2012.07.25 Wednesday
[chapter 17] フランス旅行記(後編)〜モン・サン=ミシェル、ルーブル美術館、パリでパスカルズのコンサートほか
前編はこちら。
2006年7月18日(火)
(DAY4-1) U^ェ^U (mixi-mobile)
モンパルナス駅にて。このお嬢さんは犬を連れて旅行すると思しい。こちらでは当たり前の光景みたいだ。
(DAY4-2) モン・サン=ミシェル (mixi-mobile)
というわけで世界遺産のモン・サン=ミシェルに来ています。
(mixiのコメント欄より)
・ごぶさたです。おー、う・ら・や・ま・し・い!!!!
・ごぶさたしてます。ええええええーーーーっ!! お天気も良さそうでよかったですね。暑いのかしら!?
・おお、3月に俺も行きました。そこからバスで2時間くらいの所にあるサンマロもなかなかいいです。ちなみにどこから書き込みました?? なかなか日本語使えるネット環境なくないですか?
・塩羊!塩羊!!
・うらやましい! ここんとこ、モン・サン・ミッシェルが出てくるテレビによく巡り会っていたので、心底うらやましーい!です。楽しんできてください!
・おお!ジャストシーズンですねえ。レンヌからバスでしょうか?僕も以前いったことあります! ルレサンミッシェルというホテルで、オムレツくいました。いまいちだったかなあ。羊の肉のほうが、うまいらしいですよ。塩分まじりの草を食べるので、塩味が効いてるとか・・
・あ〜、ここは行きたい! いつか行きたい! 引き続き、よい旅を♪
(DAY4-3) モン・サン=ミシェル写真
*画像をクリックすると拡大表示します。
一生のうち一度は行ってみたいところに思いつきのノリで行ってしまったのであった。(当初は行く予定もなかった)6年後にこうやって他人様(ひとさま)に公開して話のネタになっているのだから、まぁ、行ってよかったと言えるとは思う。
(NIGHT4-1) 赤い風車 (mixi-mobile)
パリに戻ってきました。
モンマルトルに繰り出しています。ムーランルージュのショーは以前見たことがあります。あんまりたいしたことなかった記憶があります。バンコクのオカマショーの方がまだ良かったかも。。
(mixiのコメント欄より)
・あぁそうだ、今度はフランスに行こう☆
2006年7月19日(水)
(DAY5-1) パリで山本圭一の淫行事件を知る
フランス3日目
朝7時半過ぎ目が覚める。
携帯のメールチェックをすると、友人のお父様が亡くなったというメールが目に飛び込んできてびっくりする。22日に彼のマンションで行なわれる恒例のサマーパーティーも中止との由。その日は成田からの帰りお土産をもって登場するつもりであったのだが、彼の奥さんがそのことを知っていて私に第一報をしてくれたのであった。すぐさまお悔やみの意を添えた返信メールを打った。
ホテル前景(JARDINS DE PARIS ALESIA)
8時半過ぎ部屋を出る。
ホテルを出てプレザンス駅へ。13号線で昨夜行ったプレイス・ド・クリッシィで乗り換えてディマンシュ駅へ。ムーランルージュ界隈を再びほっつき歩く。こういう岡場所は気の済むまで歩き倒すのが、私が日ごろから心がけている旅のモットーである。するとインターネット屋を発見した。2時間近くネットをする。フランスに来てからモバイルしかできなかったので、食い入るようにmixiと日本語ポータルサイトを熟読する。すると極楽とんぼの山本圭一が淫行で吉本を馘首された報に接し、驚く。なんて愚かな奴なんだろう!相方の加藤はどうなる?しかし10年前同様の事件を起こした板尾創路が謹慎で済んで、山本がクビというのは、吉本の処分の基準に解せないものがある。ケースが違うのだろうか。
とにもかくにもこれからの成り行きに注目である。
それからまたメトロに乗りOPERAへ。オペラ座近くのHISに行き、1日市内観光ツアーとかカルト・ミュゼ・モニュマン(美術館の割引周遊チケット)とかについて尋ねる。が、どれも高いので結局何も買わずに外に出る。教えてもらったFNAC(フナック)という大手CDショップに向かう。サンラザール駅の駅前だというが、近いのでメトロに乗らずに歩いていくことにする。
プレイス・ド・クリッシィ駅。
昼間のムーランルージュ前。
FNAC:フランスの大手CDショップ。
すると、突然尿意をもよおしてきた。
だが、トイレがなかなか見つからない。
突然の大ピンチに窮地に立つ波照間なのであった。
(DAY5-2) でもって、またまた便器画像 (mixi-mobile)
パリを歩いていると、本当に困るのがトイレ。公共スペースにはほとんど見当たらない。これはオペラ座近くの三越のトイレ。なんとか間に合いました。しかしご不浄の話題ばかりですみません(汗)。
(mixiのコメント欄より)
・パリのトイレって足のながいヒト用ですよね…T△T
・トイレが有料とか、地下鉄はスリだらけとか聞きますねー
・(RES)とりあえずスリには遭いませんでした。おそらくローマのほうが数は多いと思います。ローマでは子供のスリ団に取り囲まれ、ポケットをまさぐられる恐怖体験を味わいました。
1673年8月、三井高利が江戸本町に呉服店「越後屋」を創業する。
(DAY5-3) ルーブル美術館 (mixi-mobile)
ここもお約束の場所ですね。サモトラケのニケから先の階上部分が、撮影禁止なのは相変わらずでした。
DA VINCI CODE のテープツアーはマアマアでした。関連作品のタイトル脇に番号があってそれを打ち込むと解説してくれるのです。なぜか「岩窟の聖母」の解説がないのは解せませんでしたが。
(mixiのコメント欄より)
・(編集者のA氏)>DA VINCI CODE のテープツアー、フランス在住の日本人からは「その種のツアーの参加者はアメリカ人が多く、フランス人は少し白い目で見ている」という話を聞きましたが、アメリカ人ばかりでもなかったですか。あと、テープは日本語もありました?
・(友人のB女史)ルーブル、金払って入ったこと無い・・・
・(友人のC女史)ルーブル、なつかすぃー☆ 広くて全然みきれなかった。また行きたいなあ。
・(A氏へのRES)日本語ありましたよ。気のせいかヘッドセットをしている人は少ない気がしました。いかにもアメリカ人ふうの団体さんもスルーしてました。「ダ・ヴィンチ・コード」あまり人気ないのかな。
・(B女史へのRES)なんかチェック甘かったです。これはダータで入れると思いましたよ!
・(B女史)あ、いや、月の第一日曜タダなのと、学生カードの閉館後タダつーのでかなり行きました。チェック緩いし抜け道も一杯ありそうだけどwww
(DAY5-4) 極限状態について考えること〜テオドール・ジェリコー『メデュース号の筏』を観て
今(2006年8月27日午前1時30分過ぎ)、下記の日記を書いていた。先月行ったタイ・フランスの旅日記のルーブル美術館見学のくだりである。
[tableau] テオドール・ジェリコー『メデュース号の筏』(1824年 ルーブル美術館所蔵)
ルーブル美術館では「ダ・ヴィンチ・コード・ツアー」というヘッドフォン音声サービスのサポートを得て作品を鑑賞したが、これが思いのほか面白くてよかった。
限られた時間で、巨大なギャラリースペースの中の全ての作品を鑑賞することは不可能なので、あらかじめガイドにしたがって歴史的視点を踏まえて見学するのが頭に入りやすく、知識欲を満足させたのである。
その中、今回もっとも印象に残ったタブローが、ヴェロネーゼの『カナの婚礼』(1528〜1563年)、ジャック=ルイ・ダヴィッドの『皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』(1806〜07年)、そしてテオドール・ジェリコーの『メデュース号の筏』(1824年)だった。
ジェリコーの『メデュース号の筏』は、画集などで以前なんとなく見た程度の記憶しかなかったが、実際実物を目の前にして、作品の成立した背景を日本語のガイドを通して鑑賞すると・・・・・・
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と、ここまで書きかけた。
ちょっと疲れたので、気分転換にニュースのページを見てみると、以下のニュースに出くわした。
シンクロニシティーを感じた!!
ジェリコーの『メデュース号の筏(いかだ)』は、1816年に起きたフランスのメデュース号の海難事故という実際の事件に材をとった作品である。セネガル沖で座礁した船から脱出するにあたり、わずかな救命ボートに乗りきれなかった149名の乗客が、船の端材を集めて作られた筏に乗る。しかしおりからの悪天候のため、救命ボートに引っ張られていた筏はロープを断ち切られ、わずかな食料と水しか与えられぬまま、自力で陸地を目指さなければならない事態に陥る。その12日後、漂流しているところ発見された筏にはわずか15名の生存者しかいなかった・・・・・・。
この事件は以下の点からフランスで大スキャンダルとなる。
政治的なコネを使ってその職に就いたものの全くの無能力だった船長が、責任を放棄してまっ先に救命ボートで逃げてしまい助かったこと。
筏の漂流中に乗客たちは食料を奪い合って殺し合ったが、食料が尽きたときには同胞を殺してその人肉まで食らったというスキャンダラスな噂も絶えなかったこと。
ジェリコーはジャーナリスティックな視点からこの作品を描いたとされている。だがしかしこの作品はフランスでは不評で、ジェリコーの生きている間は本国では日の目を見なかった。
作品は漂流している筏のはるかかなたに大型船の船影を認めた瞬間の、筏の上にいる人間達のさまざまな状態を描いている。死んでいる息子の亡骸を抱いて呆然とする父、転がっている遺体、船に向かって懸命に手を振る者、さまざまな群像をとらえている。激しい波の上に平行を保たず斜めにぐらついている筏と背景の海、空、光線の陰影、構図、・・・それらすべてが、人間が本能的生物から理性を取り戻すこの瞬間の希望と絶望を表現しているように見える。この絵を観て人間が極限状態で行なってしまう狂気の存在には心底恐怖した。しかしそれは他人事ではなかった。自分の身にも起こりうることだと思った。そのとき自分だったらどうするだろう。。。
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根拠はありませんが、このメキシコ人の漁師たちは、生き延びるために仲間の遺体も食べたのではないか、と思います。
しかし9ヶ月も漂流するとはにわかには信じがたいのですが。。。
2006年7月20日(木)
(DAY6-1) BUKKAKE @ CHINATOWN, PARIS
パリ4日目
深夜ホテルの冷房が切られてしまい、とてつもなく寝苦しい夜を通過しほとんど眠れなかったが、明け方うとうとしてしまい、朝8時過ぎ目が覚める。すぐに昨日の行動をメモ帳にさーっと走り書きする。シャワーを浴び、支度をして、9時15分出発。
ホテルを出てアレジア通り(Rue de Alisia)を東に歩く。5分くらいのところにあるクレープ屋さんでバナナとミネラルウォーターを買い、店の前のベンチでプロテインシェイクドリンクを作り、飲む。タブレットで栄養補給もする。日差しが爽やかで気持ちいい。でも今日も暑くなりそうだ。
食事を終えるとまた歩き始めた。
しばらく行くとアレジア駅の広場。いつもはここからメトロに乗るのだが、今日はある目的があって、広場を突っ切ってさらに東に歩いていった。15分ほど歩くとインターネットカフェを発見。休憩がてら中に入る。ミクシィチェック、ホットメールのチェックをする。勘定するときに店の主人に道を尋ねる。
今日のパスカルズのコンサート会場である
PARC de CHOISYの場所を訊いたのであった。
すると主人は、すぐそこのバス停から62番のバスに乗れ、と言う。「歩けないか?」と訊くと、「無理無理。遠いからバスに乗ったほうがいい」と言われたので、バスに乗ることにした。62番のバスはすぐにやってきた。
62番系統のバス。パリのバス初体験でした!
