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2013.05.29 Wednesday

[chapter 61] 波照間エロマンガ島から重大なお知らせ/ 次回予告編(そのヒントとなる地図とあれ)



サワディークラップ、こんにちは。波照間エロマンガ島です。いつもご高覧いただき、有難う御座います。

もうすぐ2013年5月も終わりですね。私の住むバンコクではそろそろ雨季に入ります。これから10月下旬まで半年近く続きます。
タイの雨季は、湿度が低く、雨が日に一度降るくらいの、どちらかといえば爽やかな季節なんです。いつも曇っているので直射日光がなく、気温は下がりますし。なのでそんなにストレスを感じません。


さて、表題にありますように、皆様へお知らせがあります。


拙ブログ、「波照間エロマンガ島のチャオプラヤ左岸派」
6月より、水曜日から土曜日にお引越しします!!


スハラカリンさんの後任として、土曜日担当を拝命いたしました。
曜日が変わりましても、どうか一つ、よろすくお願いしますー。



ん? あれ?

ということは、6月第1週の土曜日はというと、

6月1日、3日後ではないですかー!!!

今日が5月29日だから3日後となります。
1週休んでもよいのですが、まぁ、ブログをアップするのは好きなので、6月1日(土)、[chapter 62] を更新する予定です。



それにしても、デニス・イワノフさんと石川浩司さんに挟まれて、なんか異様におっさん臭のする週末のニヒル牛マガジンですね。
ちょっとどうなの? わたしが土曜日に入って、こんなラインアップでいいの? って思ったりもしますが、石川あるさんや2コ編集長がよいと言うのですからよいのでしょう・・・。
ともあれ、引き続きタイのバンコクから、役に立たない情報を「これでもか、これでもか」とお届けするしょぞんです。

よろしくお願いいたします。(右の画像は特に意味はありません。mixiのTOP用に準備した画像たちです)


波照間エロマンガ島 拝



[予告]



次回は、この地図に出ている、チャオプラヤ川が蛇行して、半島状に突起している場所に行った時のことを書こうと思います。




なんか、この地形を見ると、自動的に以下のものを想起してしまいます。






エネマグラ(ググール禁止ww)


―次号へつづく―
2013.05.22 Wednesday

[chapter 60] カンパニー松尾を評価する長瀬智也/ 雨に悩める海棠(かいどう)/ 多田野数人のピッチングフォーム/ 仏誕節前夜のクン・ドーイ(ドイステープ寺院参拝)/ パスカルズ@藤沢遊行寺/ 生きている彫刻(リビングスカルプチャー)としての天使/ 鬼バックほか


今までタイで見た中でもっともセクシィと感じた涅槃仏@ワットパクナム パーシーチャロン。
トンブリーのタラートプルー駅周辺を散歩したら出くわした。アユタヤ朝時代以来の古刹らしい。(2013年5月12日)



2005年5月 / 2007年5月 / 2011年5月 / 2012年5月 / 2013年5月   5年圧縮並列日記 (16〜22日)
2011年5月16日(月) チェンマイ 48歳


パレットに水彩絵の具を溶いたような濃いねずみ色の雲。雨が降りそう。で、はたしてこの15分後にスコールが降った。

起床。よく寝た。
posted at 07:22:48

朝から雨か。ちょっと憂うつなり。
posted at 07:23:17

完全に雨季だ。
posted at 07:26:33

降って止んで降って病んで
posted at 15:33:49

自転車の空気がすぐになくなるせいか、昨日はパンクの夢を観た(セクース・ピストルズやクラッシュのほうではなく)。
posted at 15:54:52


2011年5月17日(火)

地震の夢にうなされて目がさめた。正夢になりませんように・・・。
posted at 01:30:56

某女史が言う「鎖系」(チェーン店形式の居酒屋を指す)を聞いて想起したのが、「鎖帷子(くさりかたびら)」。いつか機会があったら着てみたい。。。
posted at 01:33:47


鎖帷子

まだ完全に目が覚めてない。半分夢の世界にいます。
posted at 01:34:31

ガレージ食堂でもらってその場で肌につけた虫除けクリームの匂いがほんのりまだ残っていて気持ちいい。
posted at 01:44:11

「帰る」「帰るなよ、まだいなよ」「だって怖いんだもん」「じゃあ気をつけてな(頬にキスされた)」・・・そんな夢だった。あたしはそっちの気はぜんぜんないのに〜(泣)。怖い夢だった
posted at 01:58:16

甘くない日本のマヨネーズほしい
posted at 02:01:47

ヨダレぞ常ならむ
posted at 03:26:37

5月17日は仏誕節。タイでは仏教行事の中でとても重要な日で酒類の販売が制限される。店ではアルコールは出ないし、そもそも飲食店は休業するところが多い。静かな街になりそう。
posted at 04:09:46


2011年5月18日(水)



タイ仏教の重要な宗教行事である仏誕節が行なわれた17日は酒類の販売が制限された。セブンイレブンやスーパーマーケットでは販売中止の張り紙があったが、外国人が来るレストランなどではお酒を出す店も散見された。・・・というわけで17日は中近東料理の店でシシカバブーとビールをいただいた。
posted at 03:23:50

めがねがね、あわなくなってきたみたいなんだがね。
posted at 04:53:03




「・・・あんなのを言うんだね、雨に悩める海棠(かいどう)って」
小津安二郎「秋日和」の劇中、 田口(中村伸郎)が酒席で旧友の未亡人秋子(原節子)のことを「海棠」と言うくだり。綺麗な響きの言葉だ。・・・「秋日和」久々に観たけどいいな。1960年はもっと政治の季節だったはずだけども暢気な感じで。

*海棠(カイドウ)とは、中国原産の落葉樹で、庭木や鉢花として親しまれています。リンゴの仲間で日本には江戸時代に入って来ました。漢字で書くと『海棠』です。棠は梨のことで、海棠とは海外から来た梨という意味です。中国では古く牡丹と並び称されて人気の高い花で美人を表す言葉でもありました。

posted at 08:30:15

桑野みゆきって「日本の夜と霧」のあとに「秋日和」に出演したんだね。すごいフィルモグラフィーだ。 大島作品から小津作品へ出演。http://bit.ly/kfjhOr
posted at 15:41:48

そういえばタイではだいたいアイスコーヒーのガムシロップははじめから問答無用で入っていて甘さをコントロールすることができない。日本から初めて旅行に来た友だちの女性が呆れていた。・・・ということを今注文したあっま〜いアイスコーヒーを飲みながら思い出した。
posted at 17:25:09

先月ソンテオの中でいきなり日本語で話しかけてきた、ファランの若ハゲ男(たぶんゲイ)を近所の屋台食堂で遠巻きに目撃した(声はかけず)。どうやら近くに住んでいるらしい。メールしてみるか。
posted at 17:37:32

今日の夕食は普段あまり行かないチェンマイ門界隈で食べようということになりチェンマイ門市場前でソンテオを下り付近を歩いたのだがなかなかレストランが見つからず、ふっと気がつくとターペー門そばまで来てしまい、結局いつものイサーン料理の店で食べたという一幕でございました。
posted at 23:33:04

降ってきたー
posted at 23:36:14


2011年5月19日(木)

日本のカレーが食べたいヨ・・・。
posted at 00:03:21

世の中には面白い人はたくさんいる。でも自分がその人たちを面白がらない限り、その人たちは私に気づかれることはない。つまり面白いか面白くないかは私しだいなのだ。いつまでも面白い人に興味を持って生きたい。加齢すると肉体も精神も柔軟でなくなり新しい発見をするのが億劫になりがちなのだけど。
posted at 04:36:32

