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2024.01.13 Saturday

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2013.04.24 Wednesday

[chapter 56] 4月外食写真集/ あれから4年経った / 黄金餅のルート/ あなた、話があるの/ 東京の坂(1) / 道路と土手と塀(切通之写生)/ 萬年山青松寺にある石碑ほか  


クラビーのアオナンビーチにて(2013年4月12日)


2004-2005-2007-2009-2010-2013  4月19〜30日 圧縮並行日記 
食事写真 ≪2007年4月編≫

*この月に食べた主な外食写真


2007/04/10昼 タイ国際航空機内食


2007/04/10夜 バンコク・スクムビット・ソイ5・フードランド



2007/04/11朝 ドン・ムアン空港 タイ国際航空 ロイヤル・オーキッド・ラウンジ



2007/04/11夜 チェンライ  オランダ料理レストラン(ニヒル牛にあるニヒル牛マガジン箱内、波照間エロマンガ島スクラップブックにこの店で出会った美人ウェイトレスの写真を貼ってありますので見に来てください…超アナログリンクの奨め)



2007/04/12昼 チェンライ空港近くのガソリンスタンド (レンタカーリターン寸前ガス満タン)



2007/04/12夜 バンコク ミズ・キッチン



2007/04/13昼 バンコク Urupong駅 屋台料理



2007/04/13夜 バンコク ムーガタ屋



2007/04/14昼 バンコク チャトゥチャック・フードコート



2007/04/15昼 タイ国際航空機内食


2007年4月10日〜15日までタイ・バンコク〜チェンライ旅行。2003年以来、4回目のソンクラン祭り体験。
2009年4月30日(木) チェンマイ 46歳

[neta] 話し合い
986 名前:('A`)[] 投稿日:2009/04/29(水) 09:09:42 0
草なぎ「・・・みんな・・・」

(重苦しい雰囲気)
中居「剛、今お前がおかれてる状況分かるか?」
草なぎ「・・・」
木村「・・・・・黙ってんじゃねーよ!!!(持ってたクッションを投げつけ近づく)」
香取「木村君!ちょっと待ってって!」
木村「俺何回お前に注意した?俺だけじゃねーよ、中居や慎吾だって注意してただろ?」
草なぎ「・・・・・」
木村「・・・何とか言えよ!(殴ろうとする)」
香取「やめなって!!ツヨポンだってもう十分反省してるって!」
中居「慎吾!・・・事が起きてから反省しちゃ遅いんだよ。そうだろ、剛」
草なぎ「みんな…本当に…本当にすいませんでした・・・(号泣)」
木村「ったくよ・・・お前あんまり心配かけんなよ…(ソファーに座り直して髪をかきあげる)」
香取「…木村君…」
中居「・・・さて。今後どうするか・・・(横目でチラッと見る)」
稲垣「(イヤホンを外して)・・・話し合い終わった?」


2009年4月23日午前3時頃、東京都港区の檜町公園で酔っ払いが騒いでいる、と近隣住民より110番通報を受けた警察官が現場へ向かったところ、泥酔し全裸の草が一人でいた。その際、警視庁の警察官による指示に従わなかったため、公然わいせつ罪の現行犯で逮捕された。翌日に釈放され、謝罪記者会見を開いた。会見には弁護士が同席し、逮捕に至る経緯について「本人は全く記憶にない」と代わって説明した。
その後、十分反省して社会的制裁も受けたとし、5月1日に起訴猶予処分となった。5月28日には『SMAP×SMAP』の収録(6月1日放送)で仕事復帰し、5月29日の『笑っていいとも!』からテレビ出演を再開した。また、7月期の連続ドラマ『任侠ヘルパー』に主演で出演した。
2013年4月24日(水) バンコク 50歳



黄金餅のルートについて

古典落語に「黄金餅」という演目があり、五代目志ん生の名演で有名であるが、その中に江戸市中の下谷から麻布まで死体を桶に入れ移動するシーンがある。いつも地勢を頭に浮かべながら聴いている。現在もほとんど同じ道路が残っているのでイメージしやすい。かつて東京の会社で営業車に乗って仕事をしていたので、尚さら親近感をもって江戸=東京を重ね合わせて、頭の中で移動できる。ネットを検索すると文字起こししている人がいて下記に引用したので参考にされたい。それにしても陰惨な噺である。でも、人間心理の深遠を憑いていてとても惹かれる。いつも思うのは、日本の話芸の伝統上にありながらも、1930年代のイギリスのクライムサスペンス映画(渡米前のヒッチコックなど)を想起してしまうのは何故なのだろう。

(13分50秒位から)
下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。(
[追記] 噺はこのあと麻布から桐ヶ谷(現在、品川区西五反田)の火葬場に行く描写が続くのだが、桐ヶ谷斎場と言えば現在も存在する民間の火葬場であり、私にとっては前職の仏事返礼品の仕事をしていた時には、縁の深い場所であった。また、地元でもあり、多くの知人友人親戚を見送った場所でもある。
2005年4月22日(金) 東京 42歳

[動画] あなた、話があるの


Certain words can make people do funny things.

「舐める」とか「しゃぶる」とか「BJ(ブロージョブ)」とか、口腔性交を連想させる言葉に条件反射してしまう夫の性癖に悩む妻がとうとう夫に切り出す。。。(英語)

*18禁ではありませんが下ネタ満載なので嫌いな人は注意してください。

(mixi コメント欄より)
見ました!おもしろかった〜〜。こういうのを見るとその英語使うタイミングとか、状況とかよく理解できるよね。でも、よく見つけましたね。こんなサイト。これって、ケーブルでやっているFOX TVの中の「MAD TV」でしょ?
このくだらなさが大好きなんだよね、私は。

2004年4月19日(火) 東京 41歳

[絵画] 岸田劉生 /道路と土手と塀(切通之写生)


久々に岸田劉生の代々木の坂道の絵を見たくなった。検索して見つける。家に帰って画集を開くまで待てなかった。自分の中にそういう性急さがなぜか、あった。一言「凄い!」時空を超越しているとはこの絵のことだと思う。

[追記]今住んでいるタイのルーイ県やコーンケーン県の山中にはこれと同じような風景がある。その写真を撮りに行きたいと思う今日この頃。(2013/04/21)

