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2012.05.30 Wednesday

[chapter 9] バリはわれらのもの Bali nous appartient


rice terrace

「パリはわれらのもの」のパロディーで「バリはわれらのもの」というタイトルを思いついたので、バリの話から始めることにします。もはや「チャオプラヤ川左岸」からはるか遠くに離れてしまっていますが、お許しくださいませ。

『パリはわれらのもの』(仏語: Paris nous appartient)は、1958年(昭和33年)製作、1961年(昭和35年)公開、ジャック・リヴェット監督によるフランスの長編劇映画である。
本作は、ジャン=リュック・ゴダールの出資とプロデュースで短篇映画を監督し、クロード・シャブロルの出資とプロデュースで1956年(昭和31年)中篇映画『王手飛車取り』を発表したジャック・リヴェットの長篇映画デビュー作品である。シャブロルが『王手飛車取り』の製作時に設立した製作会社AJYMフィルムは、シャブロルの監督作『美しきセルジュ』、『いとこ同志』のヒットでの収入をつぎこみ、本作とエリック・ロメールの長篇デビュー作『獅子座』を製作した。前年の1957年(昭和32年)にフランソワ・トリュフォーが設立したレ・フィルム・デュ・キャロッスとの共同製作となった。

この頃のヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの親密ぶりはよいですね。ロメールの「獅子座」は、大金持ちの家に生まれた甲斐性なしのドラ息子の青年が、夏のバカンスのうちに無一文になって乞食まで落ちぶれるも、莫大な遺産が突然手に入って窮地を脱するといった馬鹿馬鹿しい内容でしたが、実際でもAJYMフィルム社は、確かシャブロルの肉親の遺産を資本金にして作った会社だったと記憶しています。

さて、わたしがバリを旅行したのは2003年12月。タイ旅行中に、ふと思いついてバリ行きの往復航空券を買い求め、行ってみたというしだいでした。バンコクからバリ島までは飛行時間は4時間くらいだったかな。そのとき、生まれて初めて赤道を越え、南半球入りしたのでした。

(旅日記よりばっすい)
…16時過ぎ、バリ島デンパサールのングラ・ライ国際空港に着陸した。この空港はバリ島の南部にあり、バドゥン半島のもっともくびれた位置にある。その陸地の幅いっぱいに滑走路が舗装されているのがまず不思議に思った。ここから南へはどうやって行くのだろう、空港でとおせんぼして行けないんじゃないかな、などと邪推したりした。本当はそんなことはないのだが。でも滑走路の両端は海しか見えなかった。

飛行機を下り到着ロビーに向かう。入国審査と税関はほとんど待たずにあっという間に通過できた。これは飛行機が遅れてピークタイムがずれたせいもあるだろう。3000バーツ(約9000円)だけ両替、初めてルピーとの対面と相成った。

建物から外に出た途端、むっとする湿気と暑さが身体を襲った。なんだ、これは?ミストサウナみたいだぞ。でもこの湿り気が肌にはいいんだろうな、保湿成分がね。あっというまに汗が身体全体から噴き出してきた。これがバリ島なんだ、と実感した。これがバリの第一印象。

空港は人気(ひとけ)がなく閑散としていた。旅行者はほとんどいないし、アジア特有な風景、つまり物売り、物請い、詐欺師、ペテン師、タクシードライバーなどがまとわりついてくることもなかった。これは意外だった。
いちばん手前にある観光案内所で、ホテルを予約した。ガイドブックであたりをつけておいたクタビーチのホテルは満員で、その隣のレギャンビーチでホテルを紹介してもらった。タクシーに乗ってホテルへ向かった。


バリ島の印象はこのミストサウナのような湿気と、ほのかに鼻腔をついてくるビャクダン(?)の香りとともにあります。なんていうんでしょう、心が鎮まっていくような、リラックスしていくような感じ。
レギャンビーチは西側に面していたのでサンセットが綺麗でしたが、クタの町は想像していた以上に夜は暗くて、一人歩きするには危険を感じるようなところもありました。物売りのしつこさはタイの海岸とは比較にならないほど酷かったです。また、島のあちこちで宗教的な儀礼をたくさん目にしました。それらを見て、西洋文明が世界にもたらした時間感と対極にあるものを感じました。流れている時間の速度だったり濃さだったり色だったり。こんなものが日常的空間にあるのだという驚き。多くの人がバリ島に惹かれるというのは容易に理解できるような気がしました。

以前、読んだ文化人類学者の青木保氏の「境界の時間」という著作に、バリ島に流れる時間について考察した箇所があるので、以前この本について私が書いたレビューをばっすいします。