バスはかなり混雑していた。フランス語のヒヤリングはほとんど駄目なので、地図を頭に入れ、適当なところで下車する作戦に出た。たくさんの人が降車するバス停があったので、この辺だろうと思い、バスを降りると、ちょうど目的地のTOLBIACの駅のところだった。公園は駅のすぐ近くなのだ。
というわけで、勘を頼りに、なんとか公園にたどり着いた。
コンサートは夕方からなので、場所の下見というわけである。
ところが、公園に着いたはいいが、中を歩いてみても、野外音楽堂はおろか、広場には音響機材もクルーの人影も皆無で、およそコンサートをやるような雰囲気ではなかった。あと8時間後くらいにコンサートがやるとは到底思えなかった。非常に不安な気持ちになった。
しかし持ち前ののん気さから、まぁなんとかなるだろう、また夕方来ればいいや、と高をくくり、その場を後にしたのではあったが。
TOLVIACはチャイナタウンで、中華料理屋がたくさんあった。
これはポルノ映画館。
BUKKAKEという文字に思わず反応してしまったよwww
(DAY6-2) ポンピドゥーセンター前 (mixi-mobile)
マイタイを飲んで酔っ払うの図。
4日目にして初めて雨が降ってきた。
ポンピドゥーセンターというと、私たちの世代だと、ストラングラーズのベースのジャン・ジャック・バーネルのソロアルバムのジャケ写を思い出します。
(mixiのコメント欄より)
・(高校時代からの悪友A氏)ジャン・ジャック・バーネルのソロアルバムのジャケ写も音も鮮烈だったな〜
(DAY6-3) Les Pascals@ Parc de Choisy (mixi-mobile)
そんなわけで、始まりましたよー
(mixiのコメント欄より)
・(ロンドン在住のN女史)ついでにロンドンもお越しになって★
(DAY6-4) パスカルズのコンサートが始まるまでパリ市内を徘徊
パリ4日目(2)
PARC de CHOISYの下見を終える頃、時刻は正午を過ぎていた。
今日もまたピーカンの猛暑だ。
さて、夕方のパスカルズのコンサートが始まるまで時間があるので、パリの街歩きをすることにした。
Blanche駅入り口
TOLBIAC(トルビアック)からメトロ7号線に乗りOPERA(オペラ)。ここで3号線に乗り換えてSt. Lazare(サン・ラザール)。ここで13号線に乗り換えて
Pl. de Clichy(プレイス・ド・クリッシィ)。ここで2号線に乗り換えて隣りの駅、Blanche(ブランシュ)。ここ数日メトロに乗りまくったのでだんだん路線の繋がりがわかってきて土地勘がついてきた。乗り換え通路が迷路のように分かりにくいのは玉に傷だけど、それにも慣れてきた。
いつものネット屋でお昼のmixiチェック、パリの観光スポットチェックののち、昼食。坂の途中のY字路に面したブラッセリー。
ビールとサーモンピッツァサンド。めちゃくちゃ美味しかったですー。
食後のエスプレッソ。
オルセー美術館界隈
食事を終えるとまたメトロに乗り移動。Pl de ClichyからSt. Lazare、乗り換えてSolferino(ソルフェリノ)へ行き、オルセー美術館に行く。しかし入場のための行列がすごかったので入るのをあきらめ、セーヌ川を渡り、ルーブルからポンピドゥーセンター方面に歩くことにした。オルセー美術館は前回パリに来たとき(1985年)にはまだ完成してなかった。ここにある収蔵作品のほとんどは「印象派美術館」という名前の美術館に展示されていた。コンコルド広場の近くにあって行った記憶がある。マネの「笛を吹く少年」が建物の外から窓越しに見えたことが印象的だった。
オルセー美術館周辺(サンジェルマン・ド・プレ)は今回はあまり歩けなかったけれど、プルーストの「失われた時を求めて」の舞台となった街区でもあり、また訪れる際には深く散策してみようと思う。が、なにしろ暑すぎていかんせん、歩く気力も萎え気味だった。夏のパリは次回から避けよう。
セーヌを走る遊覧ボート
ロワイヤル橋ごしに見えるルーブル宮
セーヌ川にかかるロワイヤル橋を渡りルーブル宮殿。今日はルーブル美術館には入らずにそのままスルーしてパレ・ロワイヤル・ミュゼ・ドゥ・ルーブル駅。そこから7号線に乗りシャトレ下車。ここから10分ほど歩き、ポンピドゥーセンターへ。
ルーブル美術館のいちばん近くにある駅です
ポンピドゥーセンター
マイタイ大好きでっす
疲れたのでカフェーで休憩。マイタイを注文。するとそれまで連日猛暑の炎熱地獄だったのが突然雲が張り出し、気がつくと大粒の雨が降ってきた。バケツをひっくり返したようなにわか雨だった。コンサートの開催は大丈夫かなー?と心配になった。
結局なんだかんだで時間がなくなり、ポンピドゥーセンターの中には15分間もいなかった。
雨はいつの間にかやんでいた。
気がつくと18時を過ぎ移動する時間になってしまった。
Rambuteau(ランビュトー)から11号線でChatelet(シャトレ)。ここで乗り換えて7号線でTOLBIAC。再びPARC de CHOISYに戻る。
公演に入るとさっきは何もなかった場所にPA設備、ミキサーと楽屋用テントが見事に配置され、リハーサルが行われていた。
サウンドチェックを15分ほど見てから、メンバーがいったん引っ込み、そしてコンサートがスタートした。
サウンドチェック中。
2006年7月21日(金)
(DAY7-1) さようなら、パリ (mixi-mobile)
さようなら、パリ
(mixiのコメント欄から)
・(編集者A氏)旅の終わりは切ない気持ちになりますよね……
・(A氏へのRES)切ないです けっこうフランスよかったかもしれません また近いうちに来たいです
2006年7月22日(土)
(DAY8-1) 帰国 (mixi-mobile)
日本に帰ってきました。今、成田の民間駐車場から車を引き取り、首都高レインボーブリッジ付近走行中ですが、渋滞しています。画像は山本圭一が住んでいると思われる佃島の超高層マンション。レインボーブリッジから見えました。吉本興業を解雇されたのでもうここにも住めなくなるのでしょうか。カーラジオを点けたらJ-WAVEでマイミクシィの如月音流(ねる)さんが高城剛と対談していました。テーマはWEB2.0について。ねるタンかっこいい♪
たかだか1週間日本にいなかっただけなのに、帰国して30分もしないうちに「日本」と「日本語」の海に投げ出され翻弄されくらくら酔っ払っています。日本は、日本語によって海外と国境を隔てていることを再認識しました。
2006年7月18日(火)
(DAY4-1) U^ェ^U (mixi-mobile)
モンパルナス駅にて。このお嬢さんは犬を連れて旅行すると思しい。こちらでは当たり前の光景みたいだ。
(DAY4-2) モン・サン=ミシェル (mixi-mobile)
というわけで世界遺産のモン・サン=ミシェルに来ています。
(mixiのコメント欄より)
・ごぶさたです。おー、う・ら・や・ま・し・い!!!!
・ごぶさたしてます。ええええええーーーーっ!! お天気も良さそうでよかったですね。暑いのかしら!?
・おお、3月に俺も行きました。そこからバスで2時間くらいの所にあるサンマロもなかなかいいです。ちなみにどこから書き込みました?? なかなか日本語使えるネット環境なくないですか?
・塩羊!塩羊!!
・うらやましい! ここんとこ、モン・サン・ミッシェルが出てくるテレビによく巡り会っていたので、心底うらやましーい!です。楽しんできてください!
・おお!ジャストシーズンですねえ。レンヌからバスでしょうか?僕も以前いったことあります! ルレサンミッシェルというホテルで、オムレツくいました。いまいちだったかなあ。羊の肉のほうが、うまいらしいですよ。塩分まじりの草を食べるので、塩味が効いてるとか・・
・あ〜、ここは行きたい! いつか行きたい! 引き続き、よい旅を♪
(DAY4-3) モン・サン=ミシェル写真
*画像をクリックすると拡大表示します。
2006/07/18 パリ―レンヌ(TGV)―モン・サン=ミシェル(バス)―レンヌ(TGV)―パリ | ||
TGV =メカ ゴジラ 説 | ||
トニ カク 暑カ ッタ | ||
日帰 りで パリ 戻る |
一生のうち一度は行ってみたいところに思いつきのノリで行ってしまったのであった。(当初は行く予定もなかった)6年後にこうやって他人様(ひとさま)に公開して話のネタになっているのだから、まぁ、行ってよかったと言えるとは思う。
(NIGHT4-1) 赤い風車 (mixi-mobile)
パリに戻ってきました。
モンマルトルに繰り出しています。ムーランルージュのショーは以前見たことがあります。あんまりたいしたことなかった記憶があります。バンコクのオカマショーの方がまだ良かったかも。。
(mixiのコメント欄より)
・あぁそうだ、今度はフランスに行こう☆
2006年7月19日(水)
(DAY5-1) パリで山本圭一の淫行事件を知る
フランス3日目
朝7時半過ぎ目が覚める。
携帯のメールチェックをすると、友人のお父様が亡くなったというメールが目に飛び込んできてびっくりする。22日に彼のマンションで行なわれる恒例のサマーパーティーも中止との由。その日は成田からの帰りお土産をもって登場するつもりであったのだが、彼の奥さんがそのことを知っていて私に第一報をしてくれたのであった。すぐさまお悔やみの意を添えた返信メールを打った。
ホテル前景(JARDINS DE PARIS ALESIA)
8時半過ぎ部屋を出る。
ホテルを出てプレザンス駅へ。13号線で昨夜行ったプレイス・ド・クリッシィで乗り換えてディマンシュ駅へ。ムーランルージュ界隈を再びほっつき歩く。こういう岡場所は気の済むまで歩き倒すのが、私が日ごろから心がけている旅のモットーである。するとインターネット屋を発見した。2時間近くネットをする。フランスに来てからモバイルしかできなかったので、食い入るようにmixiと日本語ポータルサイトを熟読する。すると極楽とんぼの山本圭一が淫行で吉本を馘首された報に接し、驚く。なんて愚かな奴なんだろう!相方の加藤はどうなる?しかし10年前同様の事件を起こした板尾創路が謹慎で済んで、山本がクビというのは、吉本の処分の基準に解せないものがある。ケースが違うのだろうか。
とにもかくにもこれからの成り行きに注目である。
それからまたメトロに乗りOPERAへ。オペラ座近くのHISに行き、1日市内観光ツアーとかカルト・ミュゼ・モニュマン(美術館の割引周遊チケット)とかについて尋ねる。が、どれも高いので結局何も買わずに外に出る。教えてもらったFNAC(フナック)という大手CDショップに向かう。サンラザール駅の駅前だというが、近いのでメトロに乗らずに歩いていくことにする。
プレイス・ド・クリッシィ駅。
昼間のムーランルージュ前。
FNAC:フランスの大手CDショップ。
すると、突然尿意をもよおしてきた。
だが、トイレがなかなか見つからない。
突然の大ピンチに窮地に立つ波照間なのであった。
(DAY5-2) でもって、またまた便器画像 (mixi-mobile)
パリを歩いていると、本当に困るのがトイレ。公共スペースにはほとんど見当たらない。これはオペラ座近くの三越のトイレ。なんとか間に合いました。しかしご不浄の話題ばかりですみません(汗)。
(mixiのコメント欄より)
・パリのトイレって足のながいヒト用ですよね…T△T
・トイレが有料とか、地下鉄はスリだらけとか聞きますねー
・(RES)とりあえずスリには遭いませんでした。おそらくローマのほうが数は多いと思います。ローマでは子供のスリ団に取り囲まれ、ポケットをまさぐられる恐怖体験を味わいました。
1673年8月、三井高利が江戸本町に呉服店「越後屋」を創業する。
(DAY5-3) ルーブル美術館 (mixi-mobile)
ここもお約束の場所ですね。サモトラケのニケから先の階上部分が、撮影禁止なのは相変わらずでした。
DA VINCI CODE のテープツアーはマアマアでした。関連作品のタイトル脇に番号があってそれを打ち込むと解説してくれるのです。なぜか「岩窟の聖母」の解説がないのは解せませんでしたが。
(mixiのコメント欄より)
・(編集者のA氏)>DA VINCI CODE のテープツアー、フランス在住の日本人からは「その種のツアーの参加者はアメリカ人が多く、フランス人は少し白い目で見ている」という話を聞きましたが、アメリカ人ばかりでもなかったですか。あと、テープは日本語もありました?