2013年4月23日(火)
 バンコク 50歳

「勾配のあるラビリンス」という短編を書いた島尾敏雄は、横浜、長崎、神戸と坂道の多い都市ばかりに移り住んだ。(勿論それは坂を好んでからではなく、家庭の事情や進学した場所などに起因するのだが)私も勾配のある場所には強く心惹かれる。
目黒区中目黒4丁目のなべころ坂下のY字路(2007年3月)

昔、鍋が転がるほどの急坂であったことからこの名がつけられたとする説と、「なべごろ」とは赤土が水でやわらかくなった状態を示す、目黒の古い方言であったとする説がある。 私は前者の説が好きです。
(つづき)

2007/04/16夜 銀座ないん 定食屋



2007/04/17夜  原宿・京セラビル地下 中華料理屋



2007/04/20昼  地元のデニーズ



2007/04/25夜  渋谷桜ケ丘 ジョイタイム



2007/04/27昼  京橋モルチェ



2007/04/28夜 新橋焼きトン屋
東京の坂(1)


虎ノ門の江戸見坂に来ました。勾配20%。上の写真を見るとわかる通り、かなりな急坂です。ホテルオークラの近くにあります(2006/02/08)


はっぴいえんどの「暗闇坂むささび変化」で♪ももんがあ、ももんがあ、おおももんがー、と歌われた場所。大学生のときにKDDで国際電報配達のアルバイトをやっていまして、この暗闇坂は渋滞の六本木交差点を避け、溜池方面から渋谷方面に抜けるときの裏道でした。(2006/02/08)


六本木5丁目の鳥居坂。すぐ近くにある国際文化会館で学生時代、ウェイターのアルバイトをしていました。(2006/02/08)


六本木3丁目の丹波谷坂。江戸時代、旗本の屋敷があったことから名付けられたそうです。坂を折りきったところに六本木プリンスホテルがあった記憶が(2006年廃業)。(2006/02/08)


元麻布2丁目の狸坂(2007/05/10)

*というわけで、「黄金餅」から麻布界隈の坂を多く思い出したので、気持ちの赴くまま、麻布界隈の坂の画像を貼り付けてみました。
2004年4月24日(土) 東京 41歳

[雑記] 愛宕グリーンヒルズ・フォレストタワー/ 萬年山青松寺


インドネシアの独立に関するサイトをあちこちめぐっていたら、会社からわりと近くにスカルノ大統領の遺した石碑があるという記述にぶつかり、さっそく行ってみることにした。
場所は港区愛宕にある萬年山青松寺(せいしょうじ)。ここは近年森ビルが再開発した愛宕グリーンヒルズのMORIタワー(オフィス棟)とフォレストタワー(住居棟)のあいだにある寺院である。おそらく青松寺の敷地内にビルを建てたのではないだろうか。
さて、青松寺を歩いていると、フォレストタワーの建物のすぐ脇に大きな石碑を見つけることができた。


↓近づいてみた。



市來龍夫君と吉住留五郎君へ 

独立は一民族のものならず。全人類のものなり。

一九五八年二月十五日
東京にて
スカルノ


これは第二次大戦後もインドネシアに残って、オランダからの独立戦争を共に戦って戦死した旧大日本帝国軍人への謝辞である。以前NHKの『ラジオ深夜便』でそういう人たちがいるのを紹介していてとても驚いたのだが、スカルノは彼らのことを忘れなかったのだね。インドネシアが親日家が多いというのもこのあたりに起因するのだろう。
(2004/04/24/10:47)

[追記]
数日前の「ラジオ深夜便」で、第2次世界大戦インドネシア残留日本兵のオツドさんという人のインタビューを放送していた。終戦後そのままインドネシアに残り、オランダからの独立戦争をインドネシアの民衆とともに戦った日本人だという。そういう日本人がけっこういたらしい。知らなかった。話を聞くと大和魂だとか、当時の日本人の思考の原型のようなものが見えてきて考えさせられた。どうして日本に帰らなかったのか、その一点だけがとても気にかかった。



[今週のおまけBGM]

Eartha Kitt/ Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)


[1年前の記事]
(chapter 4) 彼について私が知っている二、三の事柄 Deux ou trois choses que je sais d'il
2013.04.17 Wednesday

[chapter 55] プーケットのパトンビーチにて

タイは4月13日から16日まで旧正月の祝日でした。私は11日から6連休でタイ南部のビーチリゾート、クラビーとプーケットに行ってきました。クラビは5年ぶり、プーケットはお正月以来3か月ぶりです。主に読書などしてゆったり過ごし、リフレッシュできました。少しずつ、様子を紹介していきます。

2013年4月15日お昼過ぎ タイ・プーケット・パトンビーチにて
今回、プーケットで気がついたのは、ロシア語の看板を多く見かけたことです。
そういえば、クラビからプーケットまではミニバスで移動したのですが、乗客11人中7人までがロシア人でした。普通だったら英語で簡単なコミュニケーションがとれるのですが、それも難しかった。
多く見かけたのは、ロシア人、中国人、韓国人、そしてファラン(一般的西洋人)。日本人は殆ど見かけませんでした。

プーケットはもともと西洋人向けに開発されたリゾート地なので、レストランは西洋料理やシーフード料理主体でした。最初はよかったのですが、半日で飽きてしまいました。タイのイサーン料理や日本料理が好きな私は長期滞在は難しい、とすぐに思いました。どこかに日本料理屋もあるらしいですが、たぶん高いと思われます。見かけたのは、ショッピングコンプレックスにあったフジレストラン一軒でした。そういえば中国料理屋もなかったな。辛い料理〜!(泣)
OMG!! 変態の血が疼きます。
(ゴーゴーバーやバービヤなど、岡場所情報はこのブログの趣旨と反しますので、割愛させていただきます。今回は少しだけ、フィールドワークしましたがw)
「ニヒル牛マガジン箱」というスペースを作ってもらったので、これから旅先から色々なものを郵送していきます。WEBからはみ出して、実際にこの手紙の実物も手に取って読んでいただけるというわけです。よろすくお願いします。(参照ページ




砂浜が白くてきれいでした。波はほとんどない穏やかな海。


でも、マリンスポーツってまったく縁がなくてやったことないんだよなー。

あ、デジカメを買替えました。ソニーのRX100です。これからはこのカメラでタイの風景や身近なものなどを撮っていきますので、お楽しみに。

では、また来週。


[1年前の記事]
(chapter 3) 男の子の名前はみんなエロマンガっていうのね Tous les garçons s'appellent Erromango