タイで上座部仏教の僧侶の修行経験を持つ文化人類学者の青木保が、アジアにおける時間の質と量の関係について考察した書物。人間の時間に関する大まかな観念として≪直線的=前進的≫時間観と≪円環的=循環的≫時間観の二つをあげ、両者が入り混じりながら認識を適合していくという前提から、アジアの各所における時間観を分析していく。それは必ずしも「文明」と「未開」の二項対立に収斂するのではなくて、文明社会においても年中行事や祭祀の習慣があり、未開社会においても生物的時間は流れ去るということでもあり複雑に絡み合っている。時間体験の実際としてアジアを実際に旅行したら、という例が具体的でわかりやすい。量として時間が極限まで商品化された東京から始まり、次に飲茶の習慣をもち時間の商品化がストップする香港、質と量が半々の割合のバンコク、そして時間が非商品化されたコロンボまで舞台はスライド移動する。コロンボでは昼間のオフィスアワーがあり、夕方のギランパサ、夜のピリットという、全く異質の仏陀の時間が存在する。そこには境界の時間が顕在化しているというのだ。
最後にバリ島の人々の時間認識の紹介がされていてこれが興味深かった。バリでは陰陽暦と順列的な休祭日暦を併用するが、後者が圧倒的に重要である、と。儀礼を行う日を「時」「時期」と呼び、それ以外を「穴」と呼ぶ。時間は持続して蓄積されるわけでもなく、消費されるものでもない。質的な流れの中での認識はなく、質的な時間をただ尊ぶだけである。東京にいる時間となんと違うことだろう。






(旅日記のばっすい、つづき)
バリ島のなんとかいう滝。すいません名前を忘れました。写真の右側に見える緑色の鉄塔はバンジージャンプ台です。てっぺんからこの滝壷めがけて飛び降りるわけですな。それにしては観光客皆無、地元の人さえまったくいない寂しい場所でした。LONLELY PLANETに出ていたのでガイドのドライバーさんに頼んでウブドへ行った帰りに寄ってもらいました。
バリ島のことを思い返すと何が出てくるんだろう。まず日本人には一人も会わなかった。会って話したのはジモティーかオーストラリア人ばかり。夜のクタ・レギャンは暗くて怖かった。想像以上に俗化してなくて。ワイキキとまでは行かないがもちっと賑やかだと思っていたから。次回は日本軍の痕跡を訪ねてみたい。ジャワに駐屯していたという伯父はバリ島にも立ち寄ったのだろうか。あの独特なお香の匂い、着いた日には感じたけど2日目には鼻が慣れて何も感じなくなってしまっていた。あれは何?あとミストサウナみたいな湿気かな。
ウブドで見た工芸品、民芸雑貨は目移りしてしょうがなかった。いつもなら半日は店をまわって買い物するのだが、どつぼにはまってしまうことが直感したのであきらめたんだ。これは1日や2日でわかる代物ではない、と。一生はまってしまうような奥深い世界がある、と。今度はもうちょっと長期で滞在したいですね。


バリはこのとき以来訪れたことはないですが、またいつか旅したい島です。バンコクから4時間で行けるんだったらそれほど消耗もしないと思いますし。ふだん国内を10時間以上かけてバス旅行している身からしたら、飛行機の旅は快適すぎるでしょう。でも、たかが3〜4日滞在したからといって、その島の実態が掴めるはずがないし、何十回行ってもわかるとは思ってません。旅行者と生活者では同じ景色でも見え方が違うからです。
(この項、終わり)


ここでなんとなく見えてきた、このブログの指針について

わたしは正直なところ、長い文章は書けないと自分で認識しているので、まとまった考えを文章で表現するのは諦めているところがあります。なので、できるだけ隙間を埋めるために、また自分の世界を知ってもらうために、昔の日記や画像や動画など日常の切れ端をパッチワークのようにせっせと並べ、引用してきました。その継ぎはぎのあいまに、2012年現在、バンコクの「チャオプラヤ川左岸」にて感じていること、思っていることを挟み込んでいるという体裁になっているわけです。時間も空間もめちゃくちゃ飛躍しまくって分裂気質な内容です。

ある読者の方からメールをいただきました。あなたのブログは分裂してますね、と指摘されました。はい、確かに自分でも分裂していると思います。普通のバンコクの名所紹介のブログかと思ったら予想と違ったものだった、でもすーっと中に言葉が入ってきた、というようなことを書いていただき、とてもうれしかったです。

日常生活を送っている中で、浮かんでは消える思いつきの断片があり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、一時(ひととき)として同じところにいない、そういうものが自分にとってはとても気になるので、できるだけそういう「日々の泡」が消える前に書きとめて、ブログに反映させていきたいのです。そういう断片はバンコクであるとか東京であるとか、あんまり関係ないんですね。
なので、今後も思いついたこととそのプロセスを、そのままアップしていくのではないか、と。

でも、いずれにしてもこれだけは自信をもって言えるのは、このブログの筆者はタイに住んではいますが、タイのことだけをテーマに書くわけでもなく頭の中でイメージが広がるだけいろいろなことを書いていくでしょうし、このブログはタイを知るのにはまったく適してないブログだということです。また、観光ガイド的なブログを書くつもりは毛頭ないということも、お伝えしておきます。いろいろな意味を消滅させていきたいのです。(えらそうでごめんなさい)









*今週のおまけ(その1)

