編成でこれがチープ極まりない音色、三原順子のボーカルとのミスマッチぶりはひっくりかえるほど可笑しくて笑った。この曲は今までのツッパリヤンキー路線から突如プッシーキャット路線に変わった意味のある曲であるが、猫の鳴き声「ミャーオ」と言ってマイクのコードを首に巻きつける仕草はアナクロだったねぇ。ビデオに録画しなかったことが悔やまれる。



Pattya Beach sunset (September 13,2014)


2014年9月13日(土)パタヤ 51歳

Sunset in Pattaya Beach




















先週の週末は2泊3日でパタヤに遊びに行ってきました。すっかり「命の洗濯」ができました。海があって、食事が美味くて、女性(時に男性)が綺麗で最高です。リタイヤしたらパタヤにコンドミニアムを買って住みたいです。

2014年9月20日(土)バンコク 51歳

[WEB] 40歳ニート!中高年引きこもりニートの悲惨な状況が笑えない〜年金パラサイト(NAVERまとめ)

こちらから。

(リードより)
40歳になっても家の中で1日を過ごす「ひきこもり」が増加しています。日本国内には、30歳以上のひきこもりが少なくとも80万人以上いるとされていて、表面化しない社会問題になってきています。多くが親と同居して、親の年金などで暮らしています。年金パラサイトなどと呼ばれて社会問題化しています。

「高齢ニート」とは、親の年金や財産を頼りに働けるのに働かない40代以上の中高年ニートのこと。





(コメント)自分も「高齢無職」状態が長かったので、この手の話題には敏感に反応してしまいます。「年金パラサイト」という言葉は初めて知りました。しかし、社会復帰できてよかった…。(いつ解雇されて無職になるかわからないけど)
1982年9月18日(土) 東京 19歳

午後から原宿、青山、六本木、京橋方面の画廊まわり。基本歩いて移動。
オンサンデーズから赤坂高校の裏を通り、乃木坂から六本木へ。青画廊で矢吹申彦展。芳名帳に鮎川誠の名前発見。京橋イナギャラリーで湯村輝彦、安西水丸、河村要助三人展。かねこアートG1で山田恵子展「立体と平面の接点」など。夕方新橋から銀座線で帰宅。
19時、第7回「欽ちゃんの仮装大賞」。21時、ゴールデン洋画劇場「ヒッチコックの泥棒成金」。殺人事件のないヒッチコックスリラー。軽い感じが良いな。ラストの落ちははぐらかされた感じがしてちょっとガッカリ。グレース・ケリーよりもブリジット・オーヴェールのほうに惹かれるよ。正統派美人よりもニンフェット系が好き。

1982年9月19日(日)

夜外出。玉川高島屋紀伊国屋書店にて高橋留美子「うる星やつら」(13)、広告批評、ユリイカ購入。帰宅後、テレビ朝日「こちらデスク」に本多勝一が出演していた。初めて実物を見た。

1982年9月20日(日)

ananに矢野顕子登場。ボブカットに髪型変えて可愛い。


1982年9月21日(火)

S図書館。借りたレコードと本。(1)Grace Jones (2)Miles Davis「キリマンジェロの娘」(3)Leon Russel「カーニー」(4)Bob Marley & The Wailers「Catch A Fire」(5)ATG映画の全貌(6)大島渚「同時代作家の発見」(7)北村由雄「現代画壇・美術記者の眼(8)蓮實重彦・山田宏一「トリュフォーそして映画」
2004年9月20日(月) 成田〜シンガポール〜バンコク 41歳

シンガポールを経由し20時すぎにバンコク・ドンムアン空港到着。
入国審査、税関等々終え、空港出口。銀行の出張両替窓口で円をバーツに両替し、タクシーでいつものホテルに向かう。

[初日の収穫]

◆パッポンのバービヤの馴染みの女の子が先週、ナンバーズ・ロトくじで8万バーツ(日本円で約24万円)当てたという!4桁の番号をあてたんだって。すげぇ強運。OLの平均月収の6〜8倍くらいかな。

◆ホテルへタクシーで戻る途中、交通規制をしていて、プミポン国王の車列の通過に出くわした!タイは20回目だけど、国王を間近に見た(実際は見えなかったけど)のは初めてだ。でもこんな夜中にどこへ?お忍びか?王宮から反対方面に向かっていたもんな。