2013.04.10 Wednesday

[chapter 54] ひよこ八羽半/ 全裸と超全裸について/ モネ「庭の女たち」 について/ 花島優子/ 天使と鼻キッス/ L.H.O.O.Q./ ハナレイ・ベイ( 村上春樹)/ 私に何か用?/ 兆民の「三酔人経論問答」に見る思考実験の重要性ほか


songkran at Khaosan road, Bangkok Thailand (April 13, 2006)

もうすぐ、タイの旧正月、ソンクラン(水掛け祭り)です。(4月13〜15日)


1980-1999-2001-2005-2008--2009-2010-2011-2012-2013  4月1〜28日 圧縮並行日記 *画像をクリックすると拡大表示します。
1980年4月1日(火) 東京 17歳

渋谷屋根裏でシーナ&ザ・ロケッツ 3DAYS、1日目。屋根裏初のオール・スタンディング・ギグらしい。縦ゆれヘッドバンギングで2時間。浅田孟の目の前50cmのところで彼のピッキングを研究。やはりダウンアップだった。もりあがりすぎてしまいにはベースの1弦(1番太い弦)を切っちゃうほど。ベースの弦が切れるなんて初めて見たよ。
鮎川さんの名言集("Hot Line"を演奏する前の曲紹介のところで)「こないだロスに行ってきたけどほんなこつ、たいしたこたぁなかった。馬が車に代わったくらいで・・・」会場大ウケ。


1980年4月10日(木)

今日から授業。休み時間にアホ仲間とダベリング。「スネークマンショー」(TBSラジオ)で前日かかったセレクターについての談義。2トーンレーベル(UKスカ)って、N彦やK保はインチキだというけど、俺はポーリン・ブラックって、なかなか可愛いと思った。N彦が「NO NEW YORK」を買って、坂本龍一イチオシのDNAが救いがたくノイジィでいたたまれなくなるって。どれもこれもアヴァンギャルドしていて、いちばんまともなのが、ジェームス・チャンスとコントーションズだって!ゲッ!!だよね。
(メモ…なつかしい名前が出てきました。このアルバムは今も愛聴しています。DNAのアート・リンゼイは後年、坂本龍一とコラボレートしていることはご存知のとおり)

1980年4月13日(日)

朝10時フジテレビ「HOT TV」を観る。勝ちぬきバンド合戦、SKIN。POPな8ビートニューウエーブ、期待できる。ベースはダウンピッキング。マイルス・デイビスみたいに腰ぐらいの高さにスタンドマイク立てて、下を向いてシャウトするボーカルのタコ踊り。いいよぅ。曲のタイトルは『満足できない!』。

午後、歌舞伎町ACBに、無理心中、NOISE、S−KEN、突然段ボールを見に行く。
無理心中は全員女でジャンプスーツにサングラスのいでたち。演奏はまだまだ下手だけど、曲はとても面白い。「♪よだれを垂らして女を見つめる、よっぱらいはみんな死ね!」かっちょいい!!
NOISEは「音の壁」。フィル・スペクターが楽音のウォール・オブ・サウンドならば、このバンドは雑音のウォール・オブ・サウンドなのではないかっていうような。なんか、心がどよーんと重くなっていくのでした。男女2人組(男性は工藤冬里か?)。女性のレザーのミニスカートが目を惹いた。
S−KENは2回目だけど、東京ロッカーズ系のバンドの中では最高の洗練がある。ダブルキーボードの右側のほう、ディップで髪をツンツンにかためたパンクヘアの女の子はいつもプラスチックスのコンサートに来ている子じゃないか?(のちに、坂本みつわだと判明)左側のキーボードの女の人は、あと1年でおばさんになってしまいそうな中年増だけど、ルイーズ・ブルックスみたいなボブカットが可愛いんだよ。年増のボブってそそるねー。コルグのエレピの音が、エコーかけてスコーンとぬけてて気持ちいい。S−KENこと、田中唯士の着ているズートスーツは、救世軍で1000円で買ったものらしい、ってN彦が解説していたが、どうしてそんなこと知ってるんだ!!
そしてトリは突然段ボール。これぞ俺の求めていた音楽であった!冗談、ユーモア、おふざけ、ニヒリズム、奇をてらう、・・…それらすべてを内包しMIXしたような音像。ニューウエーブとビージー4の中間地帯を行くような。演奏の下手さは学ぶべきものがある。アマチュアでもコンセプトがかっこいければ、いいものができるんだ、と目からウロコ状態だった。これからも追っかけていきたい。

1980年4月28日(月)

ラフォーレ・ミュージアム原宿で、ロンドン、NYのニューウエーブのビデオクリップ集を昼から7時間くらいぶっとおしで見る。あまりに良いので途中S田に電話して呼び出すほどだった。島武実目撃。YMO(第1回目のLAライブ'78)、ブロンディー、ブームタウン・ラッツ、999(ストラップの長さサイコー)、ストラングラーズ、デッド・ボーイズ、ジョニー・サンダーズ、ニック・ロウ、エルビス・コステロ、イアン・デューリー、リーナ・ラヴィッチ、ニナ・ハーゲン、B−52's、スペシャルズ、クラッシュ、ザ・ポップ・グループ、…とにかく凄い!!今見たいバンドがすべて出ている。その中で今日の収穫が2つあって、その1つ目は、モデル・シチズンズ。なにしろ、編成が変わっていてラテン・ビッグバンドっぽいんだよね。マリンバ叩きながら、女の子が歌うの、キューンとなったよ。新しもの好きのアンテナがピピピと動いた。もう1つは言うまでもなくスリッツ。これはもうただただ最高。どろどろ溶けて3人のグルーピーになりたいよ〜ん!もう凄いんだから。マイケル・アルバートとドン・レッツが制作していると思うんだけど、あの「CUT」のジャケットのまんま、泥だらけのトップレスのネイティブ・アフリカンみたいなスタイルで、ピカデリー・サーカスに登場しちゃうの。もう半裸なんてもんじゃないよ。で、次にそこで衆人環視の中、洋服を着替えたりする。と思ったら、レッドライトで、マリファナの匂いと煙りが目に痛そうな、レゲエディスコでダブで踊る3人、に場面が切り替わり。最後は真っ昼間のハイドパークでカラオケに合わせて楽器を弾き、口パクで踊りまくる。これがもうサイッコーにばかカッコ良い!!!
2010年4月6日(火) 東京 47歳