2008年11月23日、タイ北部のメーホンソン県を旅したとき、某寺院の境内にあった仏像が…。








なんか、石川浩司さんに似ていたんだよなぁ…。

個人的に、石川さんに山下清のあとにやってほしい役は、やっぱり乞食坊主かな。次郎長一家の法印大五郎がいいな。あと、成人してから諸国を巡礼している時代の一休宗純とか。あと、河内山宗俊みたいなヒール系ピカレスク系の悪徳坊主もいいかも。歌舞伎の「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」の法界坊なんかもよいな。石川さんって、のびかけた坊主頭が破戒僧のイメージがあるんですよ。(いくらブログだからって、好き勝手言いまくってすみませんw)





*今週のおまけ(その2)

1980年上半期のライブ観覧日記& more


1980年、17歳。高2から高3にかけての音楽関係の日記を書き出してみました。



1980年1月17日(木)

未明、ポール・マッカートニー大麻所持現行犯で逮捕。ショック!これで来日公演は全部キャンセルだろう。

夜、上馬ガソリンアレイにてストライク。客は女ばかり20人ほどで男は俺を含め2人だけだった。タマ(高木英一)のトーク独壇場。ポールの逮捕話をはじめ芸能界の裏情報満載で楽しかった。まるで松山千春やさだまさしのコンサートみたく、トークの比重が高く曲とトークが半々くらいの割合だった。ロックバンドなのに(笑)。そこが新しくて面白い。おまけに男の客が少ないので目立ったらしく、ステージの上からタマに話しかけられ、トークしたりした。
(メモ…近田春夫とハルヲフォンのべーシストの高木英一が結成した3ピースバンド。キャッチコピーが「青春歌謡お子様パンク」。3回ほど見ている。結局、エンケンこと遠藤賢司のバックバンドとしてテレビに数回出たくらいで、レコードデビューもせずに解散した。いまやほとんど誰の記憶にも残ってないだろう。)



1980年1月24日(木)

渋谷屋根裏でプラスティックス。整理番号63番だったが、最前列に座ることができた。そのおかげでチカのマイクスタンドをいっしょに直したり、中西と少しコミュニケートできたりしてうれしい。しかし練習不足でミスが目立った。ハジメちゃんが島武実のシールドコードにつまづいて転んで、シーケンサーのロードを消す(「恋の終列車」)というトラブルがあって演奏がストップしてしまった。そのときギターのチューニングも狂ってしまったんだけど、言ったセリフが笑える。

「うちは、プロがチューニングしてくれることになっていまして」 (会場爆笑)

つまり、楽器のチューニングは佐久間正英がやるというわけなのね。きゃー、すごい。四人囃子がチューニングやるんだよ!でも、そんなアマチュアバンドでも好きだから、許しちゃう!プラスティックスはライブバンドだ。レコードで聴くとあのダンサンブルなピコピコテクノビートは絶対、伝わらない。見るのに限るのでアル。


1980年1月27日(日)

渋谷屋根裏でシーナ&ロケッツを見た。


1980年1月28日(月)

夕方6時、NHK『600こちら情報部』でテクノポップ特集。プラスティックス、ヒカシュー、P−モデル出演。ヒカシューの巻上公一(Vo)の狂気は凄いなー。思わず吹いてしまった、夕げの茶の間をパニックに陥れただろう。最後番組のテーマをこの3組のバンドが演奏してフィナーレ。演出もなかなかであった。


1980年2月8日(金)

テクニクスギンザにて文化放送の公開録音。阿川泰子が出演。すごい美人。1953年生まれの28歳。年の差9歳か、なんとか対象にならないかなあ、とアホなことを考えていた。


1980年2月11日(月)

日中、代ゼミのマーク模試。建国記念日だからか右翼の街宣車の軍歌の大音響にうんざり。数学が難しかった。勉強不足を痛感。
夜、新宿ロフトでシーナ&ザ・ロケッツ。N彦が整理券をとってくれたので座って見ることができた。しかし1月27日の渋谷屋根裏に較べ熱気に欠けたせいかアンコールは1回のみ。でも古いロックンロールメドレーをあいだに入れ、最初と最後はオリジナルで締める構成はよかった。やっぱり
『I GOT YOU〜FEEL SO GOOD』がいちばん好きだ!去年の日比谷野音のJapan Rock Festivalで東京デビューを観たときからこの曲は印象に残っている。個人的にはJBよりも好きかな。



1980年4月1日(火)


渋谷屋根裏でシーナ&ザ・ロケッツ 3DAYS、1日目。屋根裏初のオール・スタンディング・ギグらしい。縦ゆれヘッドバンギングで2時間。浅田孟の目の前50cmのところで彼のピッキングを研究。やはりダウンアップだった。もりあがりすぎてしまいにはベースの1弦(1番太い弦)を切っちゃうほど。ベースの弦が切れるなんて初めて見たよ。
鮎川さんの名言集("Hot Line"を演奏する前の曲紹介のところで)「こないだロスに行ってきたけどほんなこつ、たいしたこたぁなかった。馬が車に代わったくらいで・・・」会場大ウケ。

(注・この頃、なぜかシーナ&ザ・ロケッツのライブを頻繁に観に行っていた。たいてい、1曲目にBATMAN THEMEを演奏して曲が終わる頃に、シーナ・ロケットが登場、2曲目は「Susie Q」を演奏することが多かった)