◆ホテルのとなりのセブンイレブンでオカマ3人組にナンパされる。3人ともまだ20歳前の初々しい子たちだった。
「You Lady Boy?」
と聞かれ、にやにやしながら否定した。予定があったので携帯の番号を交換して別れた。(波照間エロマンガ島はタイ仕様の携帯を所持してたのでした)バンコクはシーメール天国だなぁ。だから大好きなのー。

・・・・・・以上、初日の収穫でした。国王の話以外は次元が低い話ばかりですみません。
2005年9月20日(火) 東京 42歳

[TV] 学校へ行こう!MAX 秋の2時間スペシャル

日本全国の中学生にマイクを向けて今の悩みを聞いていた。

ある男子「ガレッジセールのゴリさんがやっている"ゴリエ"っているじゃないですか。最近"ゴリエ"が気になって気になって仕方ないんです。好きになっちゃったみたいなんです」
番組スタッフ「もし近くにいたらどうする?」
男子「えぇ、かならず告白します、はい」

素質十分である。

2007年9月20日(金) 東京 44歳

[event] サロン有末「洋装光沢系緊縛ナイト」





毎週金曜夜開催のサロン有末、21日も最高に濃密な内容であった。今回はさくら☆まび女王様とコラボレートの洋装光沢系フェティッシュナイト。ラバー好き美女を囲んで楽しい宴であった。

たくさんのサプライズがあったが、中でも出色ネタは有末さんが福富太郎先生からお預かりした
伊藤晴雨の画集を皆で鑑賞したこと。実はこの画集、新潮社から限定300部で発刊、即日完売したという超レアなシロモノ。値段はなんと15万円もするらしい!!こんな貴重なものを観られるのは滅多にない。

緊縛ショーも普段とは趣向を変え、ラバー美女を緊縛、皆でその様子を撮りまくり、さながら撮影会のようになってしまった。

夜が更けてもフェティッシュ談義に花が咲き、大いに盛り上がった。緊縛タイムも第2部、第3部・・・と明け方近くまで続き、めくるめく時が過ぎていった。

生きててよかったと思った瞬間でした。
2014年9月20日(土) バンコク 51歳

ゴーギャンと「プリンプリン物語」

いつか低緯度熱帯気候の南の国に住みたいと初めて思ったのは、1981年頃ポール・ゴーギャンの「ノアノア」を読んでから、ということを突然思い出した。あと「最早なし(Nevermore)」などのタヒチ絵画も相当影響を受けた。そういえばNHKで夕方やっていた人形劇「プリンプリン物語」の初期のシリーズ「オサラムームー」編が南の島の話だった。あのあたりに自分に南洋嗜好が植えつけられたのかもしれないな。でも、現在こうやって南の国に住んでいるというのは、1981年当時から考えると、本当に信じられない気がするのだ。
2014.09.13 Saturday

[chapter 129] 在日米軍戸塚通信基地/ アリベデルチ・ローマ/ イスラエルから来た絵葉書/ 911同時多発テロ/ 紐育空爆之図(戦争画RETURNS)/ ジャン・ボートリヤール「シミュラークル」のような/ 志ん生をおんぶする志ん駒/ クリスティン・ヤング/ 流政之「雲の砦」

2001年9月14日(火) 横浜 38歳

神奈川県の在日米軍戸塚通信基地に警察の装甲車両が停車していた



キャバクラ嬢の送りの仕事で、先ほど神奈川県横浜市にある在日米軍の戸塚通信基地の前を通過しました。そこに日本の警察車両が入り口付近に停車しているのを目撃しました。11日にアメリカで起こった同時多発テロ事件の警戒警備のためだと思われます。事件と関係する機関が、自分の生活圏のごく近くに存在することにあらためて緊張が走ります。今回の事件が遠い異国の出来事ではなく、日本と密接につながっている地続きの場所で起きた事件だということを実感しました。日本はアメリカの同盟国であり、テロの標的になる可能性が0%であるとはだれが断言できるでしょうか。

深谷通信所(戸塚送信所・米海軍)