今年3回目の「天使」イベント。鼻キッスを注文。引き攣っている私(笑)。

2005年4月6日(水) 東京 42歳

[読書] 東京奇譚集2 ハナレイ・ベイ/ 村上春樹(新潮2005年4月号)

印象的なカウアイ島と東京のカットバック。
短い小説の中で場面が数回、東京とカウアイ島の間を往復する。そのときに感じたもの。

ハワイと東京のあいだの気圧の差、気温差、湿り気の差、発語した言葉が地上に落ちていく速度(空気に吸い込まれる速度というか?)の差、聞こえてくるノイズとそれを意図的にカットするカクテルパーティー効果を持つ耳の機能、等等。ハナレイベイの風の音が聞こえたような気がした。描写のどこかに五感を刺激する言葉が潜んでいるのだろう。

小説をあまり主体的に読まないので読んだ先から忘れるんだけど、数年前に読んだ同作者の幽霊が出る短編、なんていったっけ?あ「レキシントンの幽霊」か。ちょっとだけあの作品を想起した。

謎のセンテンスがひとつだけあったので書くね(ネタばれゴメンナサイ)。

アメリカ人のボーイフレンドもできた。俳優志望のハンサムな黒人だった(後日『ダイバード2』に彼が脇役で出演しているのをサチは目撃した)。

これがだれかを想像するのも小説の楽しみかもしれない。後世の研究者はこの一文から時代設定など細かい内容を算定するのだろうか。まぁどうでもいいんだけどね。

2012年4月11日(水) バンコク 49歳

「波照間エロマンガ島のチャオプラヤ左岸派」[chapter 2] エロマンガ島から遠く離れて
Loin du Erromango http://t.co/gRgKbRv 更新しました。
posted at 01:13:54

朝起きたときから疲れている
posted at 08:51:55

今日明日なんとかしのいで大型連休で羽根をのばしたい
posted at 08:53:06

水シャワーで気分がしゃきーんとなる
posted at 09:04:50

「en-taxi」の「三島由紀夫没後35年実感特集」をぱらぱらとめくっていたらあるコラムに渡辺和博のイラストが添えられていた。あれ、あの人いつ亡くなったんだっけ?と思い検索すると2007年2月6日だった。この号が発行されたのが2006年12月。死ぬ間際まで仕事していたのだな、と。
posted at 09:43:16

あ、もう行かなきゃ
posted at 09:43:56

L.H.O.O.Q.
posted at 19:32:01

けっこう涼しい夜風が吹いているのに、帰宅して部屋に入った途端、汗だくになるのは、チェンマイではなかったこと、それだけがバンコクに住んでいての不満である。(いや、不満はもっとあると思うけど、とりあえず言葉の勢いでそう書いてみた)
posted at 21:49:17

某国境のイミグレーションにて。初老の男性が自転車用ヘルメットにゴーグルをして並んでいた。ご存知のようにイミグレでは本人確認のため、カメラに向かって脱帽でポーズをとらなければならないのだが、その男性はヘルメットもゴーグルも一切とらずにパスしていた。国家の要人なのか? 謎の男だった
posted at 21:55:27

100パイパーウィスキーのペプシ割りをいただいております。
posted at 21:56:17

お金を貯めてヤマハのFINO(バイク)を買おうと思っていたのだが、カブもいいなと思い始めている。以前、FINOをレンタルして、チェンマイから200km離れたパヤオ県にツーリングに行ったとき、尻が痛くなったことを思い出したのだ。
posted at 22:03:51

猫欠乏症、映画欠乏症、人肌欠乏症、B級日本料理欠乏症・・・、
posted at 23:09:57

洗濯物干し完了。寝てるあいだに雨降りませんように。。。
posted at 23:10:53

スギちゃんって今さっきまで知らなかった(相変わらず、浦島太郎状態)
posted at 23:43:23

2012年4月12日(木) バンコク 49歳

BTSの運賃が高いのでせめて帰りだけはバスに乗って帰ってくるようにしている。
posted at 09:35:02

今日一日働いたらいよいよソンクラン連休。
posted at 09:37:20

駅で知り合いにばったり会った。チェンマイではそういうことは日常茶飯事であったが、引っ越してきてまもないバンコクでそういうことはまだあまりない。これから増えていくのだろうな。
posted at 11:22:59

チェンマイのゆるい時間を思い出したら、懐かしくなって帰りたくなった(「行きたくなった」ではないところ、重要)。
posted at 11:26:31

夕方までに報告書2つ、提案書1つ仕上げなくてはならず、なにげにプレッシャーを感じている。ツイッターして気を紛らせている
posted at 11:45:46

小林幸子(58)の夫の林明男氏は49歳か。ほぼ同年輩なり。いくら熟女好きの私でも小林幸子を選ぶことは考えにくい。(でも、ひとの好悪の感情は奥深いなァ
posted at 12:11:31

嬌声が聞こえる。始まったか、ソンクラン。(まだ仕事中)
posted at 19:36:53

ホルモン鉄道の某メンバーの人とマイミクになった。
posted at 19:47:22

ま、まずい。またしても鼻歌で「包茎ジョナサン」が自然に口をついて出てくる。
posted at 21:27:28
1999年4月15日(木) 東京 36歳

モネ「庭の女たち」について

オルセイ印象派展(日経・文化欄)より〜



オルセイ美術館最上階に印象派の作品が並ぶコーナーがある。モネの初期(27歳)の野心作「庭の女たち」はそれらとは別格の扱いで1階の一番奥の壁面に飾られている。

壮大な画面



あまりに大きなキャンバスのため、モネは作品の上の部分を仕上げるのに庭に大きな穴を掘り、滑車とロープで吊り下げて絵を描いたという。
3人の女性はみな一人の女性がモデルと言われている。後に妻となるカミーユである。いくつか不思議な時間の層が宿っている。
モネはそのころ、パリ西部の閑静な住宅地、ヴィル・ダブレイに住んでいた。この絵はその家の庭で描かれたが、モネに無関心でおられなかった写実主義の巨匠、クールベが興味津々の面持ちで仕事を時々のぞきに来た。クールベはモネの戸外での制作に反対していたがモネはまったく言うことをきかなかった。しかしモネは陽光の射さない間は決して画面の木の葉に絵筆をつけないことにクールべは驚きを隠さなかったという。



