2013.01.30 Wednesday
[chapter 44] 蜂の巣ダンス/ リアル・ミッキー/ ふわふわ時間/ エビス/ タニヤ/ ハワイでのある初体験/ 水流音発生器/ ニヒル牛マガジン箱ほか
パリのサンドニ門(2007年)
2013年1月30日(水) バンコク 50歳
*最初縦書きにて発表した記事を横書きにして改変しました。(2017年5月6日)
2013.01.23 Wednesday
[chapter 43] 職務質問/ 仮説/ 哀傷(ピエタ)/ 東京地裁/ チェンマイジョーク/ 伯林の中村屋/ アミダラ湯/ 芸能人の親戚/ コンパートメントにて/ 中央分離帯で見たもの/ 九相詩絵巻 ほか
二〇〇一年一月二三日 火曜日 東京 三八歳
職務質問
今から15分くらい前、会社の建物を出たところで、警官に呼び止められ職務質問を受けた。このビルに不審者がいるという通報があり急行したところビルからちょうど不審な男(私)が出てきて、疑われたというわけだ。
もちろん身分はすぐに証明され放免された。お巡りさんにちょっと話を聞くと、最近銀座では空き巣が多くかなりの被害が出ているらしい。(中国人の組織的な窃盗団だという話だ)泥棒の特徴は空き巣ねらいだが、人と鉢合わせしたりすると口封じのために有無を言わず殺したりするらしい。おいおいまじかよ。そのお巡りさんも職質で声をかけたら、いきなりモデルガンの改造銃で発砲されたことがあると言っていた。
物騒な世の中になってきた。私が勤める会社のビルはシャッターが22時45分に閉るんだけど、それまでは出入り自由なんだよ。急に怖くなった(ぞぞー、怖気)。
二〇〇二年一月二三日 水曜日 東京 三九歳
仮説
人間はただ生きているというだけで誰かを傷つけてしまう。
というのは人間は完全に一人だけの自給自足生活をすることはほぼ不可能で、かならず誰かと関わらなければ生きていけない社会的な動物だからである。関わる以上、そして人間は感情を持つ以上、傷つけようとしなくても自分の言葉や現われは、時に人を不快にさせ、落ちこませるのは当然だろう。インターネット空間でもそれは当てはまる。
故意に傷つけようとは思わないが、もしかしたら傷つけてしまうかもしれない。言葉が足りなくて。または傲岸不遜な態度とあなたに映り。そのとき傷つけてしまったらごめんなさい。自分の伝えたい意図がたぶん伝わらなかったのでしょう。でも何度か反応を確かめつつ伝えつづけて、それでもし分かり合えなくても、それは仕方のないことだと思っている。あなたとわたしは分かり合えない。だからあなたはあなたの人生を生きてください。わたしはあなたを干渉しません。
この考えを敷衍(ふえん)していくとき、自分ははたして人を訴えたり、復讐のために人を陥れようとしたり、はたまた戦争に加担したりすることはあるだろうか、と考えてみる。
よくわからない。それはそういう機会が訪れていないからである。しかし、未来は何が起こるかわからない。昨年9月11日以上の災厄が起こらない保障は何もないのだ。戦争やテロに加担する所までいかずとも、他人を攻撃してしまうことはないか、と。……究極の選択を迫られる日は来ないとも言い切れないだろう。
二〇〇四年一月二三日 金曜日 東京 四一歳
「学歴詐称」VS「変態」
学歴詐称疑惑がもたれる民主党衆議院議員の古賀潤一郎氏は、疑惑を払拭するべく「自分探しの旅」で渡米中。いつ戻ってくるのだろうか。
古賀議員が選出された福岡2区は前回の総選挙で自民党の山崎拓氏が落選した選挙区でもある。もし古賀氏が議員辞職して再選挙になったら、山崎氏は立候補するのだろうか。しかしそれにしても「学歴詐称」と「変態」が同じ選挙区で有権者の代表として国政に参加せんと闘うという、この国の政治的貧困の象徴ともいえる出来事ではある。
しかし、「学歴詐称」と「変態」ではどちらが罪深いのであろうか。「変態」は当事者同士が気持ちよければまわりに迷惑をかけないのであって、どちらか一方が苦痛に感じたりその行為を容認できなくなったときに露呈されるだけだから、まぁ「変態」のほうが許されるのかなぁ?「学歴詐称」は公の場所で嘘をついて他人に迷惑をかける行為だからこちらのほうがいただけないよね。犯罪だし。・・・しかし、なんてくだらない話題なんだろう。
二〇〇五年一月二三日 日曜日 東京 四二歳
哀傷〔ピエタ〕
ぐったりと、仰向けになった上半身を、背中から支えた聖母の手は、すでに硬ばって突きだされたクリストの右腕に半分隠れながら、ひろがり過ぎるほど開かれた五本の指で、ぎゅっと吸盤のように息子の腋の下を締めつけている。激動のあらわな表現は、すべてを通じてその右手だけである。……私はふと能の『隅田川』の母親をその姿に感じた。飽くまで高貴に端正な細面は、ほのかに浮かぶ優しい憂いの翳とともに、『隅田川』のシテがつける深井の面に似ており、また聖母の俯向いた角度が、わが児をワキの「語り」で聴く時の、能の母親の面の曇らし方にそっくりであった。 (野上弥生子「欧米の旅」より)
それにしても、このマリアの不思議な若々しさはどうしたことだろう。あたかも、ひとりの男にとっての、母であり、恋人であり、妹であり、娘でもあるという、女性としてのすべての要素を抱え込んでいるかのようだ。私は今までにこれほど美しい女性の姿を見たことがないように思った。 (沢木耕太郎「深夜特急」より)
一九三八年一一月、野上弥生子はローマのサン・ピエトロ寺院を訪れ、ミケランジェロの「ピエタ」を見ている。沢木耕太郎はおそらく一九七四〜五年のいつか、ユーラシア大陸横断の旅の途中で「ピエタ」を見ていると思われる。
二〇〇六年一月二三日 月曜日 東京 四三歳
昭和〜戦争と天皇と三島由紀夫(保阪正康)
読書メモ。
◆二・二六事件の処刑前に西田税(みつぎ)は、「天皇陛下万歳!」を三唱して死にましょうかと提案しほとんど全員がそう叫んで逝ったが、一人だけ、安藤輝三大尉だけは「秩父宮殿下万歳」と叫んで逝った。(松本健一)
◆一九六〇年代、宮中の内部で起こった「魔女問題」。今城誼子(いまき・よしこ)(*)という女官が祭祀の厳格な実行にうるさく、香淳皇后までが今城の影響を受け、宮中祭祀の簡略化をすすめようとする入江相政侍従長に対して激しく抵抗し反対した。最終的に入江が今城を罷免するのだが、その頃から香淳皇后の体調がすこしずつ悪くなっていった。(原武史)