(つづき)そのからだもこころも柔軟になる第一歩として明日はマッサージに行こう。
posted at 04:38:26

今年は天使イベント行けそうにないな。残念だけど。
posted at 19:25:44

左目の目尻が痛い。ものもらいかな。
posted at 19:31:16

「小早川家の秋」(1961年) 藤本真澄が三顧の礼をもって東宝に迎え入れたという小津晩年の作品だが、確かに小津がひとり宝塚映画に出向して東宝のスタッフ・俳優を相手に演出しているので、画面に緊張感が漂っている感じがする。松竹だったらもっとゆるい感じになるのだろうけど。でも悪くはない。
posted at 19:41:30

森繁久弥は、小津に対して対抗心むき出しで、「小津に船場が撮れるわけがない」と陰口を叩くほどだったらしい。
posted at 19:46:30


2011年5月20日(金)


日本のカレーが食べたかったので日本料理のある屋台食堂へ行った。

「天使」イベントはliving scalpture (リビング・スカルプチャー・・・生きる彫刻)のインスタレーションの一形態だと思うのです。昼寝している天使はそのままで作品であり、それを眺める観衆がいて、時に天使は起きて歌を歌ったり土下座をしたり気狂い踊りをしたりする。
posted at 05:05:45

秋山駿(1930年生まれ)の「砂粒の私記」に、秋山より一歳年上の東京芸大在学の女子画学生の実際のエピソードが出てくる。挙動不審ストーカー気質の精神病の人で、小林秀雄の「モーツァルト」を読んで小林に熱を入れあげ、自宅に突撃するような女性だったのだが、彼女の素行を通し、女性をかくも魅惑する小林秀雄について論を進めていた。
posted at 05:22:39

左目目尻の痛み、まだ続いている。明日起きて酷いようなら薬を買いに行こう。できるだけ病院には行かずに治す積り。以前もこういう症状になったことがあるが酷くならないうちに治ったので。
posted at 05:27:10

NHK「ネットワークで作る放射能汚染地図 福島原発事故から2か月」を視聴。美しい日本の国土が放射能に汚染されるのは本当に許せないしやりきれない気持ちだ。番組中福島訛りの被災地の人たちの言葉を聞くたび、1月に母の葬儀で会った郡山に住む母方の親戚のことが思い出され、心配でならなかった。
posted at 06:29:45

ドラマ「デカワンコ」の中で、主演の多部ちゃんがホンジャマカ石塚扮する刑事のニックネーム「チャンコさん」を呼ぶとき、滑舌の悪さのせいか、
「ジャン子さん」に聞こえてしまうときがある。
posted at 16:53:14

で、その「デカワンコ」の第何話かで、殺される被害者の名前が毎年2月にチェンマイに遊びに来る、ある友人の本名であることに気がついたときにはドキッとした。
posted at 18:49:19

今日の夕食は久しぶりのムゥガタ。気合入れて食べにいこう。
posted at 18:50:18



ムーガタレストラン。焼肉食べ放題。まるで体育館のような巨大なスペース。チェンマイにお越しの際は一度はどうぞ。


蚊が増えた。
posted at 18:57:58

帰宅後、暑いので水シャワーを浴びた。
posted at 23:34:05

暑いし痒いし眠いし
posted at 23:35:07 

一万慈多鶴恵ってイムパクトのある芸名だな。。。 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0037100.htm
posted at 23:51:51


2011年5月21日(土)


ガレージ食堂にて


最近よく耳にする略語の中でもっともドキっとするのが「スマホ」である。いっしゅんどういう意味だっけ?と立ち止まり、もしかしてあれのこと?と勘違いし、いやいや違う、あっちのことではなく、そっちのことだよ、・・・と認識しえるまでの間に1秒近いタイムラグが発生する。罪な略語である。
posted at 01:27:48

川口松太郎「鶴八鶴次郎」は1935年 第1回直木賞を獲り、3年後成瀬巳喜男で映画化されたが、ウェズリー・ラグルス監督の「ボレロ」(1934年)とそっくりで、あまりに似ていてよく出来ているので当時のインテリ観衆はそれを分かった上で楽しんでいた云々、という言説を聞いたことがある。
posted at 05:04:52

(続き)生憎二つの映画の比較はまだしていないのでそれは死ぬまでの楽しみにしておこうと思う。
posted at 05:06:01

さっき電話のベルで目が覚めたのだが、夢の話なのか現実だったのかわからない。今とつぜんひらめいたのだが、半醒半睡の比率がちょうど50:50のときにこの現象が起きると人間は狂い死ぬということを宇宙の真理として認識してしまった。49:51や51:49では死なないのだ。(なぜ断言?w)
posted at 05:14:35

大友良英さんとダム・タイプの高谷史郎さんとの対談中、柄谷行人の最新評論「震災と日本」(現代思想5月号)について言及していたので内容を調べる。「地震がもたらしたのは、日本の破滅ではなく、新生である。おそらく、人は廃墟の上でしか、新たな道に踏み込む勇気を得られないのだ。」至言なり。
posted at 08:24:08

川口松太郎の創作原理は「換骨奪胎」であることを蓮實重彦の文章で読んだことがある。辞書を引くと「《骨を取り換え、胎(こぶくろ)を取ってわが物として使う意》先人の詩や文章などの着想・形式などを借用し、新味を加えて独自の作品にすること」とある。今の言葉で言うと「パクリ」「剽窃」か(笑)
posted at 09:06:52

(つづき)それを1935年当時の京都・鳴滝に集い「梶原金八」名義で映画脚本を執筆した脚本家グループ(通称・鳴滝組)では「心ある踏襲」と言っていたそうだが。
posted at 09:11:35

昨夜のムーガタのタレのニンニク成分がまだ口の中に残っていて洗口液でゆすいだり歯磨きしてもとれないのである。
posted at 16:47:35


2011年5月22日(日)

「接吻泥棒」(1960年東宝 川島雄三)にほとんど台詞のないチョイ役で児玉清さんが出ていたことを思い出した。wikipediaのフィルモグラフィーには書いてないな。。。
posted at 02:45:41

暑いので水シャワーしてべビーパウダー。タイ人化しているわたし。
posted at 03:33:27

女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点ををほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。(小林秀雄「Xへの手紙」 1932年)
posted at 03:45:32

蚊取り線香の煙が目に沁みる。。
posted at 04:27:25

「接吻泥棒」(1960年)は原作が石原慎太郎で、映画には一場面カメオ出演している。石原は1932年生まれだから当時28歳か。23歳で芥川賞受賞しているからもうそのころはいっぱしの作家先生になっていたのだろうか。
posted at 04:49:04

このところ近所の民家のガレージにテーブルと椅子を置いただけの食堂に足繁く通っているのだが、ここは敷居が高く初めて行ったときには「何しに来た?日本人」みたいな白い目で見られ早々に退散したのであるが、懲りずに何度も通う内にすっかり居心地のよい酒場となったのであった。昨夜も痛飲した次第
posted at 05:25:10

「トッケイトッケイ」とトッケイヤモリが鳴いているよ。
posted at 05:28:09



昨日、川口松太郎のことをtweetしたのは溝口健二の「近松物語」を久々に観て川口のことを想起したから。元々近松門左衛門の「大経師昔暦」を川口が「おさん茂兵衛」という作品に戯曲化し、さらに映画化した作品である。近松→川口→溝口・宮川一夫・水谷浩・早坂文雄ほかという日本の古今の凄い才能が結集している。
posted at 06:01:49


この続き、2011年5月23日以降のつぶやきはこちらの「今週のおまけ(2)」でご覧になれます。よかったらクリックどうぞ。
2013年5月17日(金) バンコク 50歳