1860年代、モネといっしょに活動したフレデリック・バジール
(1840−70)の大作「家族の集まり」。

「庭の女たち」があまりにもざん新すぎて国家主催展覧会(サロン)に落選し、バジールがこの絵を買い取った。バジールの死後、父がマネの持つ息子の肖像画と交換した。
さらに月日が経ち、モネがマネと絶縁すると、モネはこの作品を取り戻した。1921年、モネはこの絵を20万フランという高値でフランス国家に買い取らせ、大いに溜飲を下げたという。

------

この記事には大いに知的刺激を受けた。
想像力を働かせてモネの制作の現場、制作態度に近づいていけたらいいな。将来、原書の資料に当たり、研究してみたいテーマでもある。
それは推理小説の≪謎解き≫のようにカタルシスを伴う「俗っぽさ」がいい。NHKの「歴史への招待」や「堂々日本史」や司馬遼太郎のような了見で十分だと思う。
それと、庭に穴を掘って作品を制作する
というのはビジュアル的にもとても面白い。


2001年4月9日(日) 東京 38歳

[形而下的] 全裸と超全裸 (XとYの会話)

(普段考えていることを問答体で書いてみました)

X「全裸っていうのは、すっぱだかのことを言うんだけど、『超全裸』って知ってる?」
Y「知らない。何それ?」
X「『超全裸』っていうのはね、ふつうすっぱだかになっただけでは見えないところを、手で広げて見えるようにすることを言うんだ」
Y「それは女のこと?」
X「いやぁ、女も男も『超全裸』はありえるよ」
Y「???」

おそまつさまでした。くだらなすぎる……(笑)。


2002年4月11日(木) 東京 39歳

私になんか用?

机に向かって仕事をしていた。
集中して疲れたので、ちょいと顔をあげてあーっと伸びをうった。
すると視線の先に斜め前の席の女性社員が見えた。
2秒も見てなかった。
目をそらす0.01秒くらい寸前に彼女と目が合ってしまった。
すかさず彼女の突っ込みが入った。
「なに?文句ある?私になんか用?」
「・・・・・・」(絶句)
(見てないって!たまたま目に入っただけっつーの!)
でも、その会話を楽しんだ。わたし強気な女に弱いの。マゾキストだから(爆)。
ちなみに彼女は21歳です(笑)。

2001年4月10日(火) 東京 38歳

[芸能] ひよこ八羽半

さて、ここで唐突ですが、クイズです。「ひよこ八羽半」。これはなんのことでしょう?

答えは、

故・ディック・ミネのおちんちんの大きさを形容する
表現だって(笑)。
(ソース・浅草キッド「お笑い 男の星座」)

つまり、ひよこが八羽と半分乗っかるほど、巨根だったということだ。
おちんちんにひよこをのっけるという比喩が可愛らしいじゃないですか!(下品スマソ)


ディック・ミネ……昭和期の流行歌手。芸能界髄一の巨根の持ち主として「3ドブン」という隠語の創始者の伝説がある。
温泉を巡業中、ディックが風呂に入るところ、脱衣所で同僚が「ドブン」という音を3回聞いたという。つまり湯船に入るとき、右足、左足、そしておちんちんが、湯につかるとき音がでたというのだ!以来、巨根の人を「三ドブン」と呼ぶようになったとか。
わたし的には日本最古のオペレッタ映画『鴛鴦(おしどり)歌合戦』(1939年マキノ正博監督作品)でのバカ殿役がめっちゃ好きである。



かつて「美少女仮面ポワトリン」で全俺をトリコにした、花島優子のもうひとつの代表作といえば「日清食品 中華らうめん」のCM。これが「鴛鴦歌合戦」のパロディーとなっている。
こちらからどうぞ。
2009年4月12日(水) 東京 46歳

[公演] 天使〜石川浩司ボツ曲祭〜緊縛師匠BDパーティー

あと2日でタイに戻りますー。

ここのところ連日の午前様です。またまた「天使」に行ってきました。今日もたくさんリクエストしました。印象に残ったのは20時の終了ぎりぎりにやった指相撲。見事天使に勝ちました!!(だから?は?という読者の声が聞こえてくるようですがw)

それから場所を移動して石川浩司ボツ曲復活祭。存分に石川浩司の世界を堪能してきましたよ!

ライブが終わりお友達の皆さんと談笑したあとは、その場を辞去し新宿のフェティッシュバーMADDERで行われた緊縛師有末剛さんの誕生日パーティーに行きました。約1年ぶりに先生とお会いし、いろいろ話しました。有末さんはますます男の色気が増してカッコよかッたです。旧知の知人友人たちとも再会して楽しい宴でした。しかし、石川浩司ワールドと有末剛ワールドのなんと異質なこと。構成成分は水と油以上に異なります。でも、どちらも超素晴らしい芸術家の個性だと確信します。


鈴木さつき氏による渾身の芸術作品。(以上、帰宅途中の丸ノ内線にて記す)

2008年4月24日(木)
成田 45歳

今成田空港です。これから1年間の語学留学に行ってまいります。mixiは続けますんでこれから先の更新は留学日記と相成ります。

それにしてもここまでたどり着くのに尋常でないエネルギーを使いました。残務処理ほかもろもろで。ワクワクドキドキというよりも疲労こんぱい、へとへとに疲れきっています。何十回と乗ったバンコク便ですが今回は感慨が違うだろうなと予想していたのですが、さにあらず、今はすぐに眠りたいだけです。

まずは学校が始まる5月6日まではゆっくり英気を養い休息したいとぞんじます。では次はバンコクからお送りいたしますね。行ってきまーす。
2008年4月2日(木)東京 45歳

[雑記] 規則正しい生活をする身体的幸福感

私、波照間エロマンガ島は3月15日に14年3ヶ月勤めた会社を退職いたしました。それからあっという間に半月が経ってしまいました。

まず気づいたことはというと、

夜勤の仕事がいかに肉体と精神を蝕んでいたかということ。

私は夕方5時に出社して朝9時に退社する1日16時間勤務のシフトでした。これを1日おきのサイクルで14年間働き続けてきたのです。お正月、お盆、大型連休はいっさい関係なし。世間が休みのとき(土日祝祭日)には昼間も仕事していました。交代制で誰かしら会社にいなければならない仕事だったのです。1年の半分は銀座の会社に寝泊り(仮眠は数時間できる)し、休暇は同僚とシフトをチェンジしていただいておりました。つまり、自分が休んだ分は、別の機会に連続勤務して埋め合わせるというかたちだったのです。