◆近代日本の皇室典範のなかでなぜ女帝を規定しなかったか、天皇は男に限るかといえば「女性は軍人になれないから」。近代日本の天皇は軍人であり大元帥であった。その発端は西南戦争まで遡る。このときの新政府軍の征討大総督が有栖川宮熾仁(たるひと)親王。当時の軍隊は緊急措置として部隊を動かすにもいちいち政府にお伺いを立てなければならなかった。これは戦争を遂行する上で非常に不都合。ゆえに軍隊
は政府の外側に置いて、許可をいちいち求めなくてもいいように山県有朋らは考えて、統帥権というものが確立していった。(半藤一利)
◆木下道雄の「側近日記」によると、敗戦後、国民がボランティアで皇居に入りさまざまな奉仕をする勤労奉仕が始まる。いち早く駆け付けたのは宮城県の青年団だったが、二番目に来たのが羽仁もと子、吉一夫妻の自由学園だった。清掃をしたり「君が代」を歌ったりして、それを天皇、皇后両陛下が聴き感心したという記述があった。自由学園のようなキリスト教的教育を行っている学校が、無私の精神で清掃を行うのを見て、実はキリスト教というのはこういうところもあるということを体験を通して実感されたのではないか。日本国の共産化防止のために「キリスト教信仰」を肯定するということ。(原武史)
二〇〇七年一月二三日 火曜日 東京 四四歳
東京地裁で裁判傍聴
夜勤明けで霞ヶ関の東京地裁へ。
今日は村上ファンドの村上世彰被告の公判が行なわれていてマスコミ各社が正面玄関に陣取っていたようだ(裏の日比谷公園方面から入館したのでわからず)。まだ傍聴券の出る注目案件の傍聴はしたことはない。そのうち聴いてみようと思う。今日は先週傍聴した何件かの判決が出るので来たしだいである。が、せっかく来たので審理も傍聴することにした。
書きたいことはいろいろあるが、裁判についてまだ自分の中で機が熟さないというか、掴みきれていないので、内容については書かないことにする。しかし気づいたことを少し箇条書きで書き出してみる。
・中国人の被告に対する判決で、裁判官が読み上げた判決文を通訳が中国語に翻訳して朗読していたときに、午後一で食後すぐだったからか、検事、事務係官がうとうとと舟を漕ぎそうになっていたのを見逃さなかった。中国語が子守唄のように睡魔を誘発したのだろう。被告の隣にいる警務官と弁護士はその限りではなかったが。人の人生が決定されようとする場面でそれはないんじゃないか、と思った。
二〇〇九年一月二三日 金曜日 清邁 四六歳
空間感覚と引越しへの想い
家から会社まで、会社から家まで。または家から学校まで、学校から家まで。
通勤や通学の路(みち)は地図上で見ると、1本の線で表すことができます。日常生活を送るにあたっては、この線の端から端まで限りなく往復運動することが日夜行われていきます。
人間は同じ場所で同じ行為を習慣的に繰り返していくとその場所に馴れていき、その場所へ帰属、あるいは土着の意識が芽生えたり、または特別の愛情でその場所を愛するようになります。どうしても相性が悪くて愛せなくなったら、その場所から引っ越すでしょう。
さて、同じ場所を歩いて通過したり、バスや電車の乗り換えで降り立ったりしても、向かっている方向が違うだけで、その場所から受ける印象はまったく違うものになります。
私は92年から95年までJR目黒駅の近くに住んでいましたが、最初は山手線外回りで池袋の
会社に通勤していました。それが勤め始めて三ヶ月もしないうちに会社が銀座八丁目に移転してしまったので、今度は山手線内回りで新橋まで通うようになりました。目黒から池袋へ向かうのと、目黒から新橋へ向かうのとでは、通勤時間の印象は一変しました。目黒駅のホームに立ったとき、「これから池袋に行く」というのと、「新橋に行く」というのでは、同じ駅、同じプラットホームなのに、意識も風景もまったく違っているのは、驚いたものでした。
この言葉にならない(アウトオブワードな)感覚を誰かに伝えたいなあ、と思ったことを覚えています。そのころはブログもmixiもなかったので、そのとき感じたことを発表する機会はありませんでした。今、初めて書きました。
さて、今わたしはある外国の都市で生活していますが、4月に引越しする予定です。それで最近は物件まわりをしているのです。こちらでは日本と同じように不動産屋さんが物件をあっせんしてくれる場合もありますが、住みたいマンションやアパートメントがあったら、直接受付に行って、談判するというスタイルのほうが一般的です。
新しい線を引くと考えるだけで、ウキウキわくわくしてきます。今度は山のふもとの動物園のそばか、大学の正門近くに住もうかと考えています。
二〇一〇年一月二三日 土曜日 清邁 四七歳
チェンマイ人のジョーク
数日前、タイマッサージ施術中のマッサージ師(タイ人女性)との会話にて。
マッサージ師(以下、マ)「日本ってタイマッサージはいくらするの?」私「一時間で二〇〇〇バーツ(六〇〇〇円)くらいかな」 マ「高いわね!」私「うん、高いよ。だからタイに来る日本人はマッサージばかり来るんだ」 マ「ほかにどんなマッサージがあるの?」私「日本式、中国式、台湾式、ベトナム式、ハワイ式、いろいろあるよ」マ「ミャンマー式は?」 私「ミャンマー式はないな」マ(もうひとりのマッサージ師に向かって)「あなた、ミャンマー式はないってよ」もうひとりのマッサージ師「わたしはタイ人だっちゅーの(爆笑)」
チェンマイの人はこんな感じで、近隣国や山岳民族、イサーン(タイ東北部)地方の人などに対して、ちょっと差別的なジョークを言ったりします。イサーン地方の人たちはカオニャオ(もち米)ばかり食べていて、くちゃくちゃよく噛むからあごの関節が張ってる、とかあっけらかんと平気で言います。
人間はコミュニティーの外部に自分より劣位の存在を作って、優越感を持つことで精神的な安定を得るということは、世界中どこでも共通の特徴があるみたいです。
タイ人は自分の国を発展途上国だと言いますが、隣国のミャンマー、ラオス、カンボジアは後進国だと断言して憚りません。見下しているのです。