1980年4月13日(日)

朝10時フジテレビ「HOT TV」を観る。勝ちぬきバンド合戦、SKIN。POPな8ビートニューウエーブ、期待できる。ベースはダウンピッキング。マイルス・デイビスみたいに腰ぐらいの高さにスタンドマイク立てて、下を向いてシャウトするボーカルのタコ踊り。いいよぅ。曲のタイトルは『満足できない!』。

午後、歌舞伎町ACBに、無理心中、NOISE、S−KEN、突然段ボールを見に行く。
無理心中は全員女でジャンプスーツにサングラスのいでたち。演奏はまだまだ下手だけど、曲はとても面白い。「♪よだれを垂らして女を見つめる、よっぱらいはみんな死ね!」かっちょいい!!
NOISEは「音の壁」。フィル・スペクターが楽音のウォール・オブ・サウンドならば、このバンドは雑音のウォール・オブ・サウンドなのではないかっていうような。なんか、心がどよーんと重くなっていくのでした。男女2人組(男性は工藤冬里か?)。女性のレザーのミニスカートが目を惹いた。
S−KENは2回目だけど、東京ロッカーズ系のバンドの中では最高の洗練がある。ダブルキーボードの右側のほう、ディップで髪をツンツンにかためたパンクヘアの女の子はいつもプラスティックスのコンサートに来ている子じゃないか?(のちに、坂本みつわだと判明)左側のキーボードの女の人は、あと1年でおばさんになってしまいそうな中年増だけど、ルイーズ・ブルックスみたいなボブカットが可愛いんだよ。年増のボブってそそるねー。コルグのエレピの音が、エコーかけてスコーンとぬけてて気持ちいい。S−KENこと、田中唯士の着ているズートスーツは、救世軍で1000円で買ったものらしい、ってN彦が解説していたが、どうしてそんなこと知ってるんだ!!
そしてトリは突然段ボール。これぞ俺の求めていた音楽であった!冗談、ユーモア、おふざけ、ニヒリズム、奇をてらう、・・…それらすべてを内包しMIXしたような音像。ニューウエーブとビージー4の中間地帯を行くような。演奏の下手さは学ぶべきものがある。アマチュアでもコンセプトがかっこいければ、いいものができるんだ、と目からウロコ状態だった。これからも追っかけていきたい。


1980年4月28日(月)

ラフォーレ・ミュージアム原宿で、ロンドン、NYのニューウエーブのビデオクリップ集を昼から7時間くらいぶっとおしで見る。あまりに良いので途中S田に電話して呼び出すほどだった。島武実目撃。YMO(第1回目のLAライブ'79)、ブロンディー、ブームタウン・ラッツ、999(ストラップの長さサイコー)、ストラングラーズ、デッド・ボーイズ、ジョニー・サンダーズ、ニック・ロウ、エルビス・コステロ、イアン・デューリー、リーナ・ラヴィッチ、ニナ・ハーゲン、B−52's、スペシャルズ、クラッシュ、ザ・ポップ・グループ、…とにかく凄い!!今見たいバンドがすべて出ている。その中で今日の収穫が2つあって、その1つ目は、モデル・シチズンズ。多分、チープ・トリックのベースのやつがいたと思うんだけど、なにしろ、編成が変わっていてラテン・ビッグバンドっぽいんだよね。マリンバ叩きながら、女の子が歌うの、キューンとなったよ。新しもの好きのアンテナがピピピと動いた。もう1つは言うまでもなくスリッツ。これはもうただただ最高。どろどろ溶けて3人のグルーピーになりたいよ〜ん!もう凄いんだから。マイケル・アルバートとドン・レッツが制作していると思うんだけど、あの「CUT」のジャケットのまんま、泥だらけのトップレスのネイティブ・アフリカンみたいなスタイルで、ピカデリー・サーカスに登場しちゃうの。もう半裸なんてもんじゃないよ。で、次にそこで衆人環視の中、洋服を着替えたりする。と思ったら、レッドライトで、マリファナの匂いと煙りが目に痛そうな、レゲエディスコでダブで踊る3人、に場面が切り替わり。最後は真っ昼間のハイドパークでカラオケに合わせて楽器を弾き、口パクで踊りまくる。

これがもうサイッコーにばかカッコ良い!!!


1980年4月29日(火)

昼間、渋谷屋根裏でストライク。観客10人足らず。に加えてギターのトオルが5月に辞めるとの由。この発表をしても、観客はしらーっとしていた。タマ、リアクションの薄さにかわいそうだった。


1980年5月2日(金)

Mちゃんという高1の女の子と知り合う。ギタリストのOとつきあっているんだって。これはびっくり。


1980年5月3日(土)

昼間、六本木のスタジオ・マグネット(旧S−KENスタジオ)にて、コールド・ジャック、ショー・ダウン、三上理子、ヴィデオ・マニエラを見た。ヴィデオ・マニエラが面白い。シンセのリフがPOPで好き。


1980年5月4日(日)