しかもこの夜勤の仕事が非番のときには、深夜横浜のキャバクラのホステスさんを自宅に送る運転手の仕事や、日中大人のおもちゃをラブホテルに補充しに行く仕事をしていた時期もあり、正直言って身体はぼろぼろでした。
ただ夜中起きて昼間寝るというのだったらふつうの昼夜逆転の生活ですが、私は昼間も何かやっていたので不規則極まりなかったのです。

実感するのは、夜寝て朝起きるという天体の運行に従った生活がいかに身体と心にやさしく、幸せかということです。
最後の2〜3年は惰性だったという反省もあります。貴重な一度きりの人生なのに辞める決心がつかなかったこともありました。

今、海外への引越しの準備をしていて、いろいろなものを捨てることをしてとても調子がよいです。引越しって健康を快復するのには最高の機会だなぁとしみじみ思うしだいです。

それにしてもあの仕事を辞めて、本当によかった。それが本心です。定年までやっていたらきっと病気になっていたでしょう。
お金にも何よりも換えがたいのは健康だと痛感しています。
(NEWS) ニヒル牛マガジン箱にスクラップノートを置きます。4月9日に発送したので1週間くらいで着くでしょう。お楽しみに♪
2011年4月6日(木)チェンマイ 48歳

[雑記] 兆民の「三酔人経論問答」に見る思考実験の重要性

丸山眞男を読んでいて刺激を受けた箇所をノート。
それでは、問答体という点からみて『三酔人経論問答』の特にユニークな性格はどこにあるのでしょうか。こう考えて来ると、どうしても最小限度『三酔人』の内容に立ち入ることになりますが、今までの「法論」あるいはカテキズムのなかの代表的傑作を見ると、たとえば『三教指帰』にしても、一人は仏教を代表し、一人は儒教を代表し、一人は道教を代表する、という形になっています。『妙貞問答』では、一人は既成宗教――儒教であれ神道であれ――を代表し、片一方はキリスト教を代表するというふうになっています。ところが『三酔人』で登場する三人は、何かの特定の教義を代表しているのではない。(中略)
イデオロギー的にいうと、一人の発言のなかでさまざまに交錯しております。豪傑君の議論と紳士君の議論とを読みくらべてみても、まったく対立しているのでなく、非常に共通した面もある。紳士君が言っても少しもおかしくないような議論を、豪傑君が展開しているところもあります。むしろここに私は『三酔人』のユニーク性があると思うのです。この三人は、それぞれ実体的に、何かのイデオロギー的立場を代表しているのではなくて、この三人の対話を通じて複数の観点、色々な角度からのスポットライト、が投入されている――まさにそこに特色があると思います。ここで私のいう観点とは、「立場」とか、「世界観」というのとちょっとちがって、照明のあて方です。では何のために観点を複数に投入するのか、というと当時の日本が直面している問題の広さと深さ――この問題を解決するにはどれだけのことを考えなければいけないのか、あるいはこの方向に進むとこういう
谷に落ちるぞ、さりとてこっちへ行くとこういう川に流されますよという、そういう問題の所在、問題のパースペクティブを読者に示すためです。そのためにどうしても問答体をとらざるをえない。そういう複数のスポットライトを示すために問答体をとっている作品が、この書のほかに日本の思想史のなかにあるかというと、あまりないのではないかと思います。

丸山真男『忠誠と反逆』所収「日本思想史における問答体の系譜――中江兆民『三酔人経論問答』の位置づけ――」(1977年)
昨今の原子力発電について複雑に絡まりあった問題点を整理し、現状分析と未来への展望を切り拓けるのは「三酔人経論問答」のような≪問答体の思考≫ではないかと思いついた。
原子力発電はもう廃止して代替エネルギーに移行するべきなのか、それとも原発は日本にとっては止む無しなのか。
だとすれば今後二度と原発事故が起こらないためには何をしたらよいのか。電力会社とそのバックにある勢力がマスコミを支配し、言論の自由、報道の自由を隠蔽封殺していることを劇的に変えることは可能なのか、利権構造からの脱却は可能なのか・・・・・・、今までのイデオロギーに収束されない議論がこの問答体によって可能ではないかと思ったのである。(この項、未完)


2013年4月9日(火)バンコク 50歳

(すごく馬鹿なつぶやき) タイも北朝鮮もフランスもロシアも中国もインドも陸続きというのが信じられない。ということはつまり、行こうと思えば歩いてでもそれらの国に行けるということだ。

石川さんのHPの「ザ・レポート」に、ニヒル牛マガジン連載陣の講評が出ていた。ありがたいことです。 http://ukyup.sitemix.jp/re19.html

円安バーツ高加速! 10,000円=2,883バーツ↓2011年10月くらいは10000円=4000バーツくらいだったのにね。(1バーツ=2.5円) 隔世の感があります。




(今週のおまけ)
2013年4月9日(火)の出来事
2013.04.03 Wednesday

[chapter 53] 香りの記憶/ 「細雪」の列車シーン/ 新橋第一ホテル/ シンクロニシティー/ 「攝州合邦辻」に登場する俊徳丸について / タイの水道水/ 新藤兼人「愛妻記」/ どうでもいい疑問 / 自由業・引きこもり・高等遊民ほか 



  香りの記憶
東京メトロ銀座線の渋谷駅改札を出てエスカレーターで4階から3階、2階と下りてくると、鼻孔を刺激するのが東急東横店の中にある日本茶販売店から漂ってくる日本茶の香りであった。あれは茎茶とかほうじ茶のような匂いだったと記憶する。日本茶の会社で働いていたので一応知識はあるのだが、荒茶から煎茶を製造する中で取り除かれた茎や茶葉などから生成される茎茶が火で煎られると、香ばしい独特の香りが出てくる。私はその香りが大好きだった。それを嗅ぎながら、これからどこに行こうか、想いをめぐらせた。たいていは近辺の大型書店や古書センターなどのある東急プラザ側へ向うことが多かったのだけれど。しかし何年も足を運んでいないので、現在はどうなっているかはわからない。東急東横線の渋谷駅も場所が地下5階に移動して地下鉄と乗り入れになったらしい。井の頭線側から山手線を跨いで東横線駅へ渡る横断通路はどうなったのだろう。