チェンマイはミャンマー国境が近いほか、近隣の山岳地帯に住む少数民族が山を下りて出稼ぎに来ている人がいたりする理由で、ミャンマー人や少数民族の人たちに対して、そういう種類のジョークがよく交わされます。
二〇一一年一月二三日 金曜日 清邁 四八歳
最近の思惟 断片
先代の中村勘三郎が一九六五年、五六歳のとき、歌舞伎のヨーロッパ公演でドイツに行ったことがあった。ベルリンのホテルに到着すると根岸小学校で中村屋と同級生だったオペラ歌手の田中路子から「パーティーで会っても同級生だったことは内緒にしてください」とメッセージが来ていたという。わけがわからないがとにかく黙っていようと思い、ベルリン総領事館のパーティーに行ってみると、まるで一七〜八の娘が着るようなど派手な模様の振袖を着た田中が現れた。田中は中村屋を上から下までじっと眺めて、これなら大丈夫だと見たのか、「こちら私の同級生ですの」と各国の大使に紹介したそうだ。(関容子「中村勘三郎楽屋ばなし」に出ていたエピソード)
スワンナブーム空港で入国審査を終え到着ロビー出てくると、韓国人アイドルの到着とほぼ時間が重なったせいで、あたりはそこかしこ黄色い歓声に包まれ騒然とした雰囲気になっていた。
飛行機に乗るとかなりの確率でカッターを没収される。カッターを常時携帯している私が変なのであろうか。
サマセット・モームの「ホノルル」を拾い読みして20世紀初頭のホノルルの景色に想いを馳せてみる。
別にチェンマイに固執しなくてもよいかなと思い始めてきた。旅で訪れた都市は数あるが、実際生活したのはチェンマイだけなのだから、ほかの都市の住み心地はわからない訳だし。住んでみてどうしても合わなかったらまた戻ってくればよいではないか、と。心境が変わってきたのかもな。そんな軽い感じで動いてみようか
金をケチってタイマッサージを半月以上うけてなかったのだが、そろそろ腰の痛みは限界に近いかも。明日は行こうか
前回帰国時に日本の携帯電話を解約したのですが、私は腕時計をもたない人なので、時計とアラーム機能は依然として使用しています
今日はチェンマイ大学の卒業式だったのか街中では学士ガウン(?)を着た若者を多く見かけた。自分の卒業式のときのことを思い出す。(・・検索すると今日は予行演習みたいだ。タイの国立大学は、王室の方が来て卒業証書を渡すので、かなり入れ込んでやるのね)
祖母の法事で会った親戚の女性(父の従姉妹)。父上が戦後すぐ出奔して大映の美術部に入社し長年勤め、娘である彼女は、永田雅一社長の媒酌で、大映スターズのプロ野球選手と結婚した。その選手の資料を調べているのだがなかなか見つからない。ネット情報だけでは無理だと悟り、次回帰国時は色々足を運んで調べようと思っている。父の従姉妹であるその女性は昔、大映所属の映画女優だったらしいが、私が会ったときは既に70歳を過ぎていたので、若い頃に美しかったかどうかは判断がつかなかった
「お前さん泥棒かい」。寝室で寝ていた小林秀雄は泥棒にそう言うとその姿勢のまま泥棒に説教をはじめた。小林の説教に泥棒は自分の罪を認め泣いて自首した。「あんな立派な旦那は見たことがねえ」と泥棒は警察に語ったという。・・・小林秀雄ちょっとよい話でした(笑)。
山手通り沿いの「アミダラ湯」という銭湯が解体工事をしているが、クレーンからぼろぼろ物が落下してきて危なくてしょうがない、私たちが乗っているコミューターバンも寸でのところで鉄骨の下敷きになるところだった。という夢
「銚子」という字は「桃子」という字に少し似ていると思った
渡辺温「嘘」読了。(初出「新青年」一九二三年三月) 私が勤務していた銀座八丁目付近の風景が描かれていて「博品館」という固有名称などにシンクロニシティーを覚える。しかし一九三〇年の区画整理前なのでまだ尾張町などの旧地名も出てくる。いわゆる「銀座通り」が舞台の短篇小説である
編集者にして小説家の渡辺温は、一九二七年当時シルクハットに燕尾服の正装服で「新青年」の編集部に出入りしていたらしいが、その出で立ちはモダンボーイなのか、ただの狂人なのか、当時の多くの隣人は後者だと思っていたのではないか、と。この呟きを読んだ読者諸賢は首肯せらるるや否や
人との対立を好まない私はできるだけ相手の人の意見を「そうですね」と受け流し、どうしても本意にそぐわないときにはできるだけその人を傷つけないように自分の意見を言うのであるが、今見た夢はそんな日常の鬱屈を弾けさせたかったのか、目の前の人を言葉の力で捻じ伏せるような言動をとってしまった。そこで目が覚めて思ったのはせめて知らないことは知らないと言える人間になりたいということ。専門知識なんて真理でも権威でもなんでもなくて、物事のある一面のある考えを述べているのに過ぎないのだから。大学で美術教育を受けたときのトラウマが残っているのかもしれない(まだ半分夢の中)
幼い頃、渋谷でトロリーバスを観た記憶がかすかにあって、調べてみたら一九六七〜八年まで走っていたとあった。五歳くらいの記憶だったというわけか
昨日友人と行ったイサーン料理屋にて。BGMでルークトゥン音楽が流れていたあと、おもむろに聴こえてきたチベット音楽、本当に心癒された。思わず「天国の音楽だ」と口走ってしまった
バンコクからチェンマイへの夜行寝台列車では私と友人はコンパートメントの下の段の席だったのだが、上の段の2つの席はファランの女性二人だった。でもそれぞれ恋人風の男性と一緒で、自分の寝台には夜中遅くまで戻ってこなかった。朝起きて友人が食堂車に食事に行った時、上段の女性が荷物をとりにきたので英語で話しかけてみた。すると彼女はデンマーク人で、ベトナムとカンボジアを旅してきてこれからチェンマイで休暇を過ごすとのこと。ギターをもっているので「あなたが弾くの?」と訊くと「はい」と答えた。彼女が去ってしばらくすると別の寝台でギターの弾き語りを始め、歌声が聴こえてきた。ギターは上手ではなかったけど、車両の中で聴くギターと歌は不思議な旅情をかもし出していた。少なくてもヘッドフォンステレオの音漏れのようなノイズには聴こえず、鳥のさえずりのような感興であった