銀座ローディープラザへ18日のコンサートの申しこみに行く。その帰り、日比谷公園をぷらぷらしていると、日比谷野音で「JAPAN ROCK FESTIVAL」がやっていて、音が会場の外まで聞こえてきたの。(その前年1979年は見に行った。シーナ&ザ・ロケッツの東京デビューを体験した)
なんとなく入り口付近を見ると、チケットも切りの人とか、一瞬、「す」になった感じがしたのね。俺達、目配せして、さささーっと、何食わぬ顔でゲートをただで通りすぎようとしたの。そしたら、K美以外、全員とっつかまってしまった。(まぬけー!!)ちょうど、そのときはK美の好きなパンタ&HALがやっていて、あの女は出てくるわけもなく、残った俺達は帰った。


1980年5月5日(月)

いっしょに見に行こうと誘われていたK、H(同級生)に「急に行けなくなった」とうそついて出しぬいて、渋谷屋根裏に子供ばんどを見に行く。Mちゃんを独占したかったから。このあいだの制服姿とは見違えるほど、大人びていた。とても15歳には見えない。楽屋で0とも初めて会ったが、カエルみたいに童顔で可愛かった。(今日のゲストギタリストだった)で、子供ばんど。結成500回記念ライブだって。すごすぎる!!3時間近く演った。音楽のタイプとしては、スレイドとか、ステータス・クォーとかのハード・ブギ−・ロックなんだろうな。日本じゃ珍しい。うじきつよしのコメディー・リリーフはますますはじけていて、良いな。そして、Mちゃんにめろめろなぼくがいます。  


1980年5月11日(日)

始発電車に乗ってスペシャルズのコンサートのチケットを買いに行く。

午後からフジテレビへ。


1980年5月12日(月)

急に大人びて、会うたびに成熟してゆく。それは植物の開花まぎわの恐るべき成熟の速度に似ている。夏川は外の娘の場合に未だ曽てこのような目覚しい妖艶な成熟をみたことがなかったのは、そういう世界に縁がなかったせいでもあるが。その未熟なころの肢体を知っているということが今では意外な遺恨を深めているようだった。夏川は時に、いささか迷ったものだ。金さえあれば、再び、と。
(坂口安吾『母の上京』より)

花を咲かせるためにいちばん大切なつぼみの時期に、ミツバチに存分に養分を吸い取られていく、みたいな。彼女が20歳になるころには、ケバイ、キャバスケとか、レディースとかみたく、ひからびて老け込むという危惧がある。ほっといたら成熟するのは当たり前だし、背伸びしながら年をとるのは流行りなのかもしれないけど、とっても痛ましい。


1980年5月13日(火)

学校の帰り、本屋で『GORO』(小学館)を立ち読み。「3年B組金八先生」にでていた、某女優のピンナップ&インタビュー。彼女は実はK美の同級生で以前会ったことがあるんだ。ちょっと悪ぶっている印象。

「ドラマみたいなこと、あったわよ。あたしの友だちでも赤ちゃんできたのいるし。その子は産みたいって言ったんだけど、結局カンパして堕ろした・…」「ディスコにも行ったことあるわ。ファーストキスも。でも、それ以上はやったことない・・…」


1980年5月24日(土)

大井町シブヤ楽器で一風堂コンサート。コンセプト、演奏力など、どれをとっても日本でトップクラスなんだけど、唯一ダメなのが、観客と一体化するグル−ヴ感に欠けたこと。土屋昌巳の限界なのかも。「スタンド・バイ・ミー」のチャイニーズ・レゲエ・ヴァージョンにしても客はついてこないし、だいいちむかついたのが、この曲を2回も演奏して、客に強要すんじゃねえ!てめえらが客をのせられないだけじゃねえか!未熟なんだよ!観客もドラムの藤井章司のドラム教室の生徒の内輪客ばかりで、居心地悪かった。(Sも当時、藤井からドラムを習っていた弟子の一人であった。)ただひとつ、見岳章の弾いていたローランドの安っぽい電子オルガンの音は良かった。エルビス・コステロ&アトラクションズを意識しているとみた。


1980年5月25日(日)

新宿イケベ楽器で「無理心中」(ガールズ・パンク・バンド)のオーディション。今回はドラムの募集ということで、Sについて行った。雑誌にメンバー募集が出ていて応募したのだ。
生音で初めて無理心中を聴いたが、楽曲の完成度が高いのでびっくりした。感心したのは、各楽器のVOLUMEをぎりぎりまでおさえ、各アンサンブルの基礎練習をくりかえし、みっちり行なっていたこと。『酔っ払い』を何回も演奏し、ドンカマ(ガイドの信号音)に合わせて、Sにドラムを叩かせて、オーディションした。ベースの子の運指、キーボードの子の簡単なリフの効果的使用、そして、ギター&ボーカルの子のnon effect cutting、どれもパンクというよりは、楽曲重視のニュー・ウエイブだった、リーナ・ラヴィッチみたいな。ギターの子は、近くにいた某ロック雑誌の編集の人に「『プヨプヨ』に勝てるかなあ」と言っていたのが印象的。ヒカシューをライバル視してるのかー。今日は大いに刺激を受けました。無理心中のファンになっちゃった。


1980年5月30日(金)

夜9時、TVK「ファイティング'80」のゲストはプラスティックス。ニューヨーク帰り、かの地で刺激を受けてまた成長した。「TOP SECRET MAN」なんて、以前からは想像できないくらい、飛び跳ねている。最高!またライブ観に行くぞ!!