昼休み、いつも行くタニヤプラザの古書店で、白洲正子「名人は危うきに遊ぶ」を購入(40B)。最近はなんとなく自分の中で白洲正子ブームで、手にとる機会が多い。日本から離れた所に住んでいるので、日本の古典芸能や伝統工芸などに関して記された文章は、渇望している心を潤してくれ、とても心地よい。
posted at 15:02:31

読売新聞政治部記者だった戸川猪佐武の「小説吉田学校」では、白洲次郎は取るに足らない小人物として描かれていて、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物であることが想起される。数年前のブームの端緒となった北康利さんの著書やNHK特集などで名誉は回復したのであろうか。事実、政治家でもない40過ぎの男がGHQと渡り合う図は同世代の人からは激しい嫉妬と嫌悪を呼んだことは容易に想像される。内外に敵は多かったのか、と。しかし、風雲児は古今東西、得てしてそういうところはあると思うが。
posted at 15:12:56

その白洲次郎の妻だった正子の随筆を最近は好んで読んでいるというわけである。
posted at 15:17:21

黒田勇樹と黒田博樹の違いがわからぬ。どっちかがホームレス俳優で、どっちかがメジャーリーガーだったか。あれ、ホームレス俳優ではなく、DV男優でしたっけ?AV男優でないことはかろうじてわかるが。別にどうでもいいことだが。
posted at 15:41:13

AVで思い出したが、矢作兼(おぎやはぎ)によると、TOKIO の長瀬智也はAVを熱く語る、ナイスガイなのだそうだ(クドカン脚本のドラマ「うぬぼれ刑事」の出演者つながり)。長瀬は、矢作にカンパニー松尾の凄さを切々と述べ伝えたという。そうか、長瀬智也は、カンパニー松尾を評価しているのか、さすがだな(笑)。
posted at 15:55:27

ん、今日はそれほど消耗しなかった。日によってへとへとに疲れる日とそうでない日と両方あるのが不思議だ。
posted at 20:02:37

不思議なことに仕事量が多いと疲れるというわけではなく、仕事量が大してなくても、異常に消耗することもある。総じて、他の人に仕事をフッたりすると、ストレスが増す。(タイ人に仕事を依頼するのは予測困難で大変なのです)私は、人を使って結果を作るよりも、一人でこつこつ積み上げていくことが好きなタイプです。
posted at 20:04:02

というわけでいちお給料分は仕事したと思うので、ビール飲んで帰ります。
posted at 20:11:19


2013年5月18日(土)

「あれ、今日土曜だっけ、日曜だっけ、あ、土曜日か」程度に寝ぼけていた、夢の世界から帰還した土曜日朝6時。なんか一雨きそうな空の暗さ。
posted at 08:09:49

1980年5月18日光州事件のニュース画像で、車の上でゲバ棒のようなものを振りかざしている男を遠景から撮影した画像が記憶に残っているのだが、検索しても見つからない。あるいは記憶の中で異化しているのかもしれない。正視するのも憚られる悲惨な画像ばかりが出てきて心が痛い。
posted at 12:48:03

今日は雨が降ったのでおもてはいくぶんか涼しく感じるかな。(Googleの温度計を見ると、32℃だが)
posted at 14:29:49

トンブリのタイマッサージ屋に行ってきた。2時間250バーツはチェンマイの数年前の価格水準。安い!腕も良い!これはお得だ!
posted at 18:38:43


2013年5月19日(日)

トンブリーにある香港点心の店









ウォンウィアンヤイロータリーからラートヤー通りを200mほど入った左側にある、本格的香港点心の店、「ヌンソットディムサム」。美味しゅうございました。点心1セイロ24バーツです。店主は香港のホテルで修業し帰国してこの店を始めたとか(バンコクの情報誌より)。
*画像クリックすると拡大表示します。
posted at 22:48:03


2013年5月20日(月)

仕事してると、「エロさん」と呼ぶ声がしたので顔を上げると、隣の席のタイ人女性が「写真撮って」とアイフォーンを差し出すので、ケーキをもった写真を激写。今日が24回目の誕生日だそうだ。おめでとう。ついでに私がバッグからマイデジカメのRX100を出すと、近くの席から「私も撮ってー」とぞろぞろ出てきた。
しかしながら、彼女も他のタイ人社員も誰ひとりとして私との2ショット写真は撮ろうとしなかった。完全にカメラマンとしか認識されてないらしい、とほほ。


2013年5月21日(火)

タイで生活していると、日本とタイの習慣や考え方の違い、カルチャーギャップにぶちあたることは、ままある。それらをいちいち追求しないで受け流していると、だんだんタイという国に染まっていく。たとえば卑近な例をあげると、ファストフード店で食べ終わったトレイや食器をゴミ箱に捨てに行かないで、そのまま席を立って帰ってしまうのはその最たるものだろう。こちらの人は誰でもそうするのだが、最近は私も食べ終わると何も考えずに席を立って帰ってしまうことが多くなったのだ。(これを日本でやってしまいそうで怖いのである)


2012年5月16日(水) バンコク 49歳

今日は曇っている。気温が上がらなければいいな(早く雨季になってくれ
posted at 08:53:05

1日150バーツ以内に出費をおさえたいのだがビールを止めない限り絶対無理。
posted at 09:10:56

食後いつも立ち寄るフルーツ屋台。おばちゃんは私の顔を見るなり「パイナップル売り切れだよー(サパロットモットレーウ)」と言う。私の嗜好を数回行っただけで記憶したらしい。それよりもパイナップルもっとたくさん入荷してほしいのだが。お昼前になくなるのはサビシイ。
posted at 14:32:37


2012年5月17日(木) 

ダルビッシュ 6勝 ベイスターズ 10勝
posted at 12:04:20

雨季に入ったっぽい
posted at 14:35:31 削除

やや、降ってきた
posted at 23:32:51


2012年5月18日(金)

昨夜かなり強い降りだったが、今日はからっといい天気。それでも陽光が射すような痛さはもうない。
posted at 14:43:43 

死んでから勝手に自分の名前を冠した賞をつけられたくないという理由で生前に自分の名前を冠した文学賞を始めた大江健三郎
posted at 14:53:24 

まゆげぴくぴく
posted at 18:20:10

一週間長かった。年寄りになると時間の流れが速くなるというのは嘘だと思った。
posted at 23:00:15

そういえば私の初海外はギリシャだったんだ。
posted at 23:01:34

アクロポリス神殿を見た帰り、歩いて山道を下りていると、突然藪の中から「日本人ですか」と作業員風おっさんが出てきて話しかけられたことを突然思い出した。あれはびっくりした。
posted at 23:05:15

そのおっさんは私のイメージとしては洞穴から出てきたようなイメージなのであった。
posted at 23:06:21

確かに徒歩5分のところにシネマコンプレックスがある環境では、映画を観まくっていたのも頷けるのだ、暇だったし。今はいちばん近い映画館は徒歩15分くらいだものなー。億劫にもなる。でも、だんだん映画を観る生活を復活させようとも考えている。
posted at 23:20:50 


2012年5月19日(土)

ジェシカ・アルバも「マチェーテ」の続編に出るんだな。楽しみだな。
posted at 01:03:18

先日、某所でとんでもない日本人に会ったのだが、私も多少は経験値が上がってきたせいか、その日本人のペースにはならずに、私の思うような着地点にグランディングして別れることができた。でも一昔前なら後味の悪い、ひょっとしたら餌食になっていた展開がありえたかもしれない。注意注意
posted at 01:26:02

誰に言われるまでもなく心は狭いです。
posted at 07:50:02

昨夜は古山高麗雄の「戦友」を読んだ(「プレオー8の夜明け」所収)。
posted at 07:52:44

タイには、なるみに似たコメディエンヌが多い
posted at 10:44:22 

ラープムー、ソムタムカイケム、カオニャオ、LEO
posted at 21:28:49


2012年5月22日(火)