在日米海軍極東コンピュータ通信本部(横須賀)の管理下にあり、米第7艦隊の艦船および航空機への送信業務をおこなっていた。
この基地は、事務所、発信室、宿舎、発電室、消防ステーションなどからなる全施設面積の5分の1程度の囲障区域と、アンテナが林立する非囲障区域とに区分されている。囲障区域以外は立ち入りが認められ、草野球や少年野球場のほか周辺住民の家庭菜園などに使われている。また、この基地の3分の2程度の場所を県道が横切る共同使用となっている。
基地の周辺では、米軍の発信する電波のためにテレビやラジオの受信障害がおきており、1967年に戸塚医療生協などが中心になっての運動の結果、共同アンテナ方式による受信施設が国の責任でつくられ受信組合が管理運営している。
湾岸戦争では、真っ先に厳重な警備態勢にはいり、県警までが入り口の警備にあたるなど通信基地の重要性を伺わせた。米ソの東西対決の構造がなくなってからいくつかのアンテナが撤去され、1995年から96年にかけて十数基のアンテナが撤去されるなどの動きがあり、1999年10月からは基地司令官も配置せず、基地の管理も厚木基地(綾瀬市、大和市)に移された。36人いた日本人労働者の大半も厚木基地や横須賀基地に配転され、警備の労働者が厚木基地から通勤している。
提供区域は、災害時広域避難場所に指定され耐震貯水槽も設置されたが、アンテナには「立ち止まると健康に影響する」とした看板が掲げられ、電磁波による近隣住民への健康被害が懸念されている。日本人労働者は、15人。
2001年9月13日(木) 東京 38歳

アリべデルチ・ローマ


2001年9月12日(水) 東京 38歳

イスラエルから来た絵葉書
2001年9月11日(火) 東京 38歳

衝撃!!世界貿易センタービルに航空機衝突、ビル炎上、倒壊。同時多発テロ?








背筋が凍るような衝撃的事件の一報が入ってきた。アメリカのニューヨークとワシントンで起きた同時多発テロ事件。9月12日午前1時現在(日本時間)、まだ情報が錯綜していて誰が何のために行なったのかという真相は掴めぬままだが、ブッシュ米大統領は会見でテロと断定し捜査を開始したと述べた。

これは現実か?映画とかの虚構の話じゃないのか?と思うくらい、想像力の限界近くにある出来事なのだろう。衝撃が強すぎてどうとらえていいのかまったくわからない。ビルに飛行機が激突した瞬間の映像は、特撮と見まごう、フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールの言う「シミュラークル」(模擬物)のように見えた。しかし、現実の映像なのだ。

とりあえず事件を見聞きした者として今この瞬間に感じたことを後世の自分に向かって書くべきだと思い書いた次第である。
(2001/09/12/01:03)


『紐育空爆之図(戦争画RETURNS) 』

という絵がある(1996年)。会田誠という現代美術のアーティストが描いた作品。図版はこちら。ニューヨークの摩天楼がゼロ戦によって攻撃されているというモチーフを、戦中の日本で多く描かれた《戦争画》の技法で再現した作品である。今回の事件で最初に想い出したのはこの絵と特攻攻撃についてであった。なにしろ、歴史上初めてニューヨークが「特攻」されたのだ。
会田誠の想像力には舌を巻くしかない。世界中どこにも安全な場所などないということ。大国であろうと小国であろうと爆撃攻撃される可能性があるということ。そんな単純な事実をあらためて認識した。そしてそれは信じられないことだが、数時間前に現実となってしまった。
(2001/09/12/02:33)

(2014年メモ)かなり興奮していることが見て取れます。
2004年9月11日(土) 東京 41歳

駒沢公園にて



久々に駒沢公園を夜走る。案の定、1周2キロの周回道路を1周走ったところでバテバテ。適度にウォーキングをはさんで2周する。最初から無理をしてはいけない。じょじょに距離をあげて習慣化しよう。
2003年9月11日(木) 東京 40歳

しょうもない瑣末的ネタ

●マドンナとミッシー・エリオットの共演したGAPのCMを見た。感想は割愛。

●学芸大学駅近くで村上淳を目撃した。芸能人オーラがすごいなぁ、と思っていたら、家に帰ってTVを点けるとちょうどドラマ『すいか』に出ていた。おー、シンクロニシティー!!

●蜷川幸雄と古今亭志ん駒は幼馴染で小学校の先輩後輩同士だそうだ。埼玉の川口だって。以前TVで同窓会をやっているのを見た。

●川口というとラジオのCM「♪かわぐちもとごうパチンコふじ〜!」ていうのがすぐに出てくる。知ってる人いる?