「この呪はれた朝を告げるだけの鳥に啼声を与へたものが永井荷風の出現であるとしたならば、縛められてゐた双つの翼をこの葡ふ鳥に与へたものは我が潤一郎であつた」(佐藤春夫『潤一郎。人及び芸術』) 明治期に海外遊学し日本に帰国した「新帰朝者」と呼ばれたインテリゲンチャが異文化体験により日本を相対化する視点をもったこと
二〇一二年一月二三日 木曜日 清邁 四九歳
FOXチャンネルのバラエティー番組にマイク・タイソンが出演していた。痩せて悪人相がとれ「昔やんちゃしてました」的な、今は人のいい焼き鳥やの親父みたいな風体になっていたのが残念だった。病死する前痩せて伊丹映画に出た頃の我王銀次さんに似ていた。
まるっ切り私1人を置き去りにして全世界が進行している こんなのってないわよ!あんまり馬鹿にしてるじゃないの!( 山田花子「俗物天使」より)
日なたは暑いが日陰は気持ちよい。茣蓙をもって寝転がって本を読んだりしたい季節。かたはらには冷えた酒たくさん置いて。
最近毎日のように女性刑務所の前を自転車で通るのだが、昨日初めて刑務所の前のプロダクトショップでの仕事を終えて「塀の中」に戻る女囚の人の姿を見てちょっとドキっとしてしまった。
タイの女性人気スター、カラメールを追ったドキュメンタリー番組を観た。番組が始まる前、ほかの出演者は台本に目を落としているのに、一人だけ余裕で写メールで自分撮りに励んでいる。それを見るとタイ人の女性って、自分撮りするときに独特の「よくするポーズ」があることに気づく。私の身近なタイ人女性も同じしぐさをしていた。
いよいよ今年もお友達がたくさんやってきて毎夜の楽しい酒宴の日々の始まりかー(最初の一人はもう到着しているはずですが)。どうなりますやら
道路を横断してきたおじさんが「功夫」と縦書きにプリントしたTシャツを着ていてそれがあまりにかっこいいので「それどこで買ったのですか」と思わずタイ語で話かけるとタイ語を解さない外国人で避けられてしまった。Tシャツのことは残念だったが気がつくと声をかけている自分の行動力も怖いと思った
二〇一三年一月二三日 水曜日 盤谷 五〇歳
中央分離帯で見たもの
タークシン通りは往来が激しい幹線道路で、横断するには各所に歩道橋が設けられている。しかし、せっかちの私は当然歩道橋を登って道路を横断することは少ない。ある日のこと、いつものように自動車のすき間をぬって道路を横断すると、中央分離帯の植え込みのスペースに「異変」を感じ取った。
猫の死骸が横たわっていたのである!
私は、それを見ないようにして、中央分離帯から反対の車線に出て道路を横断した。1週間くらい経ち、また同じ場所を横断する用ができた。私は猫の死骸は片付けられているものとばかり思いつつ、「でもまだあったら嫌だな」という不安な思いで中央分離帯に近づいていった。すると、そこに到達する二、三秒前からもうげんなりしてしまった。
猫の死骸は放置され、腐敗し、悪臭を周囲に放っていたのだ!
いや、こう書くとその野良猫に申し訳ない。なら、お前がその死骸を片付けろ、という話になるのだが、私には到底それをする勇気はなかった。目を背けて、再びその場を後にした。結
局、その死骸は誰も何もせぬまま、朽ち果てていった。それを見て、以前日本で仕事しているとき、営業車で毎日通る道で、猫が刎ねられてその遺骸が誰も片付けないまま踏みつけられ、遂には凹凸がなくなり、道路が平坦になってしまったことを思い出した。
鎌倉時代の絵巻物に、『九相詩絵巻』というのがある。美しい女が死に、屍(しかばね)が膨張したり変色したりして、ついには腐乱し、鳥獣に喰われて最後には白骨と化して土に帰る。大そうリアルに描いてあるので、鬼気迫るものがあるが、昔の僧たちはこの絵を観想することによって肉体に対する執着から解放されたという。(中略)
そんな高級なことではないが、私も小学一年生の時にちょっとした経験をしたことがある。それは道ばたに犬の死骸が打ち捨ててあり、当時は衛生についての管理も行届かなかったため、骨になるまで放っておかれていた。学校への行き帰りに、いやでもその傍らを通らなければならず、何しろ臭いし、うじなどわいて、見るのもいやだったが、それでも見ずにはいられなかった。私はその場に座りこんで、死体というものがどのようにして崩壊して行くか、半ばうっとりと最後まで見守っていた。
それから何十年も経た後に『九相詩絵巻』に出会い、これだったのだと直感した。子供は大人が考える以上に死について興味をもっている。人間に生れた以上、それはどうしても経なければならぬ過程であり、だから通過儀礼と名づけたのだが、現在はすべて綺麗事になり、なるべく人の眼を死からそらせようとする。そんなことはごまかしで、ほんとうの「安心」とは呼べまい。むしろ、死から眼をそらせぬことこそ幸福に至る道ではないかと今では思っている。(白洲正子「通過儀礼」「夕顔」所収)
という、白洲さんの文章を想起したのであった。
2013.01.16 Wednesday
[chapter 42] 大島渚逝去 / 脳内再生し続ける 大橋のぞみ/ 20歳の青山二郎/ 京都について私が知ってる二、三の事柄 / 馬込文士村の文人たち/ マンテーニャ「死せるキリスト」/ 石川浩司 放送禁止歌をうたう&へなちょこ小説朗読会/ 1980年1月日記ほか
2002年1月20日(日) 東京 39歳
馬込文士村の文人たち
大森駅西口にて撮影(後でフォトショップで加工)。
参考サイト
http://www.magome-bunshimura.jp/
(この画像をWEB日記にアップすると、ふだん交流のあるネット友だちが書き込みをしてきた。「このレリーフを作ったのは私の父なんです」と。超ビックリした。そういうことってあるんですね。一種のシンクロニシティーか?)
馬込文士村の文人たち
大森駅西口にて撮影(後でフォトショップで加工)。
参考サイト
http://www.magome-bunshimura.jp/
(この画像をWEB日記にアップすると、ふだん交流のあるネット友だちが書き込みをしてきた。「このレリーフを作ったのは私の父なんです」と。超ビックリした。そういうことってあるんですね。一種のシンクロニシティーか?)