1980年6月2日(月)

中間テストの帰り、渋谷屋根裏にCHACHA 82を見に行く。昼の部で客は10名足らず。ひとりだけでシンセサイザーとシーケンサーを操る、耽美派エレクトロニックノイズサウンド。初期のクラフトワークみたいで良かった。トランジスタラジオにトランスミッターからノイズを飛ばして曲を生成している試みが面白かった。今度ナイロン100%でハルメンズと共演するとか。観に行きたい。


1980年6月11日(水)

千石の三百人劇場にフリクションを見に行く。非常に衝撃を受ける。

(以下、次号につづ…かないかもしれない)



2012.05.23 Wednesday

[chapter 8] ディスアポイントメント - ハテルマ イロマンゴ DISAPPOINTMENT-HATERUMA ERROMANGO


それでは唐突ですが、簡単なテストを行ないます。
いったん、ノートやテキストを机の中に仕舞ってくださいー。


〔問題〕次の文の中で、私(波照間エロマンガ島)が、直接・間接問わず、タイで見聞きした出来事にを、そうではなく、捏造して書いたものにXをつけなさい。
(スリウォン・ゴーゴーボーイズバー大学付属 駒場高等学校 平成24年度入学試験より)

(1) 運転免許の学科試験の答えを教えてくれる有料のサービスがある。
(2) 小学校高学年の女子児童が、ソイ(小路)で父親についてバイクの運転練習をしていた。
(3) 中学生女子生徒が自動車を運転して武道の練習に来ていた。
(4) 8年前小学生だった友人のタイ人女性の息子が、8年後会ったら、ニューハーフになっていた。
(5) レストランでコーラを飲み終わったあと水を注文したら、コーラが入っていたグラスに水を注がれた。
(6) 運転中、交通違反を犯し警官に捕まり罰金を払ったら、調書もとらず警官は自分のフトコロに入れた。







答えは、すべてです。
まぁ、ここはなんでもありのタイですから……。
(3)はバンコクではなく地方での話です。田舎は公共交通機関がないエリアがあるので、そういうこともありうるのでした。あと、犯罪を犯しても罪がおめこぼしされる「特権階級」がいるらしいということも、なんとなくわかってきま…(以下、自主規制)。
本当はもっと酷い事例も知っているのですが、それはここには書けないので、次回皆さんとお会いしたときにお酒の席でのお楽しみということでご勘弁ください。

さて、マクラはこの辺にして、今日の本題にまいります。


タクシン派が大規模集会、元首相は和解呼びかけ

【タイ】タクシン元首相支持派の市民団体「反独裁民主戦線(UDD、通称スアデーン=赤シャツ)」は19日、多数の死傷者が出たUDDデモの強制排除から2周年を記念し、バンコク都心のラチャプラソン交差点で数万人規模の集会を開いた。集会参加者が道路を占拠したため、周辺一帯の道路交通が麻ひしたが、警官隊との衝突などは起きなかった。

2008年に汚職で有罪判決を受け国外逃亡中のタクシン元首相は集会にテレビ電話で参加し、支持者らに対し、反タクシン派勢力との和解や民主的な新憲法の制定などを訴えた。

UDDは2010年4、5月、当時の反タクシン派アピシット政権の退陣を要求してラチャプラソン交差点一帯などを占拠し、治安部隊との衝突で、デモ参加者、兵士、ロイター通信カメラマンの村本博之さんら90人以上が死亡、1400人以上が負傷した。デモは同年5月19日に鎮圧された。タクシン派は翌2011年の下院総選挙で過半数を制し、タクシン氏の妹のインラク氏を首相とするタクシン派政権が発足したが、デモの死傷者に関する捜査は政権交代後も全く進展せず、不敬罪で投獄されたタクシン派市民の保釈、恩赦に向けた動きもみられないことから、タクシン派市民の一部にはインラク政権への不満が強まっている。
http://www.newsclip.be/news/2012521_034555.html

最近は沈静化しているタイのデモ活動ですが、この週末は久々に動きが見られたようです。
タイで生活している人にとっては非常に気になるニュースでありますが、これについて論評を加えるのは控えさせていただきます。

思い起こすと2年前、2010年の年明けから5月にかけてのUDDによる首都圏占拠のニュースは、タイ国内全体に暗い影を投げかけました。上記の記事にもあるように、デモは武力によって完全に鎮圧されました。そのときの様子を以前、石川浩司さんのホームページ「ひとりでアッハッハー」の「ドキドキドキリコ初体験」に投稿したので、ここに転載します。