●それにしても志ん駒が内弟子時代、師匠の志ん生を谷中の銭湯まで毎晩おぶってかよった話は感動的だ。

●坂△*二は日焼けしないようにおしろいを塗ってサーフィンをするらしい。トレンディードラマ俳優ですからね(死語)。<友だちのキャバ嬢の彼氏がサーファー仲間でそっちからの(秘)情報

●留学で日本に来ている日系クォーターの男の子と友達になった。マンハッタンに実家があるとの由。911の時は至近距離でWTCの倒壊を目撃、ショックを受けたという。知り合いが何人か亡くなったらしい。

●彼が言うには日本はめちゃくちゃ治安がよいという。夜一人歩きできるから。アメリカには店の前に大抵いかついボディーガードが立っているが日本ではそういう光景は見たことがないって。あと、いつも財布のほかに常にポケットに20ドル札を何枚か入れとくのだそうだ。なぜかというと、恐喝されたときにその20ドル札を出して許してもらうために。おしょろしか〜!!

●似て非なる言葉。「平山あや」と「平謝り」。「平山郁夫」と「ヒマラヤ雪男」。

●森山直太朗の裏声がどうにも気持ち悪いんだ。

●直太朗ママの森山良子は、成城学園在学中、フォークソングのサークルに入っていた。よく練習場所に使っていたのがのちにブロードサイド・フォーでデビューすることになる3年先輩の黒澤久雄の家、つまりは黒澤明邸。黒澤明は息子たちの音楽の練習をいつも興味深く眺めていたそうだ。 のちに森山良子は黒澤プロからデビューする。

●あるとき成城の街が大洪水で冠水し多くの家屋が床上浸水したとき、三船敏郎は買ったばかりのモーターボートで町内をまわり、建物に取り残された人たちを助けてまわったらしい。

●クリスティン・ヤングは本当は何歳なのだろうか(炉利顔のハードコア女優)。
2002年9月11日(水) 東京 39歳

「911 カメラはビルの中にいた」(日本テレビ)

マンハッタンのある消防署を何ヶ月間にも渡り密着取材していたフランス人のビデオカメラマンの兄弟がいた。2001年9月11日の朝のこと、弟はガス漏れの通報で出動した消防隊長を同行取材中、世界貿易センタービルに突っ込んでいった旅客機の決定的瞬間の映像を偶然撮影した。世界に配信されたあの衝撃的映像のビデオテープは、しかしそこで終わりではなかった・・・。

弟は消防隊長に随行して旅客機が突入した世界貿易センターのタワー1の中に入った。車で1〜2分の距離だったので激突から10分も経っていないだろう。続々集まってきた消防士たちが徒歩で次々に78階のフロアに上がっていく。しかし彼らの多くは2度と地上に戻ってこなかった。弟は1階のロビーで指揮をとる隊長のそばにいるが、まもなく2機目の飛行機の突入(タワー2)をビルの中で体験。耳をつんざくような衝撃音と旅客機と壊れたビル双方の鉄槐の落下音がビデオテープに記録される。

そこから先はタワー2の倒壊→その衝撃によりタワー1からの緊急脱出→タワー1から外に出た直後にそのタワー1も倒壊→必死に走って近くの車の陰に身を潜め奇跡的に一命はとりとめる。。。

兄はビルの外にいて1機目の旅客機が突入したあと野次馬でごった返すビルの真下にいた。不安気にタワー1を見上げる群衆を撮影していると、どこからともなく轟音が聞こえてきて2機目の旅客機がタワー2に激突、周辺はパニックになる。逃げ惑う人人人。

人は一瞬にして風景が変わると心も身体もついていけず放心状態になるということがこのドキュメンタリーからわかった。ものすごい臨場感で自分がその場にいるかのように動悸が速くなり震えて祈りながらTVを見ていた。そんな危機的状況下においてモティベーションを上げて前に進む消防士の勇気には感動という言葉以上のものを感じた。

あれから1年。この事件が投げかけた問いについてもう一度直面して考えてみようと思う。
2014年9月13日(土) バンコク 51歳

雑記

・今週の「チャオプラヤ左岸派」は、過去10数年の9月第2週の出来事を多くピックアップしていますが、やはり「911」関連の日記がなんといっても目を引きます。事件の第一報は当時働いていた会社で休憩中、テレビのニュース速報のテロップで知りました。異常に興奮して何かこの思いを伝えたくなり、ネット上にすぐに文章をアップしています。