・(友人のB女史)ルーブル、金払って入ったこと無い・・・
・(友人のC女史)ルーブル、なつかすぃー☆ 広くて全然みきれなかった。また行きたいなあ。
・(A氏へのRES)日本語ありましたよ。気のせいかヘッドセットをしている人は少ない気がしました。いかにもアメリカ人ふうの団体さんもスルーしてました。「ダ・ヴィンチ・コード」あまり人気ないのかな。
・(B女史へのRES)なんかチェック甘かったです。これはダータで入れると思いましたよ!
・(B女史)あ、いや、月の第一日曜タダなのと、学生カードの閉館後タダつーのでかなり行きました。チェック緩いし抜け道も一杯ありそうだけどwww
(DAY5-4) 極限状態について考えること〜テオドール・ジェリコー『メデュース号の筏』を観て
今(2006年8月27日午前1時30分過ぎ)、下記の日記を書いていた。先月行ったタイ・フランスの旅日記のルーブル美術館見学のくだりである。
[tableau] テオドール・ジェリコー『メデュース号の筏』(1824年 ルーブル美術館所蔵)
ルーブル美術館では「ダ・ヴィンチ・コード・ツアー」というヘッドフォン音声サービスのサポートを得て作品を鑑賞したが、これが思いのほか面白くてよかった。
限られた時間で、巨大なギャラリースペースの中の全ての作品を鑑賞することは不可能なので、あらかじめガイドにしたがって歴史的視点を踏まえて見学するのが頭に入りやすく、知識欲を満足させたのである。
その中、今回もっとも印象に残ったタブローが、ヴェロネーゼの『カナの婚礼』(1528〜1563年)、ジャック=ルイ・ダヴィッドの『皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』(1806〜07年)、そしてテオドール・ジェリコーの『メデュース号の筏』(1824年)だった。
ジェリコーの『メデュース号の筏』は、画集などで以前なんとなく見た程度の記憶しかなかったが、実際実物を目の前にして、作品の成立した背景を日本語のガイドを通して鑑賞すると・・・・・・
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と、ここまで書きかけた。
ちょっと疲れたので、気分転換にニュースのページを見てみると、以下のニュースに出くわした。
太平洋を漂流9か月!?メキシコの漁師3人が帰国
【リオデジャネイロ支局】昨年10月末にメキシコ中部のサンブラスを出港した後、燃料切れで漂流を続けていた漁船が8月中旬、約8000キロ離れた南太平洋のマーシャル諸島で救助され、生き延びた漁師3人が25日、帰国した。
AP通信などによると、全長8メートルの漁船には漁師5人が乗り込み、数日の予定でサメ漁に出たが、燃料切れで漂流。3人は魚や海鳥を捕らえて食べ、雨水や尿を飲んで餓えと渇きをしのいだが、2人は生の食べ物を拒んで1〜2月に餓死したという。
台湾のマグロ漁船に救出された。
サンブラス出身のルシオ・レンドンさん(28)は、町を挙げての出迎えに、「岸に戻り着く信念があったから帰って来られた。もう一度海に出たい」と語った。3人の帰還は、メキシコ国内でも大々的に報道されているが、出航目的が薬物の密輸だった疑いも浮上し、当局が調査中。「仲間の遺体を食べたのでは」との憶測も呼んでいるが、3人は強く否定している。
(2006年8月27日0時4分 読売新聞)
シンクロニシティーを感じた!!
ジェリコーの『メデュース号の筏(いかだ)』は、1816年に起きたフランスのメデュース号の海難事故という実際の事件に材をとった作品である。セネガル沖で座礁した船から脱出するにあたり、わずかな救命ボートに乗りきれなかった149名の乗客が、船の端材を集めて作られた筏に乗る。しかしおりからの悪天候のため、救命ボートに引っ張られていた筏はロープを断ち切られ、わずかな食料と水しか与えられぬまま、自力で陸地を目指さなければならない事態に陥る。その12日後、漂流しているところ発見された筏にはわずか15名の生存者しかいなかった・・・・・・。
この事件は以下の点からフランスで大スキャンダルとなる。
政治的なコネを使ってその職に就いたものの全くの無能力だった船長が、責任を放棄してまっ先に救命ボートで逃げてしまい助かったこと。
筏の漂流中に乗客たちは食料を奪い合って殺し合ったが、食料が尽きたときには同胞を殺してその人肉まで食らったというスキャンダラスな噂も絶えなかったこと。
ジェリコーはジャーナリスティックな視点からこの作品を描いたとされている。だがしかしこの作品はフランスでは不評で、ジェリコーの生きている間は本国では日の目を見なかった。
作品は漂流している筏のはるかかなたに大型船の船影を認めた瞬間の、筏の上にいる人間達のさまざまな状態を描いている。死んでいる息子の亡骸を抱いて呆然とする父、転がっている遺体、船に向かって懸命に手を振る者、さまざまな群像をとらえている。激しい波の上に平行を保たず斜めにぐらついている筏と背景の海、空、光線の陰影、構図、・・・それらすべてが、人間が本能的生物から理性を取り戻すこの瞬間の希望と絶望を表現しているように見える。この絵を観て人間が極限状態で行なってしまう狂気の存在には心底恐怖した。しかしそれは他人事ではなかった。自分の身にも起こりうることだと思った。そのとき自分だったらどうするだろう。。。
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根拠はありませんが、このメキシコ人の漁師たちは、生き延びるために仲間の遺体も食べたのではないか、と思います。
しかし9ヶ月も漂流するとはにわかには信じがたいのですが。。。
2006年7月20日(木)
(DAY6-1) BUKKAKE @ CHINATOWN, PARIS
パリ4日目
深夜ホテルの冷房が切られてしまい、とてつもなく寝苦しい夜を通過しほとんど眠れなかったが、明け方うとうとしてしまい、朝8時過ぎ目が覚める。すぐに昨日の行動をメモ帳にさーっと走り書きする。シャワーを浴び、支度をして、9時15分出発。
ホテルを出てアレジア通り(Rue de Alisia)を東に歩く。5分くらいのところにあるクレープ屋さんでバナナとミネラルウォーターを買い、店の前のベンチでプロテインシェイクドリンクを作り、飲む。タブレットで栄養補給もする。日差しが爽やかで気持ちいい。でも今日も暑くなりそうだ。
食事を終えるとまた歩き始めた。
しばらく行くとアレジア駅の広場。いつもはここからメトロに乗るのだが、今日はある目的があって、広場を突っ切ってさらに東に歩いていった。15分ほど歩くとインターネットカフェを発見。休憩がてら中に入る。ミクシィチェック、ホットメールのチェックをする。勘定するときに店の主人に道を尋ねる。
今日のパスカルズのコンサート会場である
PARC de CHOISYの場所を訊いたのであった。
すると主人は、すぐそこのバス停から62番のバスに乗れ、と言う。「歩けないか?」と訊くと、「無理無理。遠いからバスに乗ったほうがいい」と言われたので、バスに乗ることにした。62番のバスはすぐにやってきた。
62番系統のバス。パリのバス初体験でした!
バスはかなり混雑していた。フランス語のヒヤリングはほとんど駄目なので、地図を頭に入れ、適当なところで下車する作戦に出た。たくさんの人が降車するバス停があったので、この辺だろうと思い、バスを降りると、ちょうど目的地のTOLBIACの駅のところだった。公園は駅のすぐ近くなのだ。
というわけで、勘を頼りに、なんとか公園にたどり着いた。
コンサートは夕方からなので、場所の下見というわけである。
ところが、公園に着いたはいいが、中を歩いてみても、野外音楽堂はおろか、広場には音響機材もクルーの人影も皆無で、およそコンサートをやるような雰囲気ではなかった。あと8時間後くらいにコンサートがやるとは到底思えなかった。非常に不安な気持ちになった。
しかし持ち前ののん気さから、まぁなんとかなるだろう、また夕方来ればいいや、と高をくくり、その場を後にしたのではあったが。
TOLVIACはチャイナタウンで、中華料理屋がたくさんあった。
これはポルノ映画館。
BUKKAKEという文字に思わず反応してしまったよwww
(DAY6-2) ポンピドゥーセンター前 (mixi-mobile)
マイタイを飲んで酔っ払うの図。
4日目にして初めて雨が降ってきた。
ポンピドゥーセンターというと、私たちの世代だと、ストラングラーズのベースのジャン・ジャック・バーネルのソロアルバムのジャケ写を思い出します。
(mixiのコメント欄より)
・(高校時代からの悪友A氏)ジャン・ジャック・バーネルのソロアルバムのジャケ写も音も鮮烈だったな〜
(DAY6-3) Les Pascals@ Parc de Choisy (mixi-mobile)
そんなわけで、始まりましたよー
(mixiのコメント欄より)
・(ロンドン在住のN女史)ついでにロンドンもお越しになって★
わたしがパスカルズを初めて観たのは2005年5月、藤沢の遊行寺で行なわれた「遊行寺春の音祭り どんとこい」という野外ロックイベントででした。このイベントは2000年にハワイで客死したどんとさんを偲び、彼をリスペクトする友人のミュージシャンらが集まり毎年行なわれるイベントで、パスカルズも毎年出演していますね。
特に熱心なたまファンでなかったわたしはそこで生まれて初めてパスカルズの音楽、動く石川さん、動く知久さんに接したのですが、とにかく衝撃を受けました。世の中にこんなに気持ちのいい音楽があるのかというのが第一印象でした。特に野外で聴くとこのアンサンブルはたまらなく幸せな気分になれるなぁ、と思いました。そしてその中で、特に石川さんはムードメーカーの部分を担っているというか、会場じゅうを走りまくり、狂気の踊りを踊り、おもちゃの楽器をかき鳴らし、パスカルズの音楽の中で子どものように遊んでいました。
そこでパスカルズに一目ぼれしたわたしは、国内ライブが行くと観にいくようになりました。そしてその1年後の2006年7月、ぐうぜんフランス旅行中にパリの公園でまたまたパスカルズの野外ライブを観る機会に恵まれました。そのときも幸せの大きなシャボン玉の中にただただぽわーんと漂っているような夢心地の中で時間を共有できました。なんて気持ちがいいのだろう、なんて素晴らしいバンドなのだろう、とひたすら独り言のように反芻して宿に戻りました。
今は外国に住んでいてなかなか観に行く機会はありませんが、わたしの中では2005年以来、世界でいちばん好きなバンドの座はほかの誰にも明け渡していません。また観に行く機会があればお邪魔します。よろしくお願いしますー。
(「石川浩司のひとりでアッハッハ」「王様の耳はロボの耳」投稿した文章より)
パリ初日のParc de Choisy(7月20日)に行ってきました!