2010年5月、タイの首都バンコクで赤服を着たタクシン派の反独裁民主戦線《UDD》が組織したデモは激化の一途をたどり、バンコク中心部のあちこちを占拠し、都市機能を麻痺させるほど拡大していました。
当時のアビシット首相はついに強攻策に打って出、軍隊と警察を使ってUDDを鎮圧し、多くの死傷者が出るという結末を迎えました。蹴散らされたUDDは暴徒化することが懸念され、バンコクは戒厳令が敷かれ夜間外出禁止令が出されました。
そのとき私はちょうどタイ南部のサムイ島に旅行していたのですが、長距離バスでバンコクを経由してチェンマイの自宅に帰る予定でした。戒厳令が出たことは知ってましたが、もうチケットを買ったあとだったので、そのままバンコク行きの長距離バスに乗ることにしました。翌日午前4時すぎ、バンコク市内に入ったのですが、そこで異様な光景を目にしました。あの不夜城と言われた東南アジア随一の大都市バンコクから灯りが消え、喧騒が消え、自動車が消え、人間がいなくなっていたのです。要所要所に軍隊の車両があるほかはまったく人っ気はありませんでした。ゴーストタウンのようなバンコク市内を走ってバスターミナルに到着しました。戒厳令は午前6時まで発令されているので2時間ほどそこで時間を潰して移動しました。
生まれて初めての戒厳令の夜を体験し、これが自然災害ではなく人間同士の争いが原因でもたらされたことに強い衝撃を受けました。あのゴーストタウンのようなバンコクの姿は一生忘れないと思います。


生まれて初めての「戒厳令の夜」体験はイムパクトがありました。



その1週間ほど前。

当時BTSトレインのサイアム駅周辺は、UDDに占拠されていました。これは2010年5月11日の画像です。軍や警察に排除される前はこんな感じでした。






ラマ1世通りのサイアム交差点からチットロム交差点まで1kmくらいの間、完全に占拠されています。



バリケードとして古タイヤや工事車両などが並んでいます。













しかし、バリケードの内側は、緊張した雰囲気はまったくなく、案外のんびりとしていました。



歩行者天国でフリーマーケットが行われている光景ではありません。反政府団体が、道路を不法に占拠しているのです。








ここで、先週の「チェンマイ洪水編」と同様、UDDが占拠していた場所の画像と現在の画像をほぼ同一アングルで(now & then) 式に2枚並べて比較してみようと思います。




(左)2010年6月10日、BTS SKY WALK(遊歩道)から、UDDによる放火で焼失したZENデパートを見る
(右)2012年5月20日、同場所。現在は再建し、営業しています。


















怖いですねー。
ちなみに焼失したZENデパートは、伊勢丹デパートと軒を接しており、10年ほど前は、WORLD TRADE CENTER と呼ばれていました。2001年9月11日のニューヨークのテロが起こった直後は、次はこのビルがテロの標的になる、とまわりのタイ人たちは本気で怯えていたのですが、まさか10年後、こういう形でビルが燃え上がるとは誰が予想したでしょうか。
もしも市街戦が起こったら、風景が異化するんだなと驚嘆しつつ、私はバンコクの一番の繁華街であるサイアムの通りをぼーっと眺めていました。革命ってこんな感じなのかな、と。そして、永遠に続くことを疑いもしなかった都市の風景は、瞬時にして変わってしまったのでした。私は、東京も何らかの天変地異や局地戦、市街戦などで、風景が変わる可能性があることを考え始めています。
(この項、おわり)







革命や市街戦をイメージすると、よく脳内で鳴る音楽。




*今週のおまけ(その1)
「DISAPPOINTMENT-HATERUMA」は、現ピーター・ブルック・カンパニーの音楽監督として世界的に活躍する土取利行と、もはや説明不要な輝かしいキャリアの持ち主・坂本龍一によるデュオ作品。

名前の浸透度からしてみると、やはり土取利行よりは、世界の教授(坂本龍一)のほうが、有名だからという判断なのだろう、当時500枚しかプレスされなかったこの音源が復刻された際も、「坂本龍一の幻の音源」という枕がついていたし、実際、復刻されたCDのライナーのインタビューに応じているのも坂本龍一だ。

だから、坂本龍一のアルバムのように捉えられがちかもしれないが、実質的には、これは土取のアルバムというべきだろう。

沖縄返還前の日本最南端の島、波照間(はてるま)島と、赤道を軸に、ちょうど緯度において正反対の場所にあるオーストラリアのディスアポイントメイト・レイク。

この奇妙な位置関係を見つけ、タイトルをつけたのも土取だそうだし、ラストの演奏を除けば、どちらかというと演奏のイニシアチブは土取のパーカッションが握っている。(以下、略)

http://cafemontmartre.jp/jazz/T/disappointment_hateruma.html



連載第8回目にして初めて明かしますが、私のハンドルネーム「波照間エロマンガ島」は、2004年にソーシャルネットワーキングシステムのウェブサイトのmixiを始めたときにつけた名前です。特に意味はなく、なんとなく適当にデッチ上げました。いわゆる「公式発表」的な回答としては、行ったことがなくていつか行ってみたい二つの島の名前、「波照間島」と「エロマンガ島」を合体させて名づけたというもっともらしい理由はあるのですが、2012年現在においては、もうその二つの島に行くことはどうでもよくなってしまいました。でも、2004年当時は、南の島での生活にまだ淡いあこがれを抱いていたことも事実です。mixiや、その後同じハンドルネームで投稿をはじめた石川浩司さんのホームページで知り合った人たちには、「波照間さん」「エロマンガさん」「エロさん」「マンガちゃん」「マンガさん」「エロシマさん」「テルマエ ロマンさん」など、様々な省略のパターンで呼ばれています。まぁ、そんなことはどうでもいいことなんですけれども。