2013.01.09 Wednesday
[chapter 41] ワット・アルンの大仏塔にて / 2012年1月前半のつぶやき
こんにちは。チャオプラヤ川左岸にあるわがブログに、いつも川を渡りご来場くださり(?)、ありがとうございます。
さて、連載41回目にして初めて明かしますが、この「波照間エロマンガ島のチャオプラヤ左岸派」の題字の背景には、上に貼ったワットアルン付近の観光地図を使っていたのです(どうでもいいプチ・カミングアウト)。
そんなわけで今週は、チャオプラヤ左岸 トンブリーエリアにある、タイを代表する古刹、ワットアルンへ初詣に行ったときの話から書き始めます。
わたしは神仏を信じてませんが、神社やお寺に行って合掌することは好きです。神前や仏前では特に願いごとを浮かべず、あるがままの状態で数十秒間の時を過ごします。一種の瞑想状態なのでしょうか、目を瞑って手を合わせていると、日本の過去の伝統文化とつながっているような気がして気持ちがとても落ち着くのです。ところが、現在住んでいるタイの仏教寺院で同じようなことをしても、気が散って落ち着きません。やはり自分は先祖から受け継いだ日本のDNAを持っているのだな、とその時思いました。 11/6/18(波照間エロマンガ島) (「石川浩司のひとりでアッハッハー」「王様の耳はロボの耳」より)
インドで生まれ東へ伝承され、途中で南へ向かった仏教は、タイでは小乗仏教(上座部仏教)というかたちで、現代にまで受け継がれてきています。詳細についてはまだほとんど知らないので内容を書くのは控えますが、少しだけ書くと、すべての生きるものを慈しむところ(利他行)に菩薩心を求める、大乗仏教の宗教観をもつ日本人である私には、衆生の救済を目的とする大乗の教義とは対照的に、個人の解脱を最終的な教義とする小乗(一人乗りの舟という意味がある)の教えは、まだぴんとこないものがあります。しかし、何年かタイで生活してみて、タイ人を理解するにはこのへんの理解を深めることが一番肝要であることだけは確信しているので、どんな形かわかりませんが、今後機会を見て、研究を深めて行きたいとは考えています。(このブログを始めたきっかけも、そのためのステップアップのモチベーションを得たいという理由がありました)
ラーマ1世橋より、ワットアルン大仏塔を臨む
ワットアルン大仏塔より、ラーマ1世橋を臨む(カットバック)
ワット・アルンラーチャワラーラームは、タイ王国のバンコクにある寺院。アルンは暁の意味である。三島由紀夫の小説『暁の寺』の舞台ともなり、チャオプラヤ川の川沿いにたたずむ姿はバンコクを代表する風景にも数えられている。またワット・アルンは現在の10バーツ硬貨にも描かれている。一般にはワット・アルンの名でも知られる。また英語においてはTemple of Dawnと呼ばれているが、これが三島由紀夫の暁の寺の由来になったと考えられている。
ワット・アルンラーチャワラーラームは、創建についての記録は見つかっていないが、アユタヤ朝のペートラーチャー王時代にフランスの軍人によって描かれたチャオプラヤー川流域の地図にあることから、少なくともそれ以前に建てられていたことがわかる。当時の呼び名はワット・マコーク、その後ワット・マコークノーク、ワット・マコークナイと名を変えたが、1767年のアユタヤ朝滅亡後、この地を掌握したタークシンにより修復され、名前をワット・ジェーンとした。そしてトンブリー王朝の王宮寺院となった。
後のバンコク王朝(チャクリー王朝、現王朝)の創始者ラーマ1世は、トンブリー王朝時代の1779年にタークシン王の命を受け、ヴィエンチャンを攻略、そして、戦利品としてエメラルド仏を持ち帰り、この寺院内に安置された。しかし、1782年にバンコク王朝ができ、エメラルド寺院の建立に伴い、エメラルド仏はイッサラスントーン親王(後のラーマ2世)によってエメラルド寺院・ワット・プラケーオに迎えられた。寺院はその後、ラーマ2世により1820年ヒンドゥー教の暁神アルーナから現在の名称となる。以降ラーマ2世の個人的な保護を受け、ラーマ2世の菩提寺となった。
この寺院で最も特徴的なトウモロコシのような形をした大仏塔はバンコク様式で、高さは75m、台座の周囲は234m(異説あり)。中心の大塔を4つの小塔が取り囲み、須弥山を具現化している。大塔の上方にはインドラ神が三つの頭を持つ象アイラヴァータ(タイ語でエラワン)の上に鎮座しているのは、須弥山山頂の忉利天を表している。塔の表面は陶器の破片で飾られ、さらに基壇の部分にはラーマキエン物語に登場する鬼やガルーダ、ハヌマーンが飾り付けられている。このような陶器を用いた建築の装飾は中国美術の影響によるもので、ラーマ3世時代に多く用いられたものである。塔は19世紀、ラーマ2世のころから建設がはじまり、ラーマ3世のとき完成し、現在みられる姿となった。
2013年1月6日日曜日、私は初めてワットアルンを訪れました。バンコクに最初に旅行者として来てから今年で12年経ちますが、何故か足を踏み入れたことのない寺院でした。どちらかというと、遠くから景色を見ていれば満足するという存在だったようです。今、住んでいるアパートからは約4kmしか離れておらず、「57番バス」というトンブリーエリアを周回する路線バスに乗ってやって来たというわけでした。
ワットアルンというと、言わずもがな、三島由紀夫の「暁の寺」という小説作品と記憶が結びつきます。
以下、Facebookの書き込みより。
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年末年始休暇は三島由紀夫の「豊饒の海」四部作を精読して過ごした。「暁の寺」は学生以来、久々に読んだが、今住んでいる場所が小説の舞台のすぐ近くなので、非常に感慨深かった。しかも、1941年、大東亜戦争直前時のオリエンタルホテルから川向こうに臨むワットアルンの近景が密林だったという記述には驚愕した。
日は対岸の暁の寺のかなたに沈んでいた。しかし巨大な夕焼は、二三の高塔を影絵に縁取るほかは、トンブリの密林の平たい景観の上の、広大な空を思うさま鷲づかみにしていた。密林の緑はこのとき光を綿のように内に含んで、まことのエメラルドの色になった。(三島由紀夫「暁の寺」)
しかし、三島は実際には1941年にはバンコクに行ったわけではなく、1967年のインドとタイへの取材旅行で観た風景から想像した創作だったと思われるのだが。
今日はワットアルンに初詣に行ってこようかな。そういえば、後ろの席のタイ人女性社員に「お正月はどこかに行った?」と尋ねると、「お寺に行ってお経を唱えてきた(スワットモン・ティー・ワット)」と答えていた。・・・タイ上座部仏教は、タイの人々の暮らしの中、相当深いところまで溶け込んでいる。この女性、ふだんはおへそが見えるようなセクシィな服装で出社するのに、案外(失礼!)信心深いんだナ
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この書き込みをした翌日に、ふと思い立って、ワットアルン初体験となったしだいです。