最近疲れすぎていて、長文がほとんど書けない。
posted at 20:59:00

人生忙しすぎてもいけないし、暇すぎてもいけない。でも中くらいって自分でマネージしてもなかなかできないものだ。
posted at 23:16:59 

投げやりな人と槍投げな人。
posted at 23:25:38

とんかつ屋でNHKを観ていたら、スポーツコーナーで多田野が3勝目を上げた試合を紹介していて、妙に気分がハイになる。多田野の投球フォームはセクシィだと思う。さすが2chome 出身の「アス」リートだけある。。
posted at 23:30:06



今日は猫スポットを発見してひとつの達成感を感じた
posted at 23:44:44

2010年5月20日(木) プーケット 47歳
 
プーケットの夕焼け


プーケットに来ています。


2008年5月20日(火) チェンマイ 45歳
 
仏誕節前夜のクン・ドーイ(ドイステープ寺院参拝)


5月19日月曜日はタイの祝日でした。こちらタイでは旧暦6月の満月の日を
「仏誕節(ワン・ウィサーカブーチャー)」として祝う習慣があり、19日がその日だったのです。お釈迦様が生誕し、成道(悟りを開くこと)し、入滅した日として、この日はタイ上座部仏教でもっとも大切な日とされています。そしてチェンマイではその前夜、近郊のドイステープ山の頂上にあるドイステープ寺院に歩いて登ってお参りする「クン・ドーイ」という行事があってこれに参加してきました。長い距離を長時間かけて歩いて参拝することによって徳を積むという意味があるようです。



登る途中の動画映像です。暗くて見難いのはご容赦を。
ドイステープ寺院はチェンマイ市西方のドイステープ山に位置し、標高が1676m。仏舎利を収めた仏塔は金色に光り輝き、天気のよいときは、チェンマイ市内からもくっきり見えるほどです。寺院までは麓のチェンマイ動物園から約11kmの道のりで、道路は舗装されています。私はドイステープ寺院には今まで3度お参りしていますが、交通手段はいずれも自動車かバイクでした。今回、初めて歩いて登ったのでした。


アパートからファイケーオ通りを20分ほど歩いて午後8時過ぎにチェンマイ大学に到着すると、すでに大勢のチェンマイ市民が山のほうに向かって歩き始めていました。タイ人が長い距離を歩いているのを見たことがなかった私は、この光景には強いカルチャーショックを受けました。なにしろ沿道は道の幅すべて、人ひとひとで埋め尽くされているのです!信仰の力をまざまざと感じました。そして老若男女という表現がこれほどふさわしいと思ったことはないほどいろいろな階層の人がいました。子どもから若者からお父さんお母さんから壮年層まで。また制服や体操着を着て学校行事で来たとおぼしき高校生、大学生もたくさん見ました。もちろん修行中のお坊さんも。


象さんの模型やら山車(だし)やらにのせて歌舞音曲の類もにぎやかでした。スピーカーからは大音量でお坊さんの説法も聞こえてきました。これがタイなのか、と感心しました。


私は、はじめのうちは物見遊山な気持ちであちこちきょろきょろ見ながら歩いていたのですが、なにしろ人が多いので途中で止まることすらままならないのと、地面のアスファルトの硬さで、たちまち余裕がなくなり、疲労が蓄積してきました。何しろ11kmもあるのです。歩き始めからの距離も合わせると13kmくらいになり、これは渋谷から多摩川近くの私の実家までと同じくらいの距離なのです!はじめの5kmくらい(1時間ほど)で早くも気持ちはめげてきました。


ところがタイの人たちはぜんぜん普通に歩いています。途中休む人はもちろんいますが、みんな歌を歌ったり笑ったりしながら楽しそうに歩いていました。途中マラソンの給水ポイントみたいに水や軽食を無料で出してくれる場所があるのですが、皆わいわいやりながら、そのポイントで休息しながら、各々のペースで寺院を目指しているようでした。

そして登ること、なんと4時間半!!


ついにドイステープ寺院に到着しました。
時間はすでに深夜0時をまわっていました。とにかく人の数は尋常ではありません。実は寺院の入り口でタイ語学校の同級生の女性と待ち合わせしていたのですが、あまりの人の多さに会えずじまいでした。迷子も続出していたんだろうな、と思うほどでした。










おしあいへしあい、まるで正月の明治神宮のような人ごみの中、寺院の階段を登り、参拝しました。
仏塔のまわりを3周すると功徳があるというので、3周回っていちばんフロントにある仏像に拝みました。
そして帰りました。


さすがに疲労こんぱいだったのでソンテウに乗りました。登りは4時間半かかりましたが、下りは20分で降りてきましたとさ(笑)。

大変疲れましたが、本当に貴重な経験をさせていただきました。


でもあれだけ人がいたのに(おそらく十万人近い人出だったでしょう)、観光客にはほとんど会わなかったことを最後に書いておきます。ファラン(白人)に何人か会っただけでした。日本人には会わなかったです。


2007年5月20日(日) 東京 44歳

The Rock のフィギュア



先日バンコクのチャイナタウンのサンペンレーンのフィギュア専門店にて、The Rockのフィギュアを購入しました。別にマニアというわけではないのですが、プロレスラーものがたくさんあり、見た目が好かったので思わず5体ほど買ってしまったというわけです。これから折りを見て買い足していく積もりです。


2005年5月20日(金) 東京 42歳

[新・日本語] 鬼バック

真夜中、キャバクラ嬢の送りの仕事で、本鵠沼の住宅街の奥のほうのくねくねした路地を走っていた。
すると道に迷ってしまった。しかも行きたい方角は進入禁止の逆一方通行だ。わたしはUターンすると見せかけて50メートルほどその道路をバックで逆走し、違う路地に曲がり前進した。
「うそー、鬼バックじゃん、超ウケルんだけど」同乗していた19歳の女の子が言った。

鬼バックってなに?!そゆ日本語あるんだー。。。


2005年5月21日(土) 藤沢 42歳

どんとこい 遊行寺春の音祭りでパスカルズ初体験!


藤沢の遊行寺でパスカルズを見ています。石川浩司さん、ノリノリで最高ですー!

時宗総本山遊行寺。

正式名を「藤沢山無量光院清浄光寺」という。時宗の開祖一遍上人から数え、四代目の呑海上人が1325年、建立した。
一遍上人というと「踊り念仏」。700年近い時宗の歴史を経て、現代に「踊り念仏」が復活したのか。

どんとこい 遊行寺春の音祭り

2000年1月にハワイで亡くなったミュージシャンのどんとの魂を偲びトリビュートするライブイベント。今年で5回目の開催になるらしい。
フラダンスがあったり、元たまの石川浩司さんの超絶ダンスがあったり(笑)、いいもの見せてもらいましたー、って感じかな。どんとって生前ほとんど縁のなかった人だけど、こんな風に一遍上人ともつながって魂を感じることができてうれしいな。ここへ来たのも何かの縁なんだろうな。

(mixi日記の石川浩司さんのコメント)
どんとの魂が僕を踊らせました。変な動きをさせやがって〜(笑)。



(今週のおまけ)
これを書いている2013年5月21日夕方。毎週火曜日更新のニヒル牛石川ある「紹介日記ディープ」がアップされてました。「くだらない話をしてもいいだろうか?」というお題で、シャネルについて書かれています。あるさんの「シャネルってどう思う?」と読者の皆さんに問いかけの言葉があります。「エロさんや石川浩司やデニスは解答しないでいいや」と、はなからニヒル牛マガジン界隈の男性陣は解答不要を宣告されてました。