 「細雪」の列車シーン
三女の雪子が物語の冒頭にお見合いした相手の男性を、物語の終焉近くに東海道線の列車内で見かけるシーンがあるのだが、お互い顔を合わせても挨拶するわけでもなく、怪訝な表情をする描写は、たんたんと描いているが故に、衝迫力は半端なかった。小説の中に流れている時間が露呈している瞬間だと感動した。そのとき雪子は、あんな田舎くさい人に嫁がなくて良かった、と内情を語る。「東海道線の辺鄙な駅と駅の間を、悠長な普通列車に乗って往ったり来たりしつつ年月を送るのがあの男の生活だとすれば、そんな人に連れ添うて一生を終るのが何の仕合せなことがあろう。」と。





  俊徳丸伝説
私は、以前から後藤明生が好きで、文芸誌や新刊本を追いかけていたのだが、「群像」一九九五年三月号に掲載された「しんとく問答」には強く喚起され、同年八月、わざわざ小説の舞台である大阪の俊徳道界隈まで足を伸ばしてみたほどであった。いつかこの旅行のことはブログに書きたいと思っているが(書かないかもしれないが)、それ以来、なんとなく、俊徳丸の話は、頭のどこかに沈殿している。先日、バンコクの古書店で折口信夫の「死者の書―身毒丸」を買い求め、読んでみた時に、そちらへの興味が再燃した。




(資料) 
わたくしどもには、歴史と伝説の間に、さう鮮やかなくぎりをつけて考へることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法を疑うて居ます。史論の効果は当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或は更に進んで劇の形を採らねばならぬと考へます。わたしは、其で、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うて見たのです。この話を読んで頂く方に願ひたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語りてといふ立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の経路は、わりあひに、はつきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴はるべきものだけは這入つて来ても、決して生々しい作為を試みる様なことはありません。わたしどもは、伝説をすなほに延して行く話し方を心得てゐます。(略)わたしは、正直、謡曲の流よりも、説経の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれてゐても信じたいと思ふ要素を失はないでゐるもので、同時に日本の歌舞演劇史の上に、高安長者伝説が投げてくれる薄明かりの尊さを見せてゐると考へます。
  折口信夫「身毒丸」(附言より) 大正6年






 井上ひさし「夢の泪」
 井上ひさし「夢の泪」(戯曲)読了。一九四六年四月の新橋第一ホテルが舞台となっていて驚いた。一九八二年頃、新橋第一ホテルでアルバイトしていたので大体の地勢を知っていたのだ。あの場所から第一生命ビル(旧GHQ)や皇居を臨む図を想起しながら戯曲を読むと、妙にリアリティーが生起された。
新橋第一ホテルは、当時としては東洋最大の客室数六三八室と全館冷暖房完備という設備に、低料金で宿泊できる料金設定という革新的コンセプトのもと、一九三八年に創業された。本館は一九九〇年頃に取り壊された。




 さて、井上ひさしというと、シンクロニシティーに関するネタが一つある。
 大学時代やっていたKDDの国際電報配達のアルバイト中、移動中の地下鉄車内で叢書「文化の現在〜時間を探検する」(岩波書店)という本を読んでいたのだが、著者の井上ひさしが大学時代に新宿区四谷にあるキリスト教系某教会に下宿していたというくだりをちょうど読んでいるときに、その同じ教会に電報を届けたという出来事があったのだ。
 ただ目的地に電報を届けるため移動していただけなのに、本の中に今現在居る場所が出てきた瞬間の衝撃。本の中の時間と現実の時間が私という存在を通じて繋がってしまったという、単なる偶然以上の意味を感じた体験だった。





 タイの水質
タイの水道水は硬水である。生活するようになった当初からこの水に悩ませられてきた。シャワー時にどんなシャンプーを使っても、髪はさらさらになるどころか、ぼっさぼさに逆立ってしまうのだ。くせ毛なので特に自然乾燥すると酷いことになる。ストレスになったのでおもいきって髪の毛を短くしたものの、髪型にはいつも納得せずに時は四〜五年過ぎていった。さて、最近気分を変えて少し髪を伸ばそうとしている。
硬水ということは、洗濯にもあまり適さないので、一張羅のシャツはできるだけ着ないようにして、安い衣料を着倒すように着ることを心がけている。





 新藤兼人「愛妻記」
「落語の覚悟」対談(談志vs 談春vs 福田和也)
家元(立川談志):だけどこまつ座の俳優、木場勝己っていうのはいいねえ。テレビで新藤兼人監督の「病寐六尺」、正岡子規のドラマをやってたんだ。木場の西瓜の食い方がうまくてね、「おめえ、いい食い方してんなあ」って俺が褒めたら、その晩嬉しくてしょうがなくて、酒ガブ飲みしたって。それで家帰って、女房起こしてヤッたってんだ。いい話だろ?
福田和也:それはいい。新藤兼人の「愛妻記」は読みました?新藤さんは六十超えて女優の乙羽信子と結婚したんだけど、あれを読むと死ぬ間際まで毎晩ヤッてたって。
家元:エライねえ。俺、新藤兼人は買ってるよ。(en-taxi 2005年春号より)





 どうでもいい疑問
心の中に浮かんでいる、年来抱いているどうでもいい疑問
・吉行あぐりさんは市ヶ谷駅前に美容院を経営していたから、長女の吉行和子さんは近所の女子学院に入学したのか、とか。
・武者小路実篤の不肖の息子は、あちこちで借金を抱え無銭飲食を繰り返し、そのたびに実篤が尻拭いでその店に飲食代を支払いに行くと、そのついでに例の「仲良きことは良きことかな 実篤」という色紙を書きまくって、それが後世やたらと骨董市場に出回ってるという話は実話なのか、とか。





 自由業と引きこもりと高等遊民の違い
 先日、あるネット上のしゃべり場で、私が推測するところ多分引きこもりの人が、自らを自由業と名乗っていたので、ちょっと引っかかった。自由業の定義についてもう一度、おさらいしたくなり、調べてみた。
 まずは「自由業」について。
(以下引用、ここから)専門的な知識や才能にもとづく職業への従事者で,雇用関係から独立した職業分野。開業医,弁護士,芸術家などを指す。この意味で専門的職業professionsに近い。産業社会の初期において自由業者は,新興の資本家・経営者や雇用労働者とは区別されて,その職業上の独立性と学問的裏付けをもった専門的知識とによって,一般に高い社会的地位を得ている。(引用ここまで)
 次に「引きこもり」とは
(以下引用、ここから)仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6ヶ月以上続けて自宅にひきこもっている状態」時々は買い物などで外出することもあるという場合も「ひきこもり」に含める(厚生労働省による)(引用ここまで)
そして、「高等遊民」。ちょっと古い言葉で、最近は問題視されているわけではないけれども、「引きこもり」と通じる部分もあり、比較対照