フランス旅行の最終日だったのでとってもいい思い出になりました。パリでパスカルズを見られるなんて夢のようです。
当日のお昼頃に会場の下見に行ったところ、公園のどこへ行ってもそれらしき機材がまったくないので、本当に今日はここでやるのかなー、と半信半疑な気持ちでその場を去りました。で、夕方開場時間に再び来たらサウンドチェックをやっているのが聴こえてきて、一安心しました。もしかして日にちを間違えたかも、という不安も大きかったのです(汗)。
実はそれまで連日35度以上の記録的猛暑でまったく雨も降らなかったのに、その日にかぎって午後になっていきなり夕立が降り、しかもすぐに止んでちょっとクールダウンし、爽やかなとても気持ちのよい野外コンサートになりました。
受付を済ませるとすでにお客さんは6〜7割はうまっていました。一段高くなったコンクリートの平面をステージにして、客席は土の上に直接腰をおろすようになっています。お客さんの目の前でメンバーがサウンドチェックをしていました。バンマスのロケット・マツさんがリードしてメンバー一人ひとりのマイクテストを行っています。日本ではけして見られない貴重なものを見させてもらいました。後から聞くと夕立があったのでリハーサルの時間が大幅に遅れたそうです。
だんだん人が集まってきてサウンドチェックの間にほぼ百人くらいになりました。お客さんは9割9分以上がフランス人。日本人の姿はほとんど見ませんでした。
サウンドチェックが終わるとメンバーはいったん楽屋に戻り(ステージの後方にテントが建っていました)、約15分後に司会者のアナウンスに紹介されメンバーが再登場、いよいよコンサートが始まりました。知久さん、松井亜由美さんが不在だったと思います。
最初にいきなり、石川さんがマイクに向かって、日本語で口上を述べ出しました。以下のようなことを言いました。〜今日はコンサートに来てくれてありがとうございますー。今日は突然大雨が降って開演が遅れてしまいすいませんでした。もしかしたら私たちメンバーをはじめ、お客さんも全員感電死するかもしれなかったんですよー。それはそれで面白かったかもー、あっはっはー・・・・・・。(意訳)
フランス人の観衆にはまったく伝わってなかったと思いますが、私は声を出してげらげら笑ってしまいました。
曲が始まると、もうお馴染みのパスカルズの世界にぐいぐい引き込まれていきます。音楽は世界共通言語だということを再認識しました。素晴らしい音楽は世界どこで聴いても感動するんですね。案の定、石川さんのパフォーマンスはフランスの子どもたちにも大人気で、ステージを下りて会場中を走り回ってる石川さんのうしろを子どもがついて行くという、とても楽しいステージでした。
ロケット・マツさんのたどたどしい英語の曲紹介やMCも非常にチャーミングでした。
「だんだん畑」は知久さんがいないので石川さんとあかねさんのツインVOCALで、これまた不思議な歌世界を現出させていました。
で、いつものようにグルーヴの中に身を置いていると、ひとりでに身体の中のあちこちの細胞が活性化し妄想幻想の類いが視覚を侵食しトリップしたような好い気分になっていきました。気がつくと最後の曲になっていました。
幸せな体験でした。
メンバーの皆様、スタッフの皆様、素敵なコンサートをありがとうございました。ツアーもあと少しですね。道中無事祈念しておりまする。 (波照間エロマンガ島)
(本人より)あれは実は危機一髪だったんだよね。雨が結構激しく降っていて野外だったので、直前までスタッフが「中止にするか?」と悩んでいたイベントだったので良かったー。
パリでは企画でパリ市内の五カ所で野外ライブをやるというしょっぱなの日だったんだよね。
おかげで他の会場も盛況、終始笑いの絶えないライブでした。
(「石川浩司のひとりでアッハッハ」「ザ・レポート」より)
(DAY6-4) パスカルズのコンサートが始まるまでパリ市内を徘徊
パリ4日目(2)
PARC de CHOISYの下見を終える頃、時刻は正午を過ぎていた。
今日もまたピーカンの猛暑だ。
さて、夕方のパスカルズのコンサートが始まるまで時間があるので、パリの街歩きをすることにした。
Blanche駅入り口
TOLBIAC(トルビアック)からメトロ7号線に乗りOPERA(オペラ)。ここで3号線に乗り換えてSt. Lazare(サン・ラザール)。ここで13号線に乗り換えて
Pl. de Clichy(プレイス・ド・クリッシィ)。ここで2号線に乗り換えて隣りの駅、Blanche(ブランシュ)。ここ数日メトロに乗りまくったのでだんだん路線の繋がりがわかってきて土地勘がついてきた。乗り換え通路が迷路のように分かりにくいのは玉に傷だけど、それにも慣れてきた。
いつものネット屋でお昼のmixiチェック、パリの観光スポットチェックののち、昼食。坂の途中のY字路に面したブラッセリー。
ビールとサーモンピッツァサンド。めちゃくちゃ美味しかったですー。
食後のエスプレッソ。
オルセー美術館界隈
食事を終えるとまたメトロに乗り移動。Pl de ClichyからSt. Lazare、乗り換えてSolferino(ソルフェリノ)へ行き、オルセー美術館に行く。しかし入場のための行列がすごかったので入るのをあきらめ、セーヌ川を渡り、ルーブルからポンピドゥーセンター方面に歩くことにした。オルセー美術館は前回パリに来たとき(1985年)にはまだ完成してなかった。ここにある収蔵作品のほとんどは「印象派美術館」という名前の美術館に展示されていた。コンコルド広場の近くにあって行った記憶がある。マネの「笛を吹く少年」が建物の外から窓越しに見えたことが印象的だった。
オルセー美術館周辺(サンジェルマン・ド・プレ)は今回はあまり歩けなかったけれど、プルーストの「失われた時を求めて」の舞台となった街区でもあり、また訪れる際には深く散策してみようと思う。が、なにしろ暑すぎていかんせん、歩く気力も萎え気味だった。夏のパリは次回から避けよう。
セーヌを走る遊覧ボート
ロワイヤル橋ごしに見えるルーブル宮
セーヌ川にかかるロワイヤル橋を渡りルーブル宮殿。今日はルーブル美術館には入らずにそのままスルーしてパレ・ロワイヤル・ミュゼ・ドゥ・ルーブル駅。そこから7号線に乗りシャトレ下車。ここから10分ほど歩き、ポンピドゥーセンターへ。
ルーブル美術館のいちばん近くにある駅です
ポンピドゥーセンター
マイタイ大好きでっす
疲れたのでカフェーで休憩。マイタイを注文。するとそれまで連日猛暑の炎熱地獄だったのが突然雲が張り出し、気がつくと大粒の雨が降ってきた。バケツをひっくり返したようなにわか雨だった。コンサートの開催は大丈夫かなー?と心配になった。
結局なんだかんだで時間がなくなり、ポンピドゥーセンターの中には15分間もいなかった。
雨はいつの間にかやんでいた。
気がつくと18時を過ぎ移動する時間になってしまった。
Rambuteau(ランビュトー)から11号線でChatelet(シャトレ)。ここで乗り換えて7号線でTOLBIAC。再びPARC de CHOISYに戻る。
公演に入るとさっきは何もなかった場所にPA設備、ミキサーと楽屋用テントが見事に配置され、リハーサルが行われていた。
サウンドチェックを15分ほど見てから、メンバーがいったん引っ込み、そしてコンサートがスタートした。
サウンドチェック中。
2006年7月21日(金)
(DAY7-1) さようなら、パリ (mixi-mobile)
さようなら、パリ
(mixiのコメント欄から)
・(編集者A氏)旅の終わりは切ない気持ちになりますよね……
・(A氏へのRES)切ないです けっこうフランスよかったかもしれません また近いうちに来たいです
2006年7月22日(土)
(DAY8-1) 帰国 (mixi-mobile)
日本に帰ってきました。今、成田の民間駐車場から車を引き取り、首都高レインボーブリッジ付近走行中ですが、渋滞しています。画像は山本圭一が住んでいると思われる佃島の超高層マンション。レインボーブリッジから見えました。吉本興業を解雇されたのでもうここにも住めなくなるのでしょうか。カーラジオを点けたらJ-WAVEでマイミクシィの如月音流(ねる)さんが高城剛と対談していました。テーマはWEB2.0について。ねるタンかっこいい♪
たかだか1週間日本にいなかっただけなのに、帰国して30分もしないうちに「日本」と「日本語」の海に投げ出され翻弄されくらくら酔っ払っています。日本は、日本語によって海外と国境を隔てていることを再認識しました。
2012.07.18 Wednesday
[chapter 16] バンコクから飛行機に乗ってちょこっと西のほうへ旅行(前編)
[近況] 昨夜のこと、3年前にチェンマイで購入した日本製の自転車が盗難に遭いました。朝、駅の駐輪場に施錠していつものように普通に出勤していったのですが、夜帰ってくると失くなってました。とてもショックを受けています。ボロ自転車でしたが愛着があっただけに、突然の予期せぬ別れは激しく凹みました。気を取り直して警察に届け出に行ってきます。泥棒が捕まって、自転車が戻ることを祈っています。
そんなわけで、エトワール凱旋門。今回の日記の舞台です。6年前の今ごろ、行ってきました。
そんなわけで、エトワール凱旋門。今回の日記の舞台です。6年前の今ごろ、行ってきました。
2006年7月15日(土) 東京〜成田 43歳 | |
2012.07.11 Wednesday
[chapter 15] 初めての東南アジア4カ国 5000km 陸路の旅
プノンペンにて(2011年7月10日)
1年前(2011年)の今ごろは、以下に記した旅の途中でした。今回は、ニヒル牛マガジンの「トラベル★バイブル」の趣旨に合ってますよね?チャイマイ?(「そうですよね?」という確認の意味のタイ語の半疑問表現。しかし、誰に確認とってるんだ、って話ですけどww)
2011年、私がもっとも印象に残った旅行が、7月8日から19日まで12日かけてインドシナ半島を陸路でまわった旅行です。タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスと4カ国をまわりました。それぞれの国を個別に旅したことはありますが、チェンマイの自分の家を出発し、飛行機を使わずすべて陸路で一筆書きのようにぐるっと周遊して、また家に戻ってきたというのは、初めての経験でした。12日間で約5000kmを移動したことになります。