あれ、この5〜6年で、シャネルについて、なんか書いたことあるかなー?、と自分のブログやmixi 日記のログを振り返ってみました。すると、いくつか、HIT してきたので、それをここに紹介します。


2007年11月1日(木) 東京 45歳



夜、神田の居酒屋で飲み食いしてから某変態ハプニングバーへ。
今夜はお客さんも少なく静かな夜だった。最近急速に親しくなったSさんと映画談義、演芸談義で盛り上がる。原正孝と森田芳光が実験映画時代いかに斬新で天才的な作品を撮っていたかをSさんに熱く語られる。産地直送のサザエとイカなど食す。美味なり。

ママにシャネルの口紅を貰った。いつか女装するときに試してみよう。

常連客のBさん(男性)に凌辱されそうになった(苦笑)。4時32分発の山手線始発電車で帰る。


2007年5月15日(火) 東京 44歳



祖母から形見分けしてもらった母のシャネルバッグ。かなりなオールドモデルと思われます。
ほとんど使っていないので金具の繋ぎ目の状態も良好。
形見分け、と言っても祖母はまだ生きてますがww。だから単に「もらった」と言うのが日本語として正解なのでしょうけど。

いつかパーティーで女装するときに持っていこう。


以上、2件ヒットしました。シャネルのルージュ、もしかしたらメイク道具の中に紛れ込んでいるかもしれません(爆)。シャネル、好きですー。あるさん、お食事レポ、楽しみにしています。






《1年前の今頃の記事》
[chapter 8] ディスアポイントメント - ハテルマ イロマンゴ DISAPPOINTMENT-HATERUMA ERROMANGO
http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=10
2013.05.15 Wednesday

[chapter 59]  トンブリの運河にて/ 五・一五事件の檄文を読む/ ヒュンダイのショベルカー/ 仏教寺院の補修工事/ ヴィエンチャンへの旅の思い出/ ある思考実験/ 姉妹デュオ Fiomilyほか







[近況] 12日の日曜日はアパートから5kmほど離れたところにあるバーンシラピンを訪ねてきました。ここはバンコクヤイ運河沿いの昔の水上家屋を現代に再現した施設で、タイの伝統舞踊のショーとその説明があったり、仮面に色づけするワークショップがあったりして、けっこう楽しめました。
トンブリ王朝時代はこの付近は、運河が多く張り巡らされ、水運都市だったことが実感できました。しかし、チャオプラヤ川を渡ってそれほど離れていないのに、ローカル情緒があるのが不思議でした。ここで買い求めた絵葉書をニヒル牛マガジン箱宛に送りましたので、お近くの方は(そうでない方も)観に来てください。(WEBから現実にはみ出すブログです)








 五・一五事件
一九三二年五月一五日、橘孝三郎をリーダーとする海軍青年将校ら18人が首相官邸に乱入し、犬養首相を射殺した。また、少し遅れて、別部隊が内大臣邸、政友会本部、警視庁などを襲撃した。地方でも呼応する暴動があった。事件はまもなく鎮圧された。来日していたチャールズ・チャップリンも巻き添えになりかけた。
この事件により内閣は倒れ、海軍の斉藤実を首班とする軍閥色の強い内閣が組閣され、政党政治は終焉を告げた。
五・一五事件「檄文」
日本国民に檄す
日本国民よ!
刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外




交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。 政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と…日本は今や斯くの如き錯騒[綜]せる堕落の淵に死なんとしてゐる。革新の時機!今にして立たずんば日本は滅亡せんのみ。
 国民よ!武器を執つて立て、今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外に何者もない、国民諸君よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ!
而して、下の聖明の下、建国の精神に皈り国民自治の大精神に徹して人材を登用し朗らかな維新日本を建設せよ。
民衆よ!
この建設を念願しつゝ先づ破壊だ!
凡ての現存する醜悪なる制度をぶち




壊せ!
偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す。
吾等は日本の現状を哭して赤手に魁けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの。
 素より現存する左傾、右傾の何れの団体にも属せぬ、日本の興亡は吾等「国民前衛隊」決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起[蹶]する国民諸君の実行力如何に懸る起て!起つて真の日本を建設せよ!
   昭和七年五月 海軍青年将校
 不況による失業者急増、政財界の腐敗、国際情勢不安、外圧、エネルギー危機、食糧危機、等々、当時青年将校が檄文を発する背景には想像を絶する絶望と困難があったのだと推測される。この檄文を今日読むとき、軍部暴走の恐怖と嫌悪の感はあるものの、大震災と原子力発電所からの放射能漏れという未来の見えない現在の閉塞状況と重なる理由から心情を察することはできなくはない。しかし武力による暴力革命は到底容認できることではないが。





  「断腸亭日乗」 永井荷風
五月十五日。晴れていよいよ暑くなりぬ。晴下銀座に往きて夕飯を食す。日曜日なれば街上の賑ひ一層盛なる折から号外売の声俄に聞出しぬ。五時半頃陸海軍の士官五六名首相官邸に乱入し犬養を射殺せしと云ふ。警視庁及政友会本部にも同刻に軍人乱入したる由。……然れども兇漢は大抵政党の壮士又は血気の書生等にして、今回の如く軍人の共謀によりしものは、明治十二年竹橋騒動以後骨て見ざりし珍事なり。或人日く今回軍人の兇行は伊太利亜国に行はるゝフワシズムの摸倣なり。我国現代の社会的事件は大小となく西洋模倣に因らざるはなし。伊国ファシズムの真似事の如き竜も怪しむに足らずと。或人又日く。暗殺は我国民古来の特技にして模倣にあらず。往古日本武尊の女子に扮して敵軍の猛将クマソを刺したる事を見れば、暗殺は支那思想侵入に先立ちて既に行はれたるを知るべしと。この説或は正しかるべし。
 荷風の日記を読むと、犬飼首相の暗





殺は意外にもそれほど衝撃をもって受け止められていないことがわかる。前年の橋本欣五郎のクーデター未遂(十月事件)、そしてこの直前に血盟団事件があったので、軍部による政財界の要人を狙った五月一五日の暗殺テロは驚きに値しなかったのだろうか。





 ヒュンダイのショベルカー
ラオス・ヴィエンチャンのメコン川河岸の緑地公園にて。
男の子は誰でもそうだと思うが、私も子供の頃から工事車両が大好きで、ダンプカーやパワーショベルが土木工事していると、目が釘付けになったものだった。大人になり、一時期、高所作業車やダンプカー、ユニック車、アルミバンなどをリース会社から工事現場まで陸送するアルバイトをしたことがあるのだが、毎日いろいろな種類の工事車両を運転できて天国だった。その頃デジカメがあれば、撮りまくっていたんだろうな。








 仏教寺院の補修工事
ラオス・ヴィエンチャンの仏教寺院にて。補修工事で屋根瓦を下から投げて渡す映像。
 ヴィエンチャンへは十回近く行っている。主にタイのツーリストビザ取得のためのビザランであった。チェンマイからウドンターニー行きの夜行バスに乗ると早朝到着する(所要時間十二時間)。バスを乗り換え、そこから国境の町ノンカイまで向う。そこまで約一時間。そして陸路で国境を越え、ヴィエンチャンへ行く。しかし、タイ大使館のビザ申請受付が午前中で締切りなので、いつもぎりぎり間に合うかどうかというスリルとサスペンスフルな旅だったことが思い出される。