・その夜はいろいろなことを考えたのですが、その中で覚えているのが、世界貿易センタービルが倒壊したことで日本人彫刻家の流政之の作った彫刻作品「雲の砦」(WTCの1階に常設展示)は永遠に見ることができなくなったんだな、ということ。芸術作品とテロリズムの関係について。芸術は永遠のものではなく、ほんの一時期のあいだ鑑賞されるだけの存在なんだ、ということが強く印象に残りました。あとで調べると倒壊時に作品は残っていたのですが、救出活動のために撤去されたそうですね。


・そういえば、ユナイテッド航空ってバンコク=東京路線から撤退していたんだな。こないだHISで航空券探してたら、カウンターのオネエサンに指摘されて知ったのでした。何往復したかわからないほどUAは乗ったから、しみじみしてしまふ。
印象深かったのは2001年9月17日頃に乗った成田=バンコク便。その数日前に911事件では多数同僚が亡くなった(UA93便175便)ばかりだというのに、まったくそんなことは微塵も感じさせずに仕事を完璧にこなしたCAを見て、深く感動したのを覚えています。
もうタイでは乗られないのかと思うとちと寂しいですね。シンガポール便はまだあるのかな?(2014年9月3日FaceBookの書き込み)
2014.09.06 Saturday

[chapter 128] チェンマイのお濠の深さを計測してみた (2010年9月8日)






今回は4年前(2010年)の今頃の話をお届けします。
舞台はチェンマイのお堀端です。(画像は2014年8月のチェンマイで乗り合いタクシーから見た同場所)


夏だ!大人なのにこんな馬鹿をやってみた自由研究作戦 2010
*石川浩司のひとりでアッハッハー「悪の総指令塔」より


チェンマイのお濠の水深を計測してみた

私の住んでいる(注 2010年当時)タイのチェンマイは、ラーンナー王国の首都だった時代の名残りとして町の中心部に城郭跡とお濠があります。お濠はほぼ正確に東西南北の方位に沿って一辺が約1.5kmの正方形の形をしています。両側にはそれぞれ片道2車線の一方通行の道路が走っています。お濠の内側を「旧市街」、お濠の外側を「新市街」とガイドブックなどには書いてあります。
しかし実はお濠と言っても、旧市街を一周ぐるっと取り囲んでいるわけではなく、正方形の線上に5ヶ所あるレンガ製の城門の周囲は埋め立てられ広場や道路になっています。それと方向転換用のUターン進入路があちこちにあるのですが、そこも同様にお濠は埋め立てられています。もちろん地中は管が通されていて水路はつながっています。

さて、そんなチェンマイのお濠ですが、年に一度注目を集める時期があります。それは4月の中旬に行なわれるタイの旧正月のお祭り≪ソンクラン≫です。仏教国のタイではもともとは旧正月には仏像や仏塔にお清めのための水をかけたり、年長の家族に対して年少者がお清めと敬意を表すために水をかけたりする風習があったのですが、近年は儀礼的な意味合いが拡大解釈されるようになり、町行く人同士が無礼講で水を掛け合う「水掛け祭り」の側面ばかり世界的に知られるようになりました。そのいちばん有名なスポットがこのチェンマイのお濠端というわけです。タイの4月というのは1年でいちばん暑い時期であり、水をかけられてもすぐに乾いてしまうからでしょう、人々はバケツなどでお濠の水を汲み上げ、豪快に水を掛け合うのです。なかには興奮状態からお濠に飛び込んで泳いでいる人もいます。その様子を見て私は「お濠の深さってどれくらいあるのかな?」とふと素朴な疑問をもちました。いつか機会があったら測ってみたいというのが、この自由研究を思いたったきっかけです。

(資料動画 ソンクラン@チェンマイのお濠端 2010年4月15日撮影)

計測の方法は、城門やUターン進入路などで1周20個に区切られたお濠の、それぞれ任意の2ヶ所(できるだけ両端近く)の水面に物差し代わりのプラスティック製のカーテンレールの棒を入れて深さを測ることにしました。深さが2m以上ある場合はまた別の方法を再考すればいいか、とにかくこの棒で測ってみようと思いました。そしてすべての測定結果から平均の水深を算出することによって大まかなお濠の深さが得られると思いました。測定場所を増やせばより精巧なデータが得られますがこのデータを何かに応用するわけでもないのでこれで良しとしました。