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三島のような流麗な文体でワットアルンの威容を表現することはできませんが、確かに高さ75mの高さを誇る大仏塔は間近で眺めると、それだけで神々しい気分になりました。階段で途中まで昇ることができるのですが、この階段が急すぎて、足を踏み外して落下するのではないか、というスリル満点の体験でした。以前、バルセロナの聖家族教会の尖塔に登ったとき感じた、死のスリルを想起しました。塔を下りてきた後、しばらく足が震えるほどでした。アミューズメントパークで絶叫マシーンから下りてきたような感覚だったのです。(単に私が高所恐怖症なだけかもしれませんが)でも、楽しかったです。
[参考資料]
それは暁の寺へゆくにはもつとも好もしい正に日の出の刻限だつた。あたりはまだ仄暗く、塔の尖端だけが光りを享けてゐた。ゆくてのドンブリの密林は引き裂くやうな鳥の叫喚に充ちてゐた。
近づくにつれて、この塔は無数の赤絵青絵の支那皿を隈なく鏤めてゐるのが知られた。いくつかの階層が欄干に区切られ、一層の欄干は茶、二層は緑、三層は紫紺であつた。嵌め込まれた数知れぬ皿は花を象り、あるひは黄の小皿を花心として、そのまはりに皿の花弁がひらいてゐた。あるひは薄紫の盃を伏せた花心に、錦手の皿の花弁を配したのが、空高くつづいてゐた。葉は悉く瓦であつた。そして頂からは白象たちの鼻が四方へ垂れてゐた。
塔の重層感、重複感は息苦しいほどであつた。色彩と光輝に充ちた高さが、幾重にも刻まれて、頂に向つて細まるさまは、幾重の夢が頭上からのしかかつて来るかのやうである。すこぶる急な階段の蹴込も隙間なく花紋で埋められ、それぞれの層を浮彫の人面鳥が支へてゐる。一層一層が幾重の夢、幾重の期待、幾重の祈りで押し潰されながら、なほ累積し累積して、空へ向つて躙り寄つて成した極彩色の塔。
メナムの対岸から射し初めた暁の光を、その百千の小さな鏡面になつてすばやくとらへ、巨大な螺鈿細工はかしましく輝きだした。
この塔は永きに亙つて、色彩を以てする暁鐘の役割を果たして来たのだつた。鳴りひびいて暁に応える色彩、それは、暁と同等の力、同等の重み、同等の破裂感を持つやうに造られたのだつた。
メナム河の赤土色に映つた凄い代赭色の朝焼の中に、その塔はかがやく投影を落して、又今日も来るものうい炎暑の一日の予兆を揺らした。
三島由紀夫「暁の寺」
(今週のおまけ)2012年1月前半のつぶやき
2012年1月1日(日) チェンマイ 49歳
新年になった瞬間、ものすごい数の打ち上げ花火の轟音で強制的に起こされた。花火は15分以上続き、ほんの数分前に止んだ。そんな西暦2012年平成24年タイ仏暦2555年のはじまり。
posted at 02:23:07
2011年最後の花火 at チェンマイ-- Last Fireworks 2011 via @youtube
posted at 05:48:23
2012年1月2日(月)
1月2日、箱根駅伝のテレビ中継で、往路で芦ノ湖に着くまではまだ正月気分でいっぱいなのだが、翌3日の復路で山道を駆け下りてくると一気に現実に戻り、正月気分が取れ、その年が加速度的に始まってしまう感覚がある。
posted at 14:01:24
・・・つぎは去年すなはち昭和二十二年一月、いくさののちはじめての出会いであった。そのとき、太宰君は川柳点の、惚れたとは女のやぶれかぶれなり、というのを挙げて、これを佳什とした。(中略)・・・酒のみぶりもしずかで、ヤケ的なけはいはなかった。(石川淳「太宰治昇天」 1948年6月)
posted at 17:48:15
那覇空港に着陸する際にかなり手前から低空飛行をする理由
2004年のクリスマスを私は沖縄の那覇で過ごすことになった。posted at 21:09:29
飛行機が着陸態勢に入ったとき、私はある奇妙な低空飛行を経験した。窓を通して眼下に美しい透き通った海面が追いかけるように様々に変化するのが見え、飛行機は海面を掠めながら飛んだ。錯覚だったのだろうか、ぼんやりと水底に真っ白な珊瑚礁が見えたような気がした。珊瑚の死後の色がまさしく白色であり、白い珊瑚が濃い藍色をした海水を美しいエメラルドグリーンに染め上げるのだという。沖縄の漁民は緑色の海水を死の色と見なすが、それは水底に珊瑚の死骸があるに違いないからである。機体が翼を震わせながら旋回し角度を変えると、機外の空と海とが窓を通して斜めになりながら一つに繋がり、海と空とが一色に結びついて、空の上にいるのか海の中にいるのか分からなくなるような幻想をおぼえさせるのであった。その低空飛行がどれくらい続いただろうか、はっきりとおぼえていないが、他の空港とはまったく異なる着陸方法であった低空滑走は、ある美しい時間のひとコマとなって私の記憶に入っていった。
数日後、私は沖縄人の口からすべての那覇に入る航空機は着陸後そして着陸前に必ず一定時間低空飛行を持続しなければならないということを聞くにいたったが、なぜなら、沖縄の領空は米軍に占領されており、民間航空機は高空に進入することはできないからである。このため航空機はより多くの危険性を引き受け、より多くのエネルギーを消耗しなければならない。この事実を聞くにおよんで、私のなかで数日前のあの美しいワンカットは一瞬にして砕け散った。そして眼に浮かんできたのは、数年前海南島のわが国領空で発生した米軍機の衝突事故の場面であった。
孫歌「那覇から上海へ」(現代思想2006年9月号 特集「日米軍事同盟」より) 佐藤賢 訳
机はコンピュータや外付けHDDに占有されているので勉強するときはベッドでうつ伏せの姿勢ですることになる。集中してタイ語を勉強し「けっこうやったなー」と思って時計を見たら10分位しか経ってなかった。これはうつ伏せの圧迫により血のめぐりが悪くなり苦しくなっただけだと判明。とほほである
posted at 23:22:44
2012年1月3日(火)
クリント・イーストウッド「硫黄島からの手紙」を2006年の劇場公開時に観た時、渡辺謙演ずる栗林忠道中将が、武運尽きて自ら敵陣に突撃し、米軍の機銃掃射に倒れて死ぬ寸前、身体は生きているのに精神は死んでいるという「決死状態」の刹那が映像に定着されていると感動した。死について、また考えさせられた
posted at 01:39:59
なかなかKeyHoleTVにログインできなくてやっと入れたと思ったらカヨさんのパートは終わって次の小学生の夢中人だった(悔し泣き)。
posted at 17:26:16
2012年1月4日(水)
明治日本で美術において「伝統派」がまず優位に立ったということは、多くの点で、重要な意味をはらんでいる。それは過去の問題ではありえない。東京美術学校は、設立後十年も経たぬうちに、岡倉(天心)を追い出した西洋派にとって換わられた。