ベトナムのホーチミンでは折から旅行中の石川さんご夫妻とお会いして、夕食をご馳走になったり、ニヒル牛マガジンの「妖艶ホリデー」(第四十一回)の撮影に同席させてもらったりしました。その節はありがとうございました。
旅程をざっと書き出すと、
7月8日:寝台列車でチェンマイからバンコクへ。
7月9日:早朝、バンコク着。お昼過ぎ、タイ国鉄でバンコクからアランヤプラテートへ。夕方、タイ=カンボジア国境を越え、深夜バスでカンボジアの首都プノンペンへ。
7月10日:プノンペンで一日休養。
7月11日:朝一番の国際バスでプノンペンを出発、お昼頃、カンボジア=ベトナム国境を越え、夕方ホーチミン到着。石川さん夫妻と会食。
7月12日:一日ホーチミンをぶらぶら。午後、石川さん夫妻と川向こうの地区にフェリーで渡り、散歩。途中、廃墟のようなところで「妖艶ホリデー」の撮影をしたり、道端の店でお米の麺を食べたり。いったん解散して夕食をまたご一緒する。
7月13日:朝一番のバスでホーチミンを出発、夕方、ベトナム有数のリゾート地、ニャチャンに到着。宿泊。
7月14日:日中はニャチャンをぶらぶらする。夜、深夜バスでニャチャンを出発し、街並みが世界遺産に登録されているホイアンへ。
7月15日:朝、ホイアンに到着。半日過ごし、午後のバスでホイアンを出発し、フエへ。夕方到着。宿泊。
7月16日:終日、フエで過ごす。朝一番でフエの宮殿を見学。午後は町歩きをする。暑くてTシャツが塩吹きまくる。
7月17日:朝一番のバスでフエを出発し、ラオスのサバンナケットへ向かう。途中お昼頃、ベトナム=ラオス国境を越え、午後3時すぎにサバンナケットに到着。ちょうどメコン川対岸のタイのムクダハン行きバスがあったので急いで乗り換え、国境を越えタイに入国する。ムクダハンからバスに乗り、タイ東北部の大都市コーンケーンへ。午後8時すぎ到着。宿泊。
7月18日:お昼のバスに乗りコーンケーンを出発、チェンマイへ。
7月19日:午前1時すぎ、チェンマイ到着。帰宅。
これを書き出しただけで、旅のことが思い出されて疲れが出てきました。移動は長距離バスが多かったので、身体がとてもしんどかったです。
タイは南北に長い国でタイ北部のチェンマイから南部のマレーシア国境までは2000km近くあるのですが、チェンマイから東に1000kmくらい進むとベトナムのフエに到着するのです。マレーシアへ行くよりもベトナムに行くほうがぜんぜん近いということを肉体感覚として体感したことがこの旅の最大の収穫でした。
来年は今回のコースを途中まで逆にいって、ベトナムのフエから北上してハノイのほうまで行ってみたいと思います。 (波照間エロマンガ島)
(寸評)若者ならいざ知らず、アラフィフが陸路でこれだけの道行きは相当きつかっただろうね〜。
ホーチミンの貧民街のようなところを一緒に行ったのは面白かったね。
ちょっと外れるとジャングルの中みたいな感じなのに、その木々の間からは高層ビルが見えているというコントラストが。
それにしても来年もとは・・・あんたも好きねぇ!(石川浩司の「ひとりでアッハッハー」「ドキドキドキリコ初体験」より)
というわけで、この体験を、画像や動画で詳しく振り返ってみようと存じます。
*画像をクリックすると拡大します。
2011/07/08-9 チェンマイ-バンコク(夜行寝台列車) | ||
列車内泊 |
2011/07/09-10 バンコク-アランヤプラテート(列車)-プノンペン(夜行バス) | ||
バス内泊 |
2011/07/10 プノンペン | ||
ホテル泊 |
2011/07/11 プノンペン- ホーチミン (国際バス) | ||
ホテル泊 |
2011/07/12 ホーチミン | ||
ホテル泊 |
2011/07/13 ホーチミン-ニャチャン (バス) | ||
ホテル泊 |
2011/07/14-5 ニャチャン-ホイアン(夜行バス) | ||
バス内泊 |
2011/07/15 ホイアン-フエ(バス) | ||
ホテル泊 |
2011/07/16 フエ | ||
ホテル泊 |
2011/07/17 フエ-サバンナケット-ムクダハン-コーンケーン(国際バス) | ||
ホテル泊 |
2011/07/18 コーンケーン-チェンマイ(バス) | ||
午前1時着 |
*画像はごくごく一部です。
タイ国鉄最高標高地点のクンタン駅にて。犬が餌を求めて集まってくるの図。
タイ=カンボジア国境の町、アランヤプラテートに列車が到着するところ。
バイクタクシーのドライバーが客を求めて待ち構えている。
プノンペンからホーチミンへ行く国際バスにて。メコン川をフェリーで横断した。
ニャチャンにて。夕方、スコールが降ってきたと思ったら、あっというまに七分丈の高さまで冠水。
町並みが世界遺産に登録されているホイアンにて。交差点を左折する観光バス(右側通行)。
フエにて。貨物列車の通過。
フエ。気持ちよさそうに家の中でカラオケを熱唱するおっさん。近所に丸聞こえ。
次回は逆ルートで、陸路で北部ベトナムを回ってみたい気もしますが、時間がないので難しいだろうなぁ。
でも、楽しい旅でした。
興味のある方は、ぜひどうぞ。
[追記]
サバンナケット=ムクダハンの国境は、「電波少年」の「ユーラシア大陸ヒッチハイクの旅」で猿岩石も訪れていますが、当時は橋がかかっておらず、渡し舟でしか対岸のタイには行くことができませんでした。10年くらい前にタイ=ラオス友好橋が完成しました。
2012.07.04 Wednesday
[chapter 14] Tuk Tuk Dog / エーツーライブ初体験 / チェンマイ初上陸記念日 / 東京の水道水の味、ほか
〔近況〕
7月になりました。2012年も早くも折り返し点を過ぎました。
おかげさまで日々充実した人生を送っています。
さいきん卯月妙子さんの「人間仮免中」を読みました。とてもハートウォーミングな気持ちになりました。
ハァハァハァハァハァ(暑いyo!) トンブリーにて。
最近10年間の7月1日の出来事(抄)
2011年7月1日(金) チェンマイ 48歳
つぶやき on twitter
「ハービー/機械じかけのキューピッド」(2005)は、何度観ても愉快な気分になる。この映画に限ってはリンジー・ローハンは良い。
posted at 01:01:20
ハンナ・バーべラ・プロダクションに所属していたアニメーター&キャラクターデザイナーで、淡島千景の弟のスティーブ・ナカガワのクレジットをこないだから目を皿のようにしてカートゥーンチャンネルで探しているのだが、まだ見つからない。
posted at 01:09:15
昨夜は久々にチェンマイ逃避組の人たちとチャットでおしゃべりした。2月にチェンマイでわいわい言いながらお酒飲んだ空気を思い出した。楽しかったな〜。
posted at 17:05:58
2010年7月1日(木) チェンマイ 47歳
つぶやき on twitter
「一冊の書物は、われわれが日頃の習慣や、交際や、悪戯などのなかで示している自我とは異なった自我の所産である。このもうひとつの自我を理解しようと思うなら、それに成功するためには自分自身の奥底に降りてゆき、自分の内部でこの自我を再創造する以外にない」 マルセル・プルースト(1908)
posted at 03:55:01
マスオ「大阪万博からもう40年も経ったね」
サザエ「あのときはタラちゃんが迷子になって大変だったわね」
タラ「えへへでしゅー」
posted at 04:10:17
「あゝ決戦航空隊」(1974年 東映)で、ずっと飛行帽をかぶり芝居していた西城秀樹(長髪を飛行帽で隠しとおした)は絶対に許すまじ、と子供の頃から強く思い続けてきた。地上シーンでも飛行帽被ってるのは間抜けとしか言いようがなかった。
posted at 15:10:12
本人に内緒でサイン会に来た母親を発見した高嶋ちさ子。ほとんど自動的に「何しに来た!このババア!」と絶叫すると、母親は「わー、テレビと違う!怖いわー。」と言いながら、暴言を浴びせられた一般客を装って、周囲の同情を誘いながら、ちさ子を悪者にして帰っていったらしい。
posted at 18:26:38
2009年7月1日(水) チェンマイ 46歳
[タイ語] 本日のタイ文和訳
今日の授業で出てきたタイ語の一文がみょ〜に自分の心境とマッチしたので採録しました。
คนญี่ป่นที่มาอยู่เมืองไทยบางคนชอบใช้ชีวิตตามลำพังคนเดียว ไม่ชอบยุ่งเกี่ยวกับคนอื่น
カタカナ読み
(コン・イープン・ティー・マー・ユー・ムアン・タイ/ バーン・コン・チョープ・チャイ・チーウィット・ターム・ラム・パン・コン・ディアウ/ マイ・チョープ・ユン・キヨーカップ・コン・ウーン)
(和訳)
タイ国に来て住んでいる日本人のある人たちは、1人で生活することが好きです。他の人と関わりあうのが好きではありません。
俺のことじゃまいか?
いや、全肯定も全否定もしないですけど、でもある部分は当たっているところがあると思われます(含み笑い)。
2008年7月1日(火) チェンマイ 45歳
豆乳、パン、クッキー、KIRIチーズ
今日の朝食。豆乳。スアンドーク門近くのファイベーカリーで買った食パン。クッキー。
KIRIクリームチーズ。
KIRIチーズは175バーツ(約525円)もするのでびっくりした!!日本の倍近くするんじゃないでしょうか。買った後1日近く後悔していました。何の気なしに買い物カゴに入れて買った後で気がついたんですね。輸入物なので高いのはわかりますが、チェンマイでは175バーツあれば普通のレストランでけっこういいものを食べられるので。いやぁ、悔やまれる!
タイに住むようになり2ヶ月が経ち、金銭感覚もだいぶんタイ人化してきた自分がいるようです。
2007年7月1日(日) 東京 44歳
[落語] 超・新作無法地帯@青い部屋(渋谷)
一昨日29日は渋谷に新作落語の会を聴きに行きました。
題して「超・新作無法地帯」。
席亭はジェームス槇さん。前回、下関マグロさんのトークライブでその存在を知り、今回足を運びました。ジェームス槙というのは、小津安二郎が戦前使用していたペンネームですが、そこからもってきたのかな?