 ある思考実験(二〇〇四年五月一五日)
不図、思いついたこと。
戦争のニュースをコピぺして、固有名詞の部分に自分の身近な地名や有名人の名前、物の名前に入れ替えてしまう。その時に何を感じるか、何に直面するか。たとえば―――
聖地で戦闘続く=民兵と米軍、廟挟み対峙−イラク
 【カイロ13日時事】イスラム教シーア派強硬派の民兵組織「マハディ軍」と米軍との戦闘が続く中部の聖地カルバラでは13日も交戦があった。死傷者の有無は不明。
 カルバラやその南方にある聖地ナジャフなどではこの数日、断続的に激しい戦闘が発生。カルバラでは12日朝にかけての戦闘で、民兵側が少なくとも20人を殺害されるなど、劣勢に立たされている。
 ただ、民兵を率いるサドル師は抵抗をやめる意思を見せておらず、民兵と米軍は依然として、市内にある2つの廟(びょう)を挟む形で対峙(たいじ)している。 (時事通信)

この記事の固有名詞を適当に入れ替えてみる。









 聖地で戦闘続く=民兵と米軍、廟挟み対峙−日本
【東京13日時事】国粋右翼強硬派の民兵組織「国龍武烈軍」と米軍との戦闘が続く京都では13日も交戦があった。死傷者の有無は不明。
 京都やその南方にある聖地奈良などではこの数日、断続的に激しい戦闘が発生。京都では12日朝にかけての戦闘で、民兵側が少なくとも20人を殺害されるなど、劣勢に立たされている。
 ただ、民兵を率いる鈴木邦男氏は抵抗をやめる意思を見せておらず、民兵と米軍は依然として、市内にある2つの廟(びょう)を挟む形で対峙(たいじ)している。 (時事通信)
 村上龍の「五分後の世界」みたいだ。息がつまりそうになる位の恐ろしい世界。戦争が続き、本土決戦が行われた、という可能世界の側から物を考えてみるという事。そう、日本の国土が攻撃されることはありえない話ではないのだ。








YouTubeでいっぱいカバー曲をアップしているドイツのアマチュア姉妹デュオ、Fiomily。時間の経過が映像に定着されている。

2013.05.08 Wednesday

[chapter 58] 旅行時における呑兵衛の人と下戸の人の食に対する執着の違い/ チェンマイのスコール/ 見覚えのある室内プール/ 奥多摩 川乗山登山/ ペットショップの犬の動画ほか  


ワローロット市場入口@チェンマイ(チェンマイに進出するユニクロの広告看板が見える)

[近況] 2013年5月4〜6日までチェンマイに旅行してきました。ストレスいっぱいのバンコクの都会の喧騒から離れ、とってもリフレッシュしました。



 旅行時における呑兵衛と下戸の食に対する執着の違い
 お酒を飲まない人は酒飲みの人に比べて、旅行時は「食」の重要度ははるかに大きい。呑兵衛の人は極端な話、酔ってしまえば何を食べても、そうたいして満足度は変わらないが、酒を飲まない人は、旅行中の少ない食事機会を1回たりとも失敗したくない気持ちが強い。必然的に事前のリサーチ度がアップするというわけである。
 もちろん、酒好きで食通の人がいることは否定しません。が、旅行時の食への妥協の無さという点では、酒を飲まない人に勝る人はない、と思ったのです。






 チェンマイのスコール
 熱帯地方特有のスコール(タイのチェンマイにて)。非常に強い雨が小一時間降り、道路はいたるところで冠水する。歩行者は無理に移動することは止め、雨宿りして雨雲の通過をただただ待つよりほかない。






 見覚えのある室内プール
  男性の方はどこかで観たことがあるかもしれない室内プール。新宿にあります。名称は「花園マンション」、株式会社ピースタジオが運営しています。ハウススタジオのマンション版といったところでしょうか。そのハウススタジオに併設されているプールです。二四時間撮影可能です。(





 ペットショップの犬
 チェンマイで住んでいたアパートから徒歩五分のところにショッピングコンプレックスがあり、そこのペットショップの犬とよく遊んでいた。私は犬猫大好きで、この店にはショーウインドー越しに動物たちをよく見にきたものだ。





奥多摩 川乗山登山

2005年5月7日土曜日、奥多摩の川乗山に登った。
前日からの雨が残り、青梅で友達3人と待ち合わせたときにはまだちょこっと降っていたが、しだいに天気はよくなった。

奥多摩駅から日原鍾乳洞行きのバスに乗り20分、川乗橋バス停で下車、渓流に沿った林道を45分ほど上流に向かって歩いていく。


9時50分。ここから林道をそれ、沢のぼりルートに入る。


水量が豊かでとても楽しいコースだった。


木の橋を渡る筆者。小さなトートバッグとチューリップハットが山登りっぽくなく見える。
(わかりにくいがリュックもしょっている)


滑りやすい木の橋をおよび腰できゃーきゃー叫びながら渡る。(友人撮影)


雨にぬれた光る葉の緑が最高に気持ちよかった。


11時35分。百尋の滝に到着。ここで昼食。


やっぱ滝はヒーリング効果抜群です。






12時から登山再開。約90分かけて登頂。


このころはすっかり晴れて景色も見えるようになった。空気が澄んでいて良かった。


左側のこぶが今回登頂した川乗山(標高1364m)。


帰りは林道を歩いて下山した。あちこちに土砂崩れ&落石の痕が見られた。怖い〜。

ところが沢くだりのショートカットの入り口を間違え、林道を遠回りしてしまった。おかげで2時間近く余計に歩いた。足の裏が痛くて倒れそうになった。

[今回の成果]
・百尋の滝で長時間ビデオをまわした。(滝のビデオをコレクションしているの)
・靴擦れを起こさなかった。
・奥多摩の山の位置関係がだんだんわかってきた。
・7時間半歩きとおした

[反省点]
・午前中は調子に乗って写真やビデオを取りまくったが、昼食後、かなりバテた。そのおかげで山頂付近では映像が残ってない!
・林道のくだりで足が痛くなって失速した。
・いっぱいいっぱいになり不機嫌になった。

かなり疲れたけど、久々のトレッキングで自然を楽しめたのでよかったでございました。川登りはいいだすな。また機会があれば行こうっと。


2013.05.01 Wednesday

[chapter 57]  日本の女芸に流れている巫女的要素/ 神田川淫乱戦争/ 変態家族 兄貴の嫁さんほか

2013年5月1日(水) バンコク 50歳

日本の女芸に流れている巫女的要素

 猿女君(さるめのきみ)にゆかりのあつた神懸りといふのは、正体のない、常態を失うた境に這入る事を言ひ、巫女が神として託宣を行ふ場合には、此状態になるのが常であつた。日本の舞・歌・物語など、此神懸りから出て来るものが多数にある。酒が現今の様に時も処も定めず、用ゐられるやうになつては、此話も稍耳に入りにくいのかも知れぬが、古代に於ては、酒の用ゐられる場合は、はつきりと定り、且、其機会も、さう度々ではなかつた。神事だけに用ゐられたのである。酒を用ゐて、陶然とした境地に這入ることが、既に一つの神懸りの状態であつた。而も、さうした神酒を掌るのは女性であつた。(中略)酒を造り、酒を酌む者は女であつた。此酒により、又は暗示により神懸りする。さうして舞ひ、謡ひ、踊る。其動作・言語の中に神を見たのである。其神懸りが後に物狂ひとなつて行く。謡曲の狂ひ物は其系統に属する。博多物狂ひ・松浦物狂ひ・由良物狂ひ等、能の先行芸である曲舞の中にも其名が見える。「狂うて見せ候へ」とわきに注文せられて、狂乱の境に入る物狂ひは、大抵、さうして狂うて居る中に、尋ね廻つて居た恋しい夫なり、子なりを群集の中に見出すのである。(折口信夫「上世日本の文学」)