明治日本で美術において「伝統派」がまず優位に立ったということは、多くの点で、重要な意味をはらんでいる。それは過去の問題ではありえない。東京美術学校は、設立後十年も経たぬうちに、岡倉(天心)を追い出した西洋派にとって換わられた。しかし、「西洋派」はそれ以後根本的な背理に苦しむことになるだろう。なぜなら、日本において先端的であり反伝統的と見える仕事は、西洋においてはたんなる模倣と見えてしまい、「伝統派」に回帰したほうがかえって先端的に見えるからである。この問題は、今日にいたるまで続いている。たとえば、日本において尊敬される「西洋派」は、西洋において何の価値も与えられていない。そして、何らかのかたちで西洋において評価されるアーティストは事実上、「伝統派」に回帰している。なぜなら、そのほうがより前衛的に見えるからである。
それは他の領域においても同じである。たとえば、文学において、美術におけると同じ意味で「伝統派」が優位を獲得するのは、1930年代においてである。たとえば、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らは、西洋人によって「伝統派」として認知されるだろうが、彼らはもともと西洋派モダニストであった。彼らがある時期から伝統に向かったのは、伝統へのノスタルジーというよりもむしろ、そのほうがより「前衛的」に見えると考えたからだというべきである。だが、美的なものとしての「日本」は、何よりも、狭義の美術とそれに関する言説によって形成されたものである。したがって、明治日本における美術とそれにかんする言説の特異性が、他の何にもまして重要なのだ。それは、とりわけ、岡倉の言説において範例的に示されている。
柄谷行人「美術館としての日本」(批評空間第挟第1号 1994年)
岡倉天心らの「伝統派」を追い出し、東京美術学校の西洋画科の創設に尽力しのちに教授となった黒田清輝らによって始まる「西洋派」の画壇が、現在にいたるまで国内でのみ自己完結し、国際的な絵画市場においてはまったく相手にされていないという状況を端的に言い当てた文章である。
posted at 01:06:13
胃もたれ気味。
posted at 01:35:02
目が覚めた。ラジオをつけてモダンガールを聴く。(Tokyo FM 「Blue Ocean」)
posted at 08:44:13
今朝はベッドの横の床の上で目が覚めた。寝ているうちにひんやりして気持ちのよい床の上に知らずのうちに移動していたらしい。
posted at 08:56:27
カヨさん「残念ながらパソコンは忸怩たる思いで使っております」だって(笑)。
posted at 09:12:40
カヨさんの出番終わった。素晴らしかったです。ラジオでもカヨさんの実践しているライフスタイルや人生哲学は確実に伝わっていたように思う。朝からいい気分になった。ありがとうございました。
posted at 09:53:59
2012年1月5日(木)
石川淳の「至福千年」を読み返しているが20代のころは文章が読みづらくつっかえつっかえ遅遅として読書が進まなかったのに49歳の現在読んでみるとすらすら読めることに驚く。
posted at 04:45:04
普段はあまり話さない変態性欲についてなぜかチャットで語ってしまい、多少後悔の気持ちもないこともないがログは流れているのでまぁよしとするか。
posted at 07:29:39
「ディープ・インパクト」「アイズ・ワイド・シャット」「25年目のキス」で美少女スターとして衝撃の登場をしたリリー・ソビエスキーの近況を調べてみると、28歳になりロリから美しい大人の女優になっているようだった。「88ミニッツ」は観た記憶があるがリリーが出ているとは気がつかなかった。
posted at 13:59:03
遠近両用眼鏡作ろうかな
posted at 14:18:43
LEOビールの小瓶をグラスに注がずラッパ飲み。旨い。
posted at 21:24:23
2012年1月6日(金)
今夜もほろ酔い。居酒屋で飲み、家に帰っても飲み。
posted at 22:29:32
VANに勤めていた元職場の上司に聞いた話なのだが、ピンク・ドラゴンの山ちゃんこと山崎眞行さんは会うといっつも赤いスイングトップジャンパーにリーバイスのデニムといういでたちだったそうだ。洋服屋なのにかえってその潔さにシビレタと言っていた。
posted at 23:30:32
2012年1月7日(土)
just woke up
posted at 08:23:22
今日は途中で目覚めることもなく朝までよく眠れた
posted at 08:24:02
子供の日(ワン・デック)は今日でなくて来週みたいだな・・・。1月の第2土曜日
posted at 08:29:58
When to the sessions of sweet silent thought
I summon up remembrance of things past
(Sonnet 30) by William Shakespeare
posted at 12:28:21
シェークスピアの「ソネット第30番」。失われた昔を嘆くこの詩には、法律用語が多く用いられている。
Session(法廷)、summon up(召還)、cancell(取り下げ)、account(支払い明細)など。それらの言葉の縁語的使用によって法廷的なイメージを読者に想起させる。
posted at 12:34:51
「世阿弥の様式のもう一つの特色は縁語の使用である。縁語とは同意語の中の可能なものから表面的には無関係に見えてもその含みによって、連なった響きを醸し出す意図を持って使われるいくつかの言葉である」(ドナルド・キーン「能・文楽・歌舞伎」 2001年)
posted at 12:37:14
帰宅。午後3時台から3軒はしごしたが、酒飲みっぱなしだったのでだんだん酔っ払っていって、行く先々でタイ人にしょうもない議論をふっかけていっていったようだ。素面だったら恥ずかしくてできないこと。酒の力を借りると大胆になることよ。(殺される前に少し自重したほうがよいかもw)
posted at 19:59:02
ツイッターの特性なのかな、一度会ったことのある人はツィートを読んでいるとその人の肉声が脳内で再生されるのが不思議だ。
posted at 20:02:21
2012年1月8日(日)
うたた寝してた。夜中に目が覚め。
posted at 01:29:22
今自分がいるところはユーラシア大陸の一部で、ドイツやフランスやスペイン、イタリアなんかとも地続きだから行こうと思えばそちちの方向にも旅立つことができるんだナ、ということをふと思ってしまった。いや、旅立ちませんけど。
posted at 03:22:07
ルイ・アラゴンは農夫の目をもってパリを散歩し直してみると、そこがなんと奥深い神秘にみちた都市に見えてくることかと、その驚きを『パリの農夫』に描き出してみせた。 (中沢新一「東京タワー」 群像2005年1月号)
posted at 04:46:43