以下、告知文よりばっすい。
超・新作無法地帯(第1回)
19時開場 19時半開演
23:00close
¥2000(当日) ¥1500(予約)
別途drink代別+500円
落語家:桂花丸、川柳つくし、台所鬼〆
非落語家組落語:下関マグロ、黄金咲ちひろ
お笑い:元気いいぞう、マナティ、仔羊エルマー、マリッジブルーこうもと、
Oh!ルーシー、クリスタル大坪
音楽:エーツー、DJきーぽん
文字通り、無法地帯なテイストでありました。エロあり電波あり差別ネタあり、放送コードは軽く逸脱するディープな内容で、3時間おなかいっぱいになりました。ただ日本の伝統話芸である「落語」という縛りがあるので、話に必ず落ちがあり、収斂されるので、後味はそれほど悪くなかったです。
演者さんはプロの噺家さんのほかには「非落語家組落語」ということで、前回このイベントを誘ってくれたライターの下関マグロさんやエロパフォーマーの黄金咲ちひろさん、歌手の元気いいぞうさんなどが加わり、怪しさに彩りを添えてくれました。個人的には元気いいぞうさんが昔から大好きなので、彼の電波イムプロヴィゼーション話を聴けてよかったです。
色物として出てきた演者さんの中でも、DJきーぽん、マナティ、エーツーなど、期待の新人も掘り出せました。
機会があれば、また伺おうと存じます。
出番を終えた黄金咲ちひろさんがすぐ隣に座って、肩が触れるほど接近して、私の鼻息が荒くなってことも特筆しておきましょうww。
挨拶すると、目の前でスカートを上げて黄金のパンティーを見せてくれました(ふんがー)。
(2012年メモ・・・この日が私とエーツーの運命的出会いの日となったわけでした、ちと大げさですが。)
2006年7月1日(土) 東京 43歳
[読書メモ] インタビュー 柄谷行人 グローバル資本主義から世界共和国へ(文學界 2006年8月号)
新刊「世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて」(岩波新書)を上梓。あとがきに「普通の読者が読んで理解できるものにしたい」とある。普通の読者=官僚やビジネスマンを想定しているらしい。
資本主義、国家、ネーション、宗教などの言葉とその意味するところについて、交換の様式から初めて解明することができた(今まではそれが十分にわからないまま柄谷も使っていたのだが)。それを他人に伝えたくなりこの本を書いた。
柄谷世代(1941年生まれ)の学生が学んだ東大法学部や経済学部では、宇野弘蔵の「経済学原理」が必修になっていた。これはマルクスの「資本論」を独自に再構成したものであった。そのころまでは官庁や企業に入る人は全員「資本論」を読まなければ卒業できなかった。宇野弘蔵の「資本論」の理解はユニークで、史的唯物論はイデオロギーであるが、「資本論」は“科学”であると認識していたこと。つまり「資本論」は、各人がどういう考えをもっていようと何をしようと貫徹される資本制経済の原理を明らかにするというのである。
資本制経済は、賃労働=労働力商品、によって商品を生産し、さらにそれを労働者が買う、ということで成り立っている。しかしこの労働力商品というのは人間を意味するので、必要がないからといって廃棄できないし、必要だからといって、急に増やせない。人手が足りなくなると、労賃が上がり、利潤率が下がる。このために、資本制経済は景気循環やひどいときは恐慌(大不況)を避けられない。
また、資本の移動や労働の移動(移民)は避けられない。現在、先進諸国は、資本の海外への移動で国内での失業、さらに移民問題、少子化問題などに悩まされているがそれらは今に始まったことではなく、本質的に避けられないことである。
宇野の考えでは、労働力商品という特殊な商品に基づくがゆえに、資本制経済は根本的な矛盾をもつ。そのため恐慌は避けられない。とはいえ、それが資本制経済の崩壊になるのではない。
■交換様式としての「国家」
国家とは人民を代表する政府とは別の何かである。
ふつう(われわれは)国家を政府と混同して考えてしまう。国民の意見がより忠実に反映されるような政府ができれば真の民主主義が実現されるだろうと考える。しかしそれは国家をその内部だけで考える見方である。
国家は先ず、他の国家(敵国)に対して国家である。国家は本性的に他の国家に対して敵対的であり、それそれの国民に敵対性を吹き込むものなのである。それは現在の日本や中国、韓国などの関係を見ればわかりやすい。
今回の本で、国家を、商品交換とは異なる、ひとつの交換様式(強奪と再分配・保護)としてとらえた。資本主義が共同体と共同体の商品交換から始まるように、国家も共同体と共同体のあいだで始まる。まずは強奪が先行する。いわゆる交換は、強奪や契約不履行を禁じる国家が背後にあるからこそ可能である。国家とは継続的に強奪するシステムである。そのためには相手を保護し、育成する必要がある。
もう一つの交換様式が、贈与とお返しという交換、つまり「互酬」である。これは家族や共同体の中に感情の次元の問題として多く存在する。実はネーションというものは、さまざまな共同体が崩壊した後に、相互扶助的な互酬性を想像的に取り戻したもので、国家とは違って、感情的な同一性を基盤にしている。ネーションと国家とは異なる基盤に基づいているのである。
現代の社会は、資本=ネーション=国家という、異なる三つのものの接合として存在する。このうち国家がもっとも重要である。国家が存在するのは人間と人間の間には強奪が根本的にあるからである。
2005年7月1日(金) 東京 42歳
[橋梁]はね橋マニア
先月行ったアムステルダムのはね橋の動画。この頃すっかり、はね橋に魅了されている。
フレームの中の景観が一変するのがなんともいえず、よかです。
世界中のはね橋を画像や動画に収めてコレクションしたい。
2004年7月1日(木) 東京〜シンガポール〜バンコク 41歳
[旅] シンガポール航空でシンガポールシティー乗り継ぎでバンコクへ
午前1時、横浜の某キャバクラ。(副業でやっている女の子の送りの仕事)
午前2時半帰宅。ただちに荷造り。
シャワー、着替え等もろもろの準備を済ませ、午前4時半、家を出る。
用賀インターから首都高3号線〜中央環状線〜レインボーブリッジ〜湾岸線を経て東関東自動車道へ。明け方なので渋滞に合わずイージードライブで気持ちよい。途中、湾岸幕張と酒々井のPAにて時間調整。
午前6時45分、成田の民間駐車場にチェックイン。午前7時成田空港第1旅客ターミナル着。
午前7時半、団体受付カウンターにて搭乗券を受け取る。今回はHISで格安航空券を購入した。そのままシンガポール航空(以下、SQと省略)カウンター、チェックイン。
午前8時、出国ゲートオープンとともに荷物検査、パスポートコントロールを抜け、SQのエグゼクティブラウンジへ。
円筒形のビルの4階。ここは初めて来た。ラウンジの目の前にこれから乗るジャンボ旅客機があり、ベルトコンベアで手荷物を積み込んでいた。
午前8時55分、搭乗。9時20分、離陸。
7時間半の飛行時間中は、ハリー・ポッターの3作目を読み返す(案外、時間は潰せた)。徹夜明けなので食事後はずっと眠った。トイレは1度だけ。
現地時刻午後3時15分、シンガポールのチャンギ国際空港に着陸。3時間のトランジット。免税店をまわるも何も買わず。SQのエグゼクティブラウンジに寄って休息。冷たいかぼちゃのスープをいただく。
チャンギ空港の書店にあったビル・クリントンの回顧録(ベストセラーになっているらしい)
午後5時40分搭乗。バンコクに向け離陸。
誘導路を走行中頭痛がしてきたのでEVEを飲む。滑走路まで行く前にうとうと眠ってしまい、機内食の時間まで眠っていた。CAに肩を触られ目が覚めた。
現地時刻午後7時30分、バンコクのドン・ムァン国際空港に着陸。バンコクに着いてほっとするのはタクシーに乗って高速道路に乗ったときだ。
午後8時45分、常宿の某ホテルにチェックイン。
荷解き、着替え、シャワーなど済ませ、まだ気力体力が残っていたので、お水関連のオキニの女の子に電話し、夜のパトロールに出発した。
深夜2時過ぎホテルに戻る。泥。
2003年7月1日(火) チェンマイ 40歳
初めてのチェンマイ
チェンマイに着いた。
バンコクの700km北方、飛行機で70分のところにある。しかし気候から風土からまったくバンコクと異なる。山間の高原に位置し、タイ中央平原部よりはいくぶんか気温も低く凌ぎやすい。
かつてのランナー王朝の首都があった都市で、城壁と掘割で旧市内は囲まれている。
ホテルはメイピンホテル。初めてなので一応名の通ったホテルに泊まろうと思ったのだ。ここはテレサ・テンが謎の死を遂げたことで有名である。噂によるとテレサ・テンの幽霊が出るという話だが、実のところどうなんだろう。
さて、さっそく徘徊を開始した。初めて訪れた都市はまず徹底的に歩いて土地勘を養うというモットーに従い歩き回っている。その途中ネット屋にて書き込み。歩いて回るにはちと広いかも知らん。レンタルバイクやレンタルサイクルもあるし、疲れたら乗ってもいいか。まず思ったのが街路や空き地の木々の緑が萌えるように濃く、目に優しいということ。遠景の山嶺とあいまって独特の景観を構成している。そこかしこにあるワット(仏教寺院)の金色の仏塔との相性も気持ちいいぞ。かなーり気に入ったかも。という第一印象でした。
さて休憩は終わり、探検を再開しようっと。
(2003/07/01/12:34)
チェンマイ第1日目はあいにく曇り。坊や、こんなところにゴザなんか敷いて何をしてるんだい(スリウォン・ブック・センター前にて)
ターペー門。内側から見たところ。
ターペー門の前の広場に面しているイタリアンレストランで昼食をとる。やはり想像したとおり、チェンマイは西洋人相手の店がやたら多かった。逆に中華系の店は少ない感じがした。漢字の看板はほとんど見なかった。
午後はレンタサイクルで市街を走ることにした。値段は60バーツ(約180円)。ただしデポジットとして1000バーツを預けなければならない。
しかしこれがなかなか大変で、天気は曇っていて陽射しは凌げるのだが、風が少ない分どうにも蒸し暑く、あっという間に汗だくの塩ふき状態になってしまった。おかげでいい運動になった。
夕方近くなりとつぜん雨が降ってきた。典型的なスコールでバケツをひっくり返したような大量の雨が一時に降った。仕方なく街路樹の下に雨宿りしたが、水冷式のクーラーのように身体に心地よい涼をもたらしてくれた。
いったんメイピンホテルに帰りシャワーを浴び少し休んでから、自転車を返しに行った。雨は止んでいた。
夕方のお堀端の風景、ターペー門付近。4月のソンクランのときはこのお堀の水を汲み上げて水を掛け合うというから恐ろしい。チェンマイのソンクランはバンコクと比較にならないほど激しいらしい。来年は行ってみたいな。同アングルで撮ってみて併置しても面白いかも。
昼間は存在感を消しているが夕刻になると妖しくその姿をアピールしだす。
ファラン(白人)あるところにGO-GO BARあり。
ナイトバザールの裏にあった屋外フードコート(屋台村)にてクイッティオと牡蠣入りオムレツを食す。
背後の山の稜線の青味がよい「気」を送ってくれているように感じた。
(日本の地方都市にも見えなくなくない?)