することができるかもしれない。
(以下、引用ここから)高等遊民(こうとうゆうみん)は、明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由が無いため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと。閲覧できる範囲では読売新聞一九〇三年(明治三六年)九月二五日の「官吏学校を設立すべし」での論説が高等遊民に触れられている最も古い資料である。また、一時期は上級学校への入学や上級学校卒業後の就職が叶わなかった者が高等遊民となり、高等知識を持った彼等が自然主義、社会主義、無政府主義などの危険思想に感化され、それらが社会問題に繋がると考えられていた。
 高等遊民はなんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めていたりした。夏目漱石の作中にしばしば用い、『それから』の長井代助及び『こゝろ』の先生、川端康成の『雪国』の主人公のように、しばしば文学のテーマとしても取り上げられた。石川啄木は旧制中学校卒業後に立身出世がかなわず父兄の財産を食い潰して無駄話を事業として生活している者を遊民としていた。
 最終的に昭和初期満州事変・日中戦争へと続く対外戦争の中で起きた軍需景気により、就職難が解消し、国家総動員体制の元で何らかの形





で戦争へ動員され、高等遊民問題は解消に向かっていった。(引用ここまで)
 自分なりにそれぞれを認識すると、
・自由業というのは、拘束がなく自由気ままに生活している、という「自由」業という意味では断じてなく、専門技能をもち、それをもって生計を立て、納税している人のことを指す。
・引きこもりというのは、精神的または肉体的に病気ではないのに、(主に)親など近親者に寄生して生き、長期にわたって社会活動に従事せず、ほとんどの時間を自宅にこもっている、ないしはたまに外出する人のことを指す。彼らの大部分は納税はしていないから、社会通念上、または倫理上、しばしば「ごくつぶし」などと非難されることがあり、昨今社会問題化している。引きこもりの人とインターネットの相性は良く、社会生活を行っていないのに、インターネット上では人格を作り活発に会話したり、政治的や趣味的な発言(時には匿名性を利用した過激なアジテートや、犯罪に加担することも)したりする人もいる。が、ステレオタイプな偏見から逆に差別が助長されるケースも散見される。
・高等遊民というのは、経済的に不自由がない、労働に従事することなく、趣味や旅行などの自分の好きなことに生きている人のことを言う。





言葉のニュアンスとして引きこもりと異なるのは、家の中に閉じこもっているわけではなく、普通に外出したり社交をしている印象があるが、個別に内容はさまざまなケースに分かれるかもしれない。収入(報酬)を得た時点で、相続税や贈与税、源泉徴収など税法上の手続きが行われているはずだから、納税は行っていると考えるべきである。(私もチェンマイ滞在中、仕事はしてなかったが定期収入があったので、確定申告していた。その意味で高等遊民だったのかもしれない)
 最後に東洋的見地から見た「自由」の意味について、鈴木大拙の文を紹介してこの項を終わりにする。
(引用ここから)「自由」は、今時西洋の言葉であるフリーダムやリバティのごとき消極的・受身的なものではない。はじめから縛られてないのだから、そこから離れるだとか、脱するなどいうことはない。漢文的にいうと、任運騰騰、騰騰任運、また妙好人浅原才市翁の方言まじりの表現を借りると、「・・・・・・どんぐり、へんぐりしているよ、今日もくる日も、やあい、やあい」である。何ともかとも、とらえどころのないところから出て来るはたらきは、遊戯自在(ゆげじざい)というよりほかない。(引用ここまで)
 鈴木大拙「東洋的な見方」(一九六三年)





[追記] いつもご高覧いただきありがとうございます。拙ブログ「波照間エロマンガ島のチャオプラヤ左岸派」も、スタートして今週で丸1年が経ちました。これからもよろしくお願いしますー。

[追記2] 自分の人生を振り返ると、学生時代を終え社会人になり、20年ちょっとの間ずっと働き続けました。が、思うところあってある時、職を辞し、異国で語学を勉強する生活を始めました。はじめは学校に通った2年後には社会復帰する予定でいたのが、語学学校を卒業後、ずるずると怠惰なモードに浸り、毎日特に生産的な活動をするわけでもなく、気がつくとそこからまた2年近く時間が経っていました。さすがにこのままでは社会不適合者になってしまう、人間として最低レベルに堕落してしまう、これではまずい、と一念発起し、なんとか社会復帰したしだいです。この先、またダークサイドに落ちないとも限らないですが、おそらく生来の臆病さと真面目さにより、身体が動かなくならない限り、そちら側の世界に行くことはないとは思います。(しかし、誰でもそうだと思いますが、未来に何が起こるかはまったくわかりませんが) また、Twitterのログを振り返ってみると、ぶらぶらしていた時はやたらとつぶやいていることが、このブログでも確認できると思います。それが良いか悪いかは別として、2012年4月、去年の今頃は、就職したばかりでそんな余裕はまったくありませんでした。それは当然のことでしょう。現実世界の仕事の過酷さにアップアップしていたのですから。そんな中、ちょっとずつ業務に習熟していき、多少は状況の全体が見渡せるようになっていけるようになってきたと自負しています。過去のログを編集してばかりいたブログも、ちょっとずつ今のバンコクでの生活を反映した内容に変化していくのではないか、という予感があります。この年齢(50歳)になると、無理をして背伸びして自分を取り繕ってもろくなことはないことは分かっていますので、ごく自然体に思うところ、感じるところを述べていきたいと思います。でも、人間としてまだまだ未熟で、考えが深く掘り下げられず、うわべをなぞった自意識過剰な内容になるところはご海容頂きたいですが。
というわけで、長くなりましたが、次週からもだらだらお送りいたしますんで、とりあえずよろすくお願いいたします。

 
Amari Rinkam Hotel にて(2011年2月)


[おまけ]
音声日記(2007年7月5日 自己紹介)
http://miloliiblog.up.seesaa.net/image/KeVYyCNAMGY.mp3
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