大日本雄弁会講談社当時の装丁で発売された「のらくろ全集」が実家にあり、子供の頃から何度となく読んでかなり刷り込まれたと思うのだが、サーチライトや毒ガス戦、飛行機戦など当時の戦争の空気がよく描かれていた。その中で強烈に印象に残っているのが、「爆弾三勇士」のエピソードだった。先のいくさで味方の死が正面きって描かれたフィクションはほかにあまり記憶にない。(美談調なのは仕方ないが)
posted at 05:06:18
川口元郷パチンコフジのラジオCM覚えています
posted at 05:18:04
子供のころ、町でよく見かける「ほねつぎ」と「ぢ」という巨大な文字がこわくてしかたがなかった。小学生の時期は言うまでもなく、高校生になってもその文字から、秘密の地下世界を暗示するようなまがまがしさをうけとめていた。(津島祐子「骨の話」)
posted at 05:31:48
2012年1月9日(月)
ハードディスクが破損した恐れがあり、これからパソコンを修理に出しに行ってきます。どうかあまりお金がかかりませんように。
posted at 13:15:13
วันที่พระพุทธเจ้าประสูติ, ตรัสรู้ และ ปรินิพพาน
เรียกว่าวันวิสาขะบูชา ซึ่งถือเป็นวันสำคัญ
ทางพุทธศาสนาวันหนึง
釈迦の誕生・悟り・入滅の日をワンウィッサーカーブチャーと言う
posted at 13:46:56
日中からフォローしている人のtweetが多いと思ったら今日は日本は祭日だったか。
posted at 13:49:27
คำสอนหนึ่งทางพูทธศาสนาได้กล่าวไว้ว่า ความอาฆ่าตแค้นทำให้เกิดทุกข์แก่ผู้นั้น
仏教の教えの一つに憎しみをもつことはその人自身を不幸にさせるということがあります。
posted at 13:59:48
タイ語タイプの練習でタイ語の短文集をノートからリライトしています。
posted at 17:35:23
年が明けて日中だんだん暑くなってきている。喉の乾きにファンタストロベリーがよく合う。美味なり。
posted at 17:40:26
昨日レモンツリーの前でバイク同士の接触事故を目撃してしまいちょっと憂鬱。どちらも二人乗りだった。スピード出しすぎなんだよな。
posted at 17:42:40
2012年1月10日(火)
チャットログを見ると「チェンマイ、一般の人も同行するんですね」という言葉が残っていた。人にはそういう風(スターとファンのファンクラブ旅行)に見られてるのかと、ちょっと心外。でも、あのスペースを言葉で説明するのはかなり難しいだろうな。「2月チェンマイ逃避組」は、確かに石川さんがいなかったらできなかったグループだが、しかし毎年チェンマイにやってくる人は、石川さんのファンばかりではなく、縁があってチェンマイに個人旅行に来ている人もいる会、というのは理解しにくいのかも。別に四六時中、行動を共にするわけでもないし。
それと、「来年こそチェンマイ行きたい」なんて言う人にかぎって、その翌年になると行けない理由をつくって、ほとんどの人は来ない。行けない理由を作るのは簡単だから(お金がない、仕事で休みがとれない、うんぬん…)。その壁をのり越えてまでしてチェンマイに来るのは相当に凄い人なのだと思う。ある意味、馬鹿というかww(←褒め言葉)。今年はどんな2月になるのだろうか。
posted at 15:19:18
เวลาปอกเปลือกของผลไม้ ชาวตะวันตก
ส่วนใหญ่มักจะหันคมมีดเข้าหาตัวเอง
ซื่งตรงข้ามกับวิธีที่คนไทยทำ
果物の皮をむく時、大部分の西洋人はナイフの刃を自分の方に向けますがタイ人は反対を向けます。
posted at 15:30:41
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posted at 21:46:28
2012年1月11日(水)
「ここで私は、他人のことに興味をもつよりは自分の仕事に熱心な、きわめて活動的な多数の人々の群れの中で、最も人口の多い町で得られる生活の便宜を何一つ欠くことなく、しかも最も遠い荒野にいるのと同様な、孤独な隠れた生活を送ることができたのである」(ルネ・デカルト「方法序説」)
posted at 15:10:47
2012年1月12日(木)
今朝めずらしく雨が降ったので折りたたみの傘をもって外出している
posted at 14:32:33
しかし自分の傘が見つからずに女性の友人が置いていった女性物の傘しかなかったのでそれをもってきているのだが、再び雨が降ってきたらそれをささなければならない。ちょっと恥ずかしいかもしれない
posted at 14:35:17
1万円=4110バーツ(ณ ニマン・ソイ13のレートのよい両替屋)
posted at 14:53:02
それにしてもタイ語の電話の通話は何年経っても苦手。日本にいるときはお客様注文窓口&苦情受付業務をやってたくらい電話応対ばかりしていたときもあったのだがその反動かな。携帯電話(メール)時代に入ったころからもう仕事以外では電話をすること自体嫌になってたし。
posted at 18:24:15
一時期は電話魔だったのにな。ほんとに信じられない。
posted at 18:25:08
猫カフェでお姐さんにバナナをもらった。アローイチンチン
posted at 19:37:21
2012年1月13日(金)
今日もくもり。涼しくててふどよい気候。
posted at 12:25:22
2012年1月14日(土)
洗濯屋のおばちゃんがタンブン旅行に行っていて昨日今日と不在だった。下川さんか誰の本だったか忘れたが、タンブン旅行に関する文章があったことを思い出した。いつか機会が合えば一度参加してタイ人のディーープな部分を垣間見たいと思うこのごろである。
posted at 01:31:48
朝、乾季に入って2回目の大きな雨が降った。
posted at 12:23:24
この時期、チェンマイはほとんど雨が降らないので、雨は心の中をざわざわさせてしまふ。
posted at 13:02:01
2013.01.02 Wednesday
[chapter 40] 昇天峠とサイモンキャバレー
プーケットタウンからパトンビーチへ行くには、かなり急な峠を30分くらいかけて越えていくのだが、この峠を越えるたびに決まって想起するのが、大学時代、八王子から大学へ行くのにいくつも越えていた峠のこと。「俺はもしかしたら今、大学に向っているのかもしれない」という無関係な考えが頭をもたげてくる。それと、ルイス・ブニュエルがメキシコ時代、製作した「昇天峠」(1951)という映画。バスが峠を越えることが、作品のクライマックスシーンのひとつとなっている作品なのだが、ここでブニュエルは、ある驚異的な手法で、坂の傾斜を表現していた。
さて、プーケットでは、念願のサイモンキャバレーに行き、平沢進氏言うところのサオプラペッソンのショーを堪能してきた。これはやばい。はまる世界だ。私はきっとまたここに帰ってくるであろう。