(2012年メモ・・・このときはこの5年後にこの都市に住むことになるとは、夢にも思っていませんでした。でも、第一印象はほかのタイの地方都市とは違って、とてもよかったことも事実です)
2002年7月1日(月) 東京 39歳
私立探偵 濱マイク(第1話)
「悪役」がいないのが気になった。これでは劇が引き締まらない。元日活や東映出身の性格俳優たちはどこへ行ったのか。あと、濱マイクの取り巻きの脇が甘いというか、あんまり輝いていないという感じがしたの。第2回以降期待する。
2001年7月1日(日) 東京 38歳
東京の水道水の味について
さっき会社の同僚から小耳にはさんだ話ですが、東京の水道水は不味いというのは定説ですが、武蔵野市、三鷹市は例外的に美味しいとのこと。なんでもこちらは多摩川水系の水を浄水しているとのこと。ところが世田谷区なんて目の前が多摩川なのに、利根川から水を引っ張ってきているらしい。こりゃまた、どうして???どなたか詳しい方、教えてください。
以上、ローカル・ミニミニ情報でした。
2000年7月1日(土) 東京 37歳
従姉妹の結婚式
梅雨の晴れ間。めちゃ暑い。
従姉妹(24)の結婚式。相手は近所に住む1歳年下の青年、ってことは23歳か?若いなー!!自分と比較してみると、彼をして結婚を決断させたものはなにか、考えさせられてしまう。
それよりも今日は親戚一同が久しぶりに集合したのだ。40近くになって、結婚もせずにふらふらしていてどうすんだ?と見なされる視線をひそかに恐れていたがそれほどでもなかった。「もうこいつは好きなように生きるのだろう」と、あきらめられているのだと思った(悟った)。
連日の徹夜で意識が朦朧としてきたので、結婚式から帰宅するとすぐにダウン。したがって、多摩美時代の友だちの個展のオープニングパーティーには行かず。そういう星のめぐり合わせなんだろう。
その友人のSくんが、わたしの高校時代の同級生のOくんとコラボレートして、アート系のプロジェクトを始めたと聞いたときは、本当にびっくりした。まるで夢の中の話みたいだと思った。夢の中にいると、お互いに面識のないはずの時期がずれた友人同士が同じ空間にいたりするでしょ、それが実際に起こるなんて。そういうことってあるんだね。
ところで、宮内さんの日記を読むと、今日清田益章が結婚した、とある。清田は確か同い年。あの超能力少年もついに結婚したか。
7月になりました。2012年も早くも折り返し点を過ぎました。
おかげさまで日々充実した人生を送っています。
さいきん卯月妙子さんの「人間仮免中」を読みました。とてもハートウォーミングな気持ちになりました。
ハァハァハァハァハァ(暑いyo!) トンブリーにて。
最近10年間の7月1日の出来事(抄)
2011年7月1日(金) チェンマイ 48歳
つぶやき on twitter
「ハービー/機械じかけのキューピッド」(2005)は、何度観ても愉快な気分になる。この映画に限ってはリンジー・ローハンは良い。
posted at 01:01:20
ハンナ・バーべラ・プロダクションに所属していたアニメーター&キャラクターデザイナーで、淡島千景の弟のスティーブ・ナカガワのクレジットをこないだから目を皿のようにしてカートゥーンチャンネルで探しているのだが、まだ見つからない。
posted at 01:09:15
昨夜は久々にチェンマイ逃避組の人たちとチャットでおしゃべりした。2月にチェンマイでわいわい言いながらお酒飲んだ空気を思い出した。楽しかったな〜。
posted at 17:05:58
2010年7月1日(木) チェンマイ 47歳
つぶやき on twitter
「一冊の書物は、われわれが日頃の習慣や、交際や、悪戯などのなかで示している自我とは異なった自我の所産である。このもうひとつの自我を理解しようと思うなら、それに成功するためには自分自身の奥底に降りてゆき、自分の内部でこの自我を再創造する以外にない」 マルセル・プルースト(1908)
posted at 03:55:01
マスオ「大阪万博からもう40年も経ったね」
サザエ「あのときはタラちゃんが迷子になって大変だったわね」
タラ「えへへでしゅー」
posted at 04:10:17
「あゝ決戦航空隊」(1974年 東映)で、ずっと飛行帽をかぶり芝居していた西城秀樹(長髪を飛行帽で隠しとおした)は絶対に許すまじ、と子供の頃から強く思い続けてきた。地上シーンでも飛行帽被ってるのは間抜けとしか言いようがなかった。
posted at 15:10:12
本人に内緒でサイン会に来た母親を発見した高嶋ちさ子。ほとんど自動的に「何しに来た!このババア!」と絶叫すると、母親は「わー、テレビと違う!怖いわー。」と言いながら、暴言を浴びせられた一般客を装って、周囲の同情を誘いながら、ちさ子を悪者にして帰っていったらしい。
posted at 18:26:38
2009年7月1日(水) チェンマイ 46歳
[タイ語] 本日のタイ文和訳
今日の授業で出てきたタイ語の一文がみょ〜に自分の心境とマッチしたので採録しました。
คนญี่ป่นที่มาอยู่เมืองไทยบางคนชอบใช้ชีวิตตามลำพังคนเดียว ไม่ชอบยุ่งเกี่ยวกับคนอื่น
カタカナ読み
(コン・イープン・ティー・マー・ユー・ムアン・タイ/ バーン・コン・チョープ・チャイ・チーウィット・ターム・ラム・パン・コン・ディアウ/ マイ・チョープ・ユン・キヨーカップ・コン・ウーン)
(和訳)
タイ国に来て住んでいる日本人のある人たちは、1人で生活することが好きです。他の人と関わりあうのが好きではありません。
俺のことじゃまいか?
いや、全肯定も全否定もしないですけど、でもある部分は当たっているところがあると思われます(含み笑い)。
2008年7月1日(火) チェンマイ 45歳
豆乳、パン、クッキー、KIRIチーズ
今日の朝食。豆乳。スアンドーク門近くのファイベーカリーで買った食パン。クッキー。
KIRIクリームチーズ。
KIRIチーズは175バーツ(約525円)もするのでびっくりした!!日本の倍近くするんじゃないでしょうか。買った後1日近く後悔していました。何の気なしに買い物カゴに入れて買った後で気がついたんですね。輸入物なので高いのはわかりますが、チェンマイでは175バーツあれば普通のレストランでけっこういいものを食べられるので。いやぁ、悔やまれる!
タイに住むようになり2ヶ月が経ち、金銭感覚もだいぶんタイ人化してきた自分がいるようです。
2007年7月1日(日) 東京 44歳
[落語] 超・新作無法地帯@青い部屋(渋谷)
一昨日29日は渋谷に新作落語の会を聴きに行きました。
題して「超・新作無法地帯」。
席亭はジェームス槇さん。前回、下関マグロさんのトークライブでその存在を知り、今回足を運びました。ジェームス槙というのは、小津安二郎が戦前使用していたペンネームですが、そこからもってきたのかな?
以下、告知文よりばっすい。
超・新作無法地帯(第1回)
19時開場 19時半開演
23:00close
¥2000(当日) ¥1500(予約)
別途drink代別+500円
落語家:桂花丸、川柳つくし、台所鬼〆
非落語家組落語:下関マグロ、黄金咲ちひろ
お笑い:元気いいぞう、マナティ、仔羊エルマー、マリッジブルーこうもと、
Oh!ルーシー、クリスタル大坪
音楽:エーツー、DJきーぽん
文字通り、無法地帯なテイストでありました。エロあり電波あり差別ネタあり、放送コードは軽く逸脱するディープな内容で、3時間おなかいっぱいになりました。ただ日本の伝統話芸である「落語」という縛りがあるので、話に必ず落ちがあり、収斂されるので、後味はそれほど悪くなかったです。
演者さんはプロの噺家さんのほかには「非落語家組落語」ということで、前回このイベントを誘ってくれたライターの下関マグロさんやエロパフォーマーの黄金咲ちひろさん、歌手の元気いいぞうさんなどが加わり、怪しさに彩りを添えてくれました。個人的には元気いいぞうさんが昔から大好きなので、彼の電波イムプロヴィゼーション話を聴けてよかったです。
色物として出てきた演者さんの中でも、DJきーぽん、マナティ、エーツーなど、期待の新人も掘り出せました。
機会があれば、また伺おうと存じます。
出番を終えた黄金咲ちひろさんがすぐ隣に座って、肩が触れるほど接近して、私の鼻息が荒くなってことも特筆しておきましょうww。
挨拶すると、目の前でスカートを上げて黄金のパンティーを見せてくれました(ふんがー)。
歌って踊ってお菓子も配れるハイパーアイドルユニット 「エーツー」を初めて観たのは2007年6月29日。渋谷は金王坂の上にあった青い部屋で行なわれた、下関マグロさん主催の「超・新作無法地帯」という、落語・色物各種取り揃えての演芸ライブの出演者として、でした。つまらない新作落語が続いてうんざりしていたところ、突然前触れもなしに登場した2人の女性。カラオケもなく全編アカペラ、ド迫力のなりきりステージングで、場内を恐怖のどん底に叩き込んだエーツーのご両人に度肝を抜かれました。ここまでできるのは凄いなー、とその日、観た演者さん (芸人かw)の中で、もっとも印象に残りました。
・・・時代は下って、2011年1月13日、二ヒル牛で開かれていた「エーツー宇宙」展を鑑賞しながら、オーナーの石川あるさんと談笑していると、店に人が入ってくる気配がしたので、振り向くと、そこにエーツーの作詞作曲衣装他担当の2コさんが立っていました。あるさんに紹介され、初めて2コさんと話しました。・・・さらに時代は下り、2012年4月4日より、2コさんが編集長をつとめる二ヒル牛マガジンにて連載を受け持つことになりました。人の縁とは不思議だなぁ、としみじみ思います。 12/5/24(波照間エロマンガ島)
(石川浩司の「ひとりでアッハッハー」の「王様の耳はロボの耳」より)
(2012年メモ・・・この日が私とエーツーの運命的出会いの日となったわけでした、ちと大げさですが。)
2006年7月1日(土) 東京 43歳
[読書メモ] インタビュー 柄谷行人 グローバル資本主義から世界共和国へ(文學界 2006年8月号)
新刊「世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて」(岩波新書)を上梓。あとがきに「普通の読者が読んで理解できるものにしたい」とある。普通の読者=官僚やビジネスマンを想定しているらしい。
資本主義、国家、ネーション、宗教などの言葉とその意味するところについて、交換の様式から初めて解明することができた(今まではそれが十分にわからないまま柄谷も使っていたのだが)。それを他人に伝えたくなりこの本を書いた。