 戸板康二は、歌舞伎を通じて折口信夫と深く接した一人であったが、折口は歌舞伎の女方の芸には何か霊的なものが憑りついていると感じていたと証言している。このメモをとった岡野弘彦「折口信夫の記」によると、歌舞伎以前に日本の女芸に流れていた巫女的な要素が、やがて女の物狂い芸に流れていることを折口は説いていたという。大阪の商家に生まれ、幼いころから歌舞伎や文楽の世界に親しんできた折口は、「狂うて見せ候へ」と言われて狂いに入る女芸に応じて、見て居る側の心も自然に狂いに引きつけられていった。そのさまは、古代の祭りの場において現出した、神話の時間・空間のよみがえりの中で、演じる神も巫女も村人も一様に流れ込んでいく共同体の集中と興奮が当時の芝居小屋にはまだ残っていたと分析している。幼い頃から折口はその感覚に特別に多感な特質をもっていた、と。(この項、未完)
(追記)今タイに住んでいて、カトゥーイとかサオプラペッソンとかオカマとか言われる人たちに自分はなぜこれほど惹かれるのだろうということについて、もろもろ考察しているのですが、折口信夫は有益なヒントを与えてくれそうな勘があり、アカデミズムの見地からではなく、もっと下種な了見から読んでいます。
2013年4月30日(火) バンコク 50歳

神田川淫乱戦争

一九八三年八月、浜松のピンク映画館で観た記憶があるのだが、内容についてはまったく覚えていない。当時大学生の私は、同じ大学の友人の実家に二週間くらい遊びに行っていたのだが、連日海へ行ったり山へ行ったりしていている中で、何かのきっかけでピンク映画を観ようということになり、市内のローカル映画館に観に行ったのだと思う。勿論、黒沢清が監督だからとか、周防正行が助監督を務めているからとか、岸野雄一や森達也が助演しているからとか、そんな理由で観たわけではない。ただの偶然。(
2013年4月29日(月) バンコク 50歳

変態家族 兄貴の嫁さん

一九八四年製作の周防正行監督作品。「神田川淫乱戦争」同様にピンク映画館で観た。ただ、これは公開当時から小津安二郎へのオマージュ映画である噂はまわりで聞いていたので、それで自覚的に観に行ったと記憶している。内容はまったく覚えていない。(









(メモ)
*FBでいただいたコメント
しゃくちょうくう!
今も日本各地に伝わる女装の少年の雨乞いの踊り・・・とか、ヤマトタケルの女装・・・とか!わああ気になります。
2013.05.01 Wednesday

[chapter 57]  昭和後期のゴールデンウィークの過ごし方/ サイモン・ロディア / 日本の女芸に流れている巫女的要素/ 神田川淫乱戦争/ 変態家族 兄貴の嫁さん/ 日本刀と武具発掘ほか


 日本の女芸に流れている巫女的要素
 猿女君(さるめのきみ)にゆかりのあつた神懸りといふのは、正体のない、常態を失うた境に這入る事を言ひ、巫女が神として託宣を行ふ場合には、此状態になるのが常であつた。日本の舞・歌・物語など、此神懸りから出て来るものが多数にある。酒が現今の様に時も処も定めず、用ゐられるやうになつては、此話も稍耳に入りにくいのかも知れぬが、古代に於ては、酒の用ゐられる場合は、はつきりと定り、且、其機会も、さう度々ではなかつた。神事だけに用ゐられたのである。酒を用ゐて、陶然とした境地に這入ることが、既に一つの神懸りの状態であつた。而も、さうした神酒を掌るのは女性であつた。(中略)酒を造り、酒を酌む者は女であつた。此酒により、又は暗示により神懸りする。さうして舞ひ、謡ひ、踊る。其動作・言語の中に神を見たのである。其神懸りが後に物狂ひとなつて行く。謡曲の狂ひ物は其系統に属する。博多物狂ひ・松浦物狂ひ・由良物狂ひ等、能の先行芸である曲舞の中にも其名が見える。「狂うて見せ候へ」とわきに注文せられて、狂乱の境に入る物狂ひは、大抵、さうして狂うて居る中に、尋ね廻つて居た恋しい夫なり、子なりを群集の中に見出すのである。
      (折口信夫「上世日本の文学」)
 戸板康二は、歌舞伎を通じて折口信夫と深く接した一人であったが、折口は歌舞伎の女方の





芸には何か霊的なものが憑りついていると感じていたと証言している。このメモをとった岡野弘彦「折口信夫の記」によると、歌舞伎以前に日本の女芸に流れていた巫女的な要素が、やがて女の物狂い芸に流れていることを折口は説いていたという。大阪の商家に生まれ、幼いころから歌舞伎や文楽の世界に親しんできた折口は、「狂うて見せ候へ」と言われて狂いに入る女芸に応じて、見て居る側の心も自然に狂いに引きつけられていった。そのさまは、古代の祭りの場において現出した、神話の時間・空間のよみがえりの中で、演じる神も巫女も村人も一様に流れ込んでいく共同体の集中と興奮が当時の芝居小屋にはまだ残っていたと分析している。幼い頃から折口はその感覚に特別に多感な特質をもっていた、と。(この項、未完)
(追記)今タイに住んでいて、カトゥーイとかサオプラペッソンとかオカマとか言われる人たちに自分はなぜこれほど惹かれるのだろうということについて、もろもろ考察しているのですが、折口信夫は有益なヒントを与えてくれそうな勘があり、アカデミズムの見地からではなく、もっと下種な了見から読んでいます。






 神田川淫乱戦争
 一九八三年八月、浜松のピンク映画館で観た記憶があるのだが、内容についてはまったく覚えていない。当時大学生の私は、同じ大学の友人の実家に二週間くらい遊びに行っていたのだが、連日海へ行ったり山へ行ったりしていている中で、何かのきっかけでピンク映画を観ようということになり、市内のローカル映画館に観に行ったのだと思う。勿論、黒沢清が監督だからとか、周防正行が助監督を務めているからとか、岸野雄一や森達也が助演しているからとか、そんな理由で観たわけではない。ただの偶然。(





 変態家族 兄貴の嫁さん
 一九八四年製作の周防正行監督作品。「神田川淫乱戦争」同様にピンク映画館で観た。ただ、これは公開当時から小津安二郎へのオマージュ映画である噂はまわりで聞いていたので、それで自覚的に観に行ったと記憶している。内容はまったく覚えていない。(





  昭和五十五(一九八〇)年五月 17歳
 五月三日(火) 昼間、六本木のスタジオ・マグネット(旧S−KENスタジオ)にて、コールド・ジャック、ショー・ダウン、三上理子、ヴィデオ・マニエラを見た。ヴィデオ・マニエラのシンセポップの味わいが良かった。
 五月四日(水) 日比谷公園をぷらぷらしていると、野音で「ジャパン・ロック・フェスティバル」がやっていた。なんとなく入り口付近を見ると、一瞬「す」ができた感じがしたのね。俺達は無言で目配せして、ささーっと、ゲートをキセルで通りすぎようとしたら、K美以外、全員捕まってしまった。ちょうどそのときはK美の好きなパンタ&HALがやっていて、あの女は出てくるわけもなく、残った俺達は帰った。
 五月五日(木) 渋谷屋根裏に子供ばんどを見に行く。結成五百回記念ライブ、凄すぎる!3時間近く演った。ゲストは小川銀次。





  昭和五十九(一九八四)年五月 21歳
 五月一日(火) 原宿のスタジオVで待ち合わせしてラフォーレミュージアムでシンディー・シャーマン展。そのあと、歩いて渋谷。パルコ2階の「A.I.U.E.O」にて談笑。バスで帰宅。
 五月二日(水) 渋谷道玄坂つぼ八で飲み会。東大文学部社会学科の同級生グループと某女子大の合コン。東大に通ってるわけでもないのに、誘われたので行ってきた。みんなそこそこ可愛くて大人しいのだが、一人うるさい女がいて閉口、内心大変むかついた。初対面なのにすっごく馴れ馴れしい。あとから聞くとその女は***という名前で、H(高校時代からの友人)のことを追っかけているらしい。Hが来てないのでぼやいていた。有名な骨董品屋の娘だとのこと。(小津安二郎の映画にクレジットが出てきたり、谷崎潤一郎とも縁のある骨董品屋といえば、わかる人はすぐわかっちゃいますね。おっと口が過ぎ・・・)