長さ2mのプラスチック製のカーテンレール
2010年9月8日(火)午後1時40分頃から測定を開始しました。当日チェンマイの天気は晴れ、気温は摂氏30度を超え、またとない計測日和(?)となりました。
スタートしたのはお濠の北西の角から南方向に2番目のお濠。ここから反時計まわりで1周歩いていくことにしました。お濠の呼称はここをAとし、以後アルファベット順にAからTまで呼んでいくことにします。


お濠の地図と測定する順路(A〜T)

(A-1) 140cm
(A-2) 148cm

(B-1) 120cm
(B-2) 170cm

A、Bとまず4ヶ所測ってみましたが、これがあっけないような作業。でもこれを20X2=40ヶ所も続けるのは今日中に終わるのかなー、と早くも半信半疑な気持ちになりました。

最初の城門、スアンドーク門に着きました。


門の下を通っている用水路。小魚がたくさん泳いでいました。


このような感じで測っています。これは(C-1)で、いちばんスアンドーク門よりです。

(C-1) 120cm
(C-2) 120cm

(D-1) 125cm
(D-2) 170cm


そうこう言っているうちに早くも、最初のコーナー、お濠の南西の角が見えてきました。
角を曲がったところにベンチがあったのでいったん休憩しました。気がつくとスタートから1200mくらい移動していました。水分補給し、お濠の南側の一辺を西から東に向けて再スタート。

と思ったら、思わぬ障害が立ちはだかりました。タイ人の中年男性が付近のお濠を見ながらあっちへ行ったりこっちへ来たり動きまわり、しまいにはある一点を凝視して動かなくなってしまったのです。

私は彼のことは無視して計測に励めばよかったのですが、不審者と怪しまれるのも嫌なのでしばらくベンチに座って様子を見ていました。幸いなことに2〜3分したら、このオジサンはどこかへ立ち去っていきました。しかし、何を見ていたんだろう。

(E-1) 50cm
(E-2) 50cm


2番目の城門、スアンプルン門。
東へ。

(F-1) 95cm
(F-2) 116cm

(G-1) 116cm
(G-2) 150cm

3番目の城門、チェンマイ門。この周辺は市場と広場があり、昼夜活気のある場所です。夕方からは毎晩屋台が出て賑わっています。ベンチにて5分間休憩。

東へ進みます。

(H-1) 90cm
(H-2) 120cm


そして、いよいよ南東の角が見えてきました。・・・と思ったら、あれ??


人が泳いでいるじゃないかー!!


「気持ちいいかい?」と訊いたら「最高だよー!」と親指を立てたタイ人の少年たち。

(I-1) 175cm
(I-2) 150cm←南東の角の水深。
(I-3) 120cm

この南東の角は暑季の4〜5月はいつも子供が泳いでいました。水深も手ごろなのと、噴水があって気持ちがいいからかもしれません。
南東の角から北に進路を変えて進みます。
(J-1) 120cm
(J-2) 155cm

そして、ターペー門のひとつ手前のお濠にさしかかったとき、大問題が発生しました。

(K-1) 測定不能
(K-2) 測定不能

両岸とも土手にあたる傾斜部分が護岸工事されていて足場がないので計測ができなかったのです。20個ある中で水深を測れなかったのはこのお濠だけ。残念でしたが安全には代えられないので泣く泣く断念。

4番目の城門、ターペー門。付近はターペー広場を中心に飲食店やゲストハウスが多いチェンマイを代表する盛り場のひとつです。

セブンイレブンでジュースを買って休憩しました。時刻は午後3時45分でした。ここまでくるのに既に2時間もかかってしまってます!先を急ぐことにしました。

(L-1) 85cm
(L-2) 測定不能

(M-1) 70cm
(M-2) 測定不能


そして、お濠の北東の角が見えてきました。


北東の角です。

(N-1) 135cm
(N-2) 130cm←北東の角の水深
(N-3) 150cm

北東の角を今度は西に折れ、東から西へと向かいます。

(O-1) 90cm
(O-2) 130cm

近くにタイ人の青年が歩いていたので声をかけ、わたしの計測しているところを写真に撮ってもらいました。こんな感じでした。ちなみに日中はお濠のまわりは自動車の交通量は多いのですが、やはり暑いからか、歩いている人はほとんど見かけませんでした。