柄谷世代(1941年生まれ)の学生が学んだ東大法学部や経済学部では、宇野弘蔵の「経済学原理」が必修になっていた。これはマルクスの「資本論」を独自に再構成したものであった。そのころまでは官庁や企業に入る人は全員「資本論」を読まなければ卒業できなかった。宇野弘蔵の「資本論」の理解はユニークで、史的唯物論はイデオロギーであるが、「資本論」は“科学”であると認識していたこと。つまり「資本論」は、各人がどういう考えをもっていようと何をしようと貫徹される資本制経済の原理を明らかにするというのである。
資本制経済は、賃労働=労働力商品、によって商品を生産し、さらにそれを労働者が買う、ということで成り立っている。しかしこの労働力商品というのは人間を意味するので、必要がないからといって廃棄できないし、必要だからといって、急に増やせない。人手が足りなくなると、労賃が上がり、利潤率が下がる。このために、資本制経済は景気循環やひどいときは恐慌(大不況)を避けられない。
また、資本の移動や労働の移動(移民)は避けられない。現在、先進諸国は、資本の海外への移動で国内での失業、さらに移民問題、少子化問題などに悩まされているがそれらは今に始まったことではなく、本質的に避けられないことである。
宇野の考えでは、労働力商品という特殊な商品に基づくがゆえに、資本制経済は根本的な矛盾をもつ。そのため恐慌は避けられない。とはいえ、それが資本制経済の崩壊になるのではない。
■交換様式としての「国家」
国家とは人民を代表する政府とは別の何かである。
ふつう(われわれは)国家を政府と混同して考えてしまう。国民の意見がより忠実に反映されるような政府ができれば真の民主主義が実現されるだろうと考える。しかしそれは国家をその内部だけで考える見方である。
国家は先ず、他の国家(敵国)に対して国家である。国家は本性的に他の国家に対して敵対的であり、それそれの国民に敵対性を吹き込むものなのである。それは現在の日本や中国、韓国などの関係を見ればわかりやすい。
今回の本で、国家を、商品交換とは異なる、ひとつの交換様式(強奪と再分配・保護)としてとらえた。資本主義が共同体と共同体の商品交換から始まるように、国家も共同体と共同体のあいだで始まる。まずは強奪が先行する。いわゆる交換は、強奪や契約不履行を禁じる国家が背後にあるからこそ可能である。国家とは継続的に強奪するシステムである。そのためには相手を保護し、育成する必要がある。
もう一つの交換様式が、贈与とお返しという交換、つまり「互酬」である。これは家族や共同体の中に感情の次元の問題として多く存在する。実はネーションというものは、さまざまな共同体が崩壊した後に、相互扶助的な互酬性を想像的に取り戻したもので、国家とは違って、感情的な同一性を基盤にしている。ネーションと国家とは異なる基盤に基づいているのである。
現代の社会は、資本=ネーション=国家という、異なる三つのものの接合として存在する。このうち国家がもっとも重要である。国家が存在するのは人間と人間の間には強奪が根本的にあるからである。
2005年7月1日(金) 東京 42歳
[橋梁]はね橋マニア
先月行ったアムステルダムのはね橋の動画。この頃すっかり、はね橋に魅了されている。
フレームの中の景観が一変するのがなんともいえず、よかです。
世界中のはね橋を画像や動画に収めてコレクションしたい。
2004年7月1日(木) 東京〜シンガポール〜バンコク 41歳
[旅] シンガポール航空でシンガポールシティー乗り継ぎでバンコクへ
午前1時、横浜の某キャバクラ。(副業でやっている女の子の送りの仕事)
午前2時半帰宅。ただちに荷造り。
シャワー、着替え等もろもろの準備を済ませ、午前4時半、家を出る。
用賀インターから首都高3号線〜中央環状線〜レインボーブリッジ〜湾岸線を経て東関東自動車道へ。明け方なので渋滞に合わずイージードライブで気持ちよい。途中、湾岸幕張と酒々井のPAにて時間調整。
午前6時45分、成田の民間駐車場にチェックイン。午前7時成田空港第1旅客ターミナル着。
午前7時半、団体受付カウンターにて搭乗券を受け取る。今回はHISで格安航空券を購入した。そのままシンガポール航空(以下、SQと省略)カウンター、チェックイン。
午前8時、出国ゲートオープンとともに荷物検査、パスポートコントロールを抜け、SQのエグゼクティブラウンジへ。
円筒形のビルの4階。ここは初めて来た。ラウンジの目の前にこれから乗るジャンボ旅客機があり、ベルトコンベアで手荷物を積み込んでいた。
午前8時55分、搭乗。9時20分、離陸。
7時間半の飛行時間中は、ハリー・ポッターの3作目を読み返す(案外、時間は潰せた)。徹夜明けなので食事後はずっと眠った。トイレは1度だけ。
現地時刻午後3時15分、シンガポールのチャンギ国際空港に着陸。3時間のトランジット。免税店をまわるも何も買わず。SQのエグゼクティブラウンジに寄って休息。冷たいかぼちゃのスープをいただく。
チャンギ空港の書店にあったビル・クリントンの回顧録(ベストセラーになっているらしい)
午後5時40分搭乗。バンコクに向け離陸。
誘導路を走行中頭痛がしてきたのでEVEを飲む。滑走路まで行く前にうとうと眠ってしまい、機内食の時間まで眠っていた。CAに肩を触られ目が覚めた。
現地時刻午後7時30分、バンコクのドン・ムァン国際空港に着陸。バンコクに着いてほっとするのはタクシーに乗って高速道路に乗ったときだ。
午後8時45分、常宿の某ホテルにチェックイン。
荷解き、着替え、シャワーなど済ませ、まだ気力体力が残っていたので、お水関連のオキニの女の子に電話し、夜のパトロールに出発した。
深夜2時過ぎホテルに戻る。泥。
2003年7月1日(火) チェンマイ 40歳
初めてのチェンマイ
チェンマイに着いた。
バンコクの700km北方、飛行機で70分のところにある。しかし気候から風土からまったくバンコクと異なる。山間の高原に位置し、タイ中央平原部よりはいくぶんか気温も低く凌ぎやすい。
かつてのランナー王朝の首都があった都市で、城壁と掘割で旧市内は囲まれている。
ホテルはメイピンホテル。初めてなので一応名の通ったホテルに泊まろうと思ったのだ。ここはテレサ・テンが謎の死を遂げたことで有名である。噂によるとテレサ・テンの幽霊が出るという話だが、実のところどうなんだろう。
さて、さっそく徘徊を開始した。初めて訪れた都市はまず徹底的に歩いて土地勘を養うというモットーに従い歩き回っている。その途中ネット屋にて書き込み。歩いて回るにはちと広いかも知らん。レンタルバイクやレンタルサイクルもあるし、疲れたら乗ってもいいか。まず思ったのが街路や空き地の木々の緑が萌えるように濃く、目に優しいということ。遠景の山嶺とあいまって独特の景観を構成している。そこかしこにあるワット(仏教寺院)の金色の仏塔との相性も気持ちいいぞ。かなーり気に入ったかも。という第一印象でした。
さて休憩は終わり、探検を再開しようっと。
(2003/07/01/12:34)
チェンマイ第1日目はあいにく曇り。坊や、こんなところにゴザなんか敷いて何をしてるんだい(スリウォン・ブック・センター前にて)
ターペー門。内側から見たところ。
ターペー門の前の広場に面しているイタリアンレストランで昼食をとる。やはり想像したとおり、チェンマイは西洋人相手の店がやたら多かった。逆に中華系の店は少ない感じがした。漢字の看板はほとんど見なかった。
午後はレンタサイクルで市街を走ることにした。値段は60バーツ(約180円)。ただしデポジットとして1000バーツを預けなければならない。
しかしこれがなかなか大変で、天気は曇っていて陽射しは凌げるのだが、風が少ない分どうにも蒸し暑く、あっという間に汗だくの塩ふき状態になってしまった。おかげでいい運動になった。
夕方近くなりとつぜん雨が降ってきた。典型的なスコールでバケツをひっくり返したような大量の雨が一時に降った。仕方なく街路樹の下に雨宿りしたが、水冷式のクーラーのように身体に心地よい涼をもたらしてくれた。
いったんメイピンホテルに帰りシャワーを浴び少し休んでから、自転車を返しに行った。雨は止んでいた。
夕方のお堀端の風景、ターペー門付近。4月のソンクランのときはこのお堀の水を汲み上げて水を掛け合うというから恐ろしい。チェンマイのソンクランはバンコクと比較にならないほど激しいらしい。来年は行ってみたいな。同アングルで撮ってみて併置しても面白いかも。
昼間は存在感を消しているが夕刻になると妖しくその姿をアピールしだす。
ファラン(白人)あるところにGO-GO BARあり。
ナイトバザールの裏にあった屋外フードコート(屋台村)にてクイッティオと牡蠣入りオムレツを食す。
背後の山の稜線の青味がよい「気」を送ってくれているように感じた。
(日本の地方都市にも見えなくなくない?)
(2012年メモ・・・このときはこの5年後にこの都市に住むことになるとは、夢にも思っていませんでした。でも、第一印象はほかのタイの地方都市とは違って、とてもよかったことも事実です)
2002年7月1日(月) 東京 39歳
私立探偵 濱マイク(第1話)
「悪役」がいないのが気になった。これでは劇が引き締まらない。元日活や東映出身の性格俳優たちはどこへ行ったのか。あと、濱マイクの取り巻きの脇が甘いというか、あんまり輝いていないという感じがしたの。第2回以降期待する。
2001年7月1日(日) 東京 38歳
東京の水道水の味について
さっき会社の同僚から小耳にはさんだ話ですが、東京の水道水は不味いというのは定説ですが、武蔵野市、三鷹市は例外的に美味しいとのこと。なんでもこちらは多摩川水系の水を浄水しているとのこと。ところが世田谷区なんて目の前が多摩川なのに、利根川から水を引っ張ってきているらしい。こりゃまた、どうして???どなたか詳しい方、教えてください。
以上、ローカル・ミニミニ情報でした。
2000年7月1日(土) 東京 37歳
従姉妹の結婚式
梅雨の晴れ間。めちゃ暑い。
従姉妹(24)の結婚式。相手は近所に住む1歳年下の青年、ってことは23歳か?若いなー!!自分と比較してみると、彼をして結婚を決断させたものはなにか、考えさせられてしまう。
それよりも今日は親戚一同が久しぶりに集合したのだ。40近くになって、結婚もせずにふらふらしていてどうすんだ?と見なされる視線をひそかに恐れていたがそれほどでもなかった。「もうこいつは好きなように生きるのだろう」と、あきらめられているのだと思った(悟った)。
連日の徹夜で意識が朦朧としてきたので、結婚式から帰宅するとすぐにダウン。したがって、多摩美時代の友だちの個展のオープニングパーティーには行かず。そういう星のめぐり合わせなんだろう。
その友人のSくんが、わたしの高校時代の同級生のOくんとコラボレートして、アート系のプロジェクトを始めたと聞いたときは、本当にびっくりした。まるで夢の中の話みたいだと思った。夢の中にいると、お互いに面識のないはずの時期がずれた友人同士が同じ空間にいたりするでしょ、それが実際に起こるなんて。そういうことってあるんだね。
ところで、宮内さんの日記を読むと、今日清田益章が結婚した、とある。清田は確か同い年。あの超能力少年もついに結婚したか。