 五月三日(木) 早朝出宅、練馬Kちゃん宅へ。そこから出発。友人4人で浜松へ。渋滞で足柄SAまで三時間かかるが、そこからはぶっ飛ばし二時間くらいで浜松に着いた。Tと合流。ホテルコンコードの展望喫茶で顔合わせしたあと浜松城見学。ボンベイ(インド料理レストラン)、洋服屋のCなどなど。たくさん移動し、たくさん飲んで食べて、たくさんの人に会い、記憶失う。 
 五月四日(金) 昼は中田島砂丘で凧揚げ祭り見物のあと、夜は法被に着替え、浜松祭り初参加。山車(だし)の先導で市内を巡回。夜中までずーっと。超面白かった。「ねり」という独特の踊りにはまりこんでしまいトランス状態になる。ぜんぜん知らない人に酒をふるまわれ、その人の家にあがって飲んだ。なぜか唐十郎が酒保にいて、真っ赤な顔して酔っ払っていた。日本の祭りグレイトな一日だった。
 五月五日(土) 日中は佐鳴湖でボート。夕方から二日連続で法被で出陣。祭り楽し。





  昭和六十(一九八五)年五月 22歳
 五月三日(金) 友人のCちゃん、Mちゃんの引越しの手伝い。弟にワゴン車を出してもらう。Cちゃんの実家の椎名町、Mちゃんの下宿先の東高円寺、新居の方南町を何回か往復。某宗教施設の悪目立ちぶりが印象的。
 五月四日(土)浅草東宝で喜劇映画オールナイト。「てなもんや東海道」「喜劇ドッキリ大逃走」「ドリフターズですよ!全員突撃」「続・社長忍法帖」「喜劇駅前音頭」の5本。沼田元氣さんがいたので挨拶する。ドリフの映画には子役時代の西崎緑が出演していた。
 五月五日(日) Cちゃんから誘われて六本木の玉椿にてCちゃんのバースデーパーティーに行く。元JのKくんとJ話で盛り上がる。二次会は新宿二丁目へ流れる。
 五月六日(月) 新宿のHの実家の焼き肉屋にて三月のヨーロッパ旅行の8ミリ&スライド上映会を兼ねた焼き肉パーティー。





 昭和六十三(一九八八)年五月 25歳 
 ロスアンゼルスに旅行しました。往路は大韓航空でソウル経由、復路はロスアンゼルスから成田まで直行便でした。相性が合い、わりと好きな都市だと感じました。ロスアンゼルス国際空港に降り立ったときにゴムが焦げるような匂いがして、その匂いが結局最後まで鼻腔をついて離れませんでした。あれはもしかしたら有鉛ガソリンの排気ガスの臭いだったかもしれないと今となっては思います。都市の規模がとても大きくて、西側のハリウッド地区から東側のダウンタウン地区までは二〇kmくらいあって、東京から横浜くらいまで行くような距離感でした。地下鉄はまだ開通してなかったのでそこをタクシーや路線バスで行き来しました。そう、あとから考えると映画「スピード」でフリーウェイを走るノンストップの路線バスが登場しますが、乗ったバスの路線はあまり変わらなかったのではないかと思うしだいです。シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠さんが初めてLAに行ったとき、「馬が車に換ったちゅうくらいで西部劇





の頃と大して変らんかった」とその印象を語っていましたが、LAはまさしく自動車社会の縮図でとにかく車がなければ移動は困難な都市でした。地下鉄が開通してない当時は、低所得者層の人の住む町からはビバリー・ヒルズなど高級住宅街には車がないと行けない感じでした。
 ダウンタウンの盛り場は昼間でもピリピリするような緊張感のある雰囲気だったとか、ハリウッドエリアのメルローズ通りのアメリカンカジュアルの洋服屋をはしごして買い物したりとか、楽しい思い出がたくさんありますが、わたくし的には「ワッツタワー」という建築物がいちばん印象に残りました。サイモン・ロディアという人が何十年にも渡り、拾ってきた廃品を使って建てた高層建築物です。彼は建築を勉強したことのない一介の労働者で、ある日突然自分の土地に見よう見まねで塔を作り始めて30数年後に完成したというものでかなりなイムパクトを受けました。尖塔が並ぶさまはガウディの聖家族教会に似ていると思いました。それを観たときはただただ視覚的に圧倒されただけだったのですが、







最近はなぜあの建物をサイモン・ロディアは建てたのか、ということに関心が向かっています。いわゆる「アウトサイダー・アート」の傑作のひとつであると思うしだいです。





 日本刀と武具発掘(二〇〇三年五月五日) 
 またしても一族的騒動が勃発。
祖父が遺した会社の旧社屋を取り壊すことになったので、後を継いだ従兄弟がいろいろ整理していたら、届け出のない日本刀や武具が出てきたとの由。祖母も叔父もだれもそんなものは見たことないという。鑑定してもらったらお値打ち品ということが判明した。警察に届け出たら調書を取られたらしい!
波乱万丈な生涯だった祖父が死して十年、孫子(まごこ)の時代にいたるもなお騒動を起こし続けている。
(参考)二〇〇一年十一月二十九日の日記
最近私の親族に起こっためちゃ恥ずかしい事件を、書ける範囲でここに暴露します。
ある日、祖母(母方)の家に一通の手紙が届いた。祖母はその手紙を開封するやいなや卒倒し、「すぐに来てくれ〜」と母に電話をかけてきた。その手紙はある人から出された内容証明付きの手紙だった。





 早速、父と母が祖母の家に行って手紙を読むと、こんな内容のことが書かれてあった。
 八年前に他界した祖父が、そこからさかのぼる事、五年前(つまり今から十三年前)に取り交わしたある土地の不動産登記証書一式が、倒産した会社の金庫の中から出てきたという。手紙はその会社の破産管財人からで、ついてはその証書について、ある人物が自分の物であると権利を主張している、事によったら法的に争うことも辞さないがどうしますか?という内容のものであった。
 両親はそれを読み、少し安堵した。というのは実はもっと悪いことが書かれているという予想が外れたからだ。祖父が生前行なった経済行為でだれかを傷つけ莫大な補償金を請求されている、とかそんな話ではないかと思っていたので、ちょっと拍子抜けしたらしい。「高額の金額を請求されてはいない、だいじょうぶ」と祖母に説明すると、祖母はいくぶんか不安も和らいだという。





 とはいえ、訴えられる可能性がなくなったわけではないので、家族と法律家の間で問題をどう処理していくか、現在検討中ではあるのだが。
 しかし、あきれ果てるのは祖父である。死んで八年経っても、まだ遺された家族をびっくりさせている。まったくお騒がせ爺さんだ。
 生前はかなり目先の利く、利にさとい商人だった。事業で儲けた金で不動産を買いまくり、土地を転がしていたらしい。それが89歳で死ぬ直前まで、そんなことをやっていたんだよ。
 若いころは「飲む・打つ・買う」オールマイティーで、西新宿の十二社(じゅうにそう)特飲街(青線)では「遊び人のシンサン」とその名をとどろかしていたらしい。自宅で開帳していた賭場に密告を受けて警察が踏み込んできて捕まった話とか、逸話が山ほどある超豪快な人だった。彼の伝記を書くのが私の夢なんだけどね。






若き頃の祖父(1934年頃)


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