(P-1) 115cm
(P-2) 110cm


5番目(最後)の城門、チャーンプアック門が見えてきました。この付近は、お濠の両岸が土手になっていて夏草の緑がとても心地よかったです。


(Q-1) 32cm
(Q-2) 65cm

(R-1) 70cm
(R-2) 60cm


消防用のポンプを発見しました。火事のときはここから水を汲み上げて消火活動にあたるようです。


(S-1) 100cm
(S-2) 95cm


そして、ついに北西の角にやっと着きました。最後の計測をします。

(T-1) 60cm
(T-2) 155cm

これで計測は無事終了です。歩行距離約6km。終了時刻午後4時50分、なんと3時間10分をかけてチェンマイのお濠の深さを測り続けました。とても疲れましたがゴールに着いたとき、何ともいえない爽やかな気分になりました。

部屋に戻り、このレポを書くに際し、計算してみました。
計測地点は38ヶ所で、平均の水深は113.71cmでした。
もっとも深かったところで175cm、もっとも浅いポイントで32cmでした。

これを計測した9月8日はチェンマイは雨季なのですが、雨はそれほどたくさんは降るわけではないので、乾季になってもこの水位はそう変わることがないことを、最後につけ加えておきます。

はなはだ心もとないレポートでしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
m(_ _)m

波照間エロマンガ島














































































































































スアンドーク門
この門の創建は1296年マンライ王がチェンマイを建設した時に遡る。門の程ない外側にクナ王の花園があり、王は1371年そこにスアンドーク寺という修道寺院を建てた。この門はそれ以来スアンドーク門と呼ばれる。1800年頃に再建され、1966年から1969年にかけて完全に復元された。
スアンはタイ語で「公園」、ドークは「花」の意味ですからスアンドークは「花園」という意味です。現在は門のすぐ外側に花園が広がり美しく手入れされています。























































































































スアンプルン門
この門は城郭の南壁に位置し1545年にはじめて歴史的記録に現れる。名前の由来は不明である。19世紀の終り頃にはスアンプン門と呼ばれた。チェンマイの人々は死者を荼毘にふすため城の外に送るとき慣習としてこの門を通った。他の門に比べ幅が狭く小さく地味で心なしか寂しく感じます。
1966年-1969年に完全に復元された。








チェンマイ門
この門の創建は1296年マンライ王がチェンマイを建設した時に遡る。その昔南のランプーンへ向かう人はこの門を通った。1800年頃に再建され、1966年から1969年にかけて完全に復元された。
門の外には巨木が聳え、すぐ内側には寄添うように祠が祭られている。
チェンはタイ語で「都」、マイは「新しい」という意味ですからチェンマイは「新しい都」という意味です。



































































































ターペー門
この門は城郭の東城壁にあり、創建はマンライ王がチェンマイを開いた1296年までに遡る。もともとはチェンルアク村の裏近くにあるチェンルアク門として知られていた。その頃ターペー(筏の寄せば)はセーンファン寺近く城の外側の土塁にある門につけられた名前であった。
時が経ち名前が変わった19世紀の終わり頃に土塁にある門は「外部ターペー門」として知られるようになり、一方場内にあるチェンルアク門は「内部ターペー門」と呼ばれた。外部の門は後に取壊され残った内部の門が次第に短く「ターペー門」として知られるようになった。
現在のタペー門は1958年-1986年に再建されたもので、1899年に撮影された城郭の写真などを含む歴史的、考古学的資料をもとに復元された。
















































































チャーンプアック門
この門の創建は1296年マンライ王がチェンマイを建設した時に遡る。この門の名前は言い伝えによるともともとフアビアン(城郭の頭)であった。というのは城郭の頭がこの方角に置かれた。
セーン ムアン ナ王(1385-1401)の統治下、白象(チャーンプアック)の像が北門の外に建てられた。この門の名前はそれ以来チャーンプッアク門に変わった。新しい王は即位の前にこの門を通って入城した。
1800年頃に再建され、1966年〜1969年に完全に復元された。濠の内外を結ぶ道路の中央分離帯の中へ噴水に白象の像が飾られています。タイやラオスでは数少ない白象が吉兆のシンボルとして特に大切に護られています。
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