*今週のおまけ(その2)
1年前の今ごろのつぶやき(2011年5月23日〜31日まで)@twitter

何回もくりかえし書いて恐縮ですが、1年前はタイのチェンマイに住んでいました。バンコクと何が違うって、体感温度が違うんです。日中少しは暑いと感じますが、木陰に行くと風は通って気持ちよいくらい。それにひきかえ、バンコクの暑さは尋常ではありません。この暑さを前提としないでバンコクを語るというのは、語るに落ちると強く思うのです。
それでは、涼しくて快適なチェンマイのツイートです。


こちら(↓)からどうぞ。
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2012.05.16 Wednesday

[chapter 7] 水の話 Une histoire d'eau


先週に引き続き、チェンマイ編をお送りします。

2012年5月某日、夜行バスでチェンマイ入りした私は、宿に荷物を置いて、早速散歩に出かけました。
市内を流れるピン川そばのエリアを歩いていると、ふと気になるものを発見しました。




あ、歩行者専用橋の通行禁止の柵が壊されてる!


びっくりして写真を撮っていると、私のすぐ横を、日傘を差した妙齢の婦人が通り過ぎて、当たり前のようにして柵をくぐって橋を渡り始めたので、私もつられて橋を渡ることにしました。















どっこいしょ、と婦人は、川の向こう岸にもある通行禁止用の柵をくぐりぬけて、行ってしまいました。

実はこの橋は、昨年9月の大洪水の時に、過剰な水圧に橋桁が亀裂を生じたか、土台の強度が弱くなってしまったか、とにかく危険な状態になったので、現在通行禁止になっている(はずな)のです。私がチェンマイを引っ越す今年の2月の時点では、確かに柵は盾の役割を果たし、橋を渡ることはできませんでした。
ところが、いつまで経っても復旧工事が始まらないものだから、近隣住民は業を煮やしたのでしょう。誰かが通行禁止の柵を破壊して、みんな橋を違法に渡っているというわけでした。
いかにもタイっぽいな、と思いました。




さて、ここで、去年9月のチェンマイの大洪水の画像&動画を紹介します。
当時私の住んでいたマンションは市内の西方にあり、標高が多少高い分、浸水の被害はなかったですが、ピン川から東側のエリアは床上浸水の被害も相当出たようです。水は1週間ほどで引きましたが、その後水害は、中央平原部のアユタヤからバンコク近郊にまで進んでいったのは、ご存知の通りです。




2011年9月29日の同歩行者専用橋からの眺め。
水が増水してコンクリート製の河岸ぎりぎりの高さのところまで達しています。



同日、ワローロット市場からナワラット橋方面へ向かう途中(自転車に乗りながら撮影)。
進行方向500m前方のナイトバザール地区では腰の高さまで増水していました。



*以下、ほぼ同一アングルで(now & then)で2枚並べてみました。画像をクリックすると拡大されます。


(左)2012年5月5日(右)2011年9月29日
明らかに水位が違う。









(左)2012年5月5日(右)2011年9月29日










(左)2012年5月5日(右)2011年9月29日










(左)2012年5月5日(右)2011年9月29日










(左)2011年10月25日(右)2011年9月29日



それにしても世の中、何が起こるか本当にわかりません。
この2011年9月29日は、私は所用で日本に帰るためにチェンマイからバンコクまで夜行寝台列車の切符を購入していたのですが、チェンマイ駅が水没しているという情報があり列車は運休。急遽、夜行バスでバンコクに向かったといういきさつがありました。鉄道の切符はバンコクで払い戻ししました。
タイ国鉄北部線は各所で鉄路が寸断され、復旧するまで、かなりの時間がかかりました。


現在チェンマイは、洪水の爪あとはまったくなく、リバーサイドにある馴染みの猫レストランも無事営業中で、可愛い猫たちに会ってきました。(先週のブログ参照)







よく通ったホテルのプールでのんびりしたり、以前住んでいたご近所さんを訪ねて世間話をしたり、ゆったり過ごしました。
また、休暇ができたら来ようと思います。

最後に、洪水の出てくる文学作品で思い出されるものをあげておきます。谷崎潤一郎の「細雪」には、1938年7月5日に関西地方を襲った「阪神大水害」についての描写が細かく記されています。谷崎は洪水によって現出した風景が中国の山水画のごとき感銘を覚えた、と芸術家らしい、不謹慎も厭わない発言を登場人物にさせています。(この水害で1000人以上の人が被災し、600人余りの人が亡くなったといいます)初めて読んだとき、こういうことを書ける谷崎に感動しました。「細雪」は何年かごとに再読しているのですが、その度、新たな発見があります。また読んでみたいです。

というわけで、今週はこのへんで。また来週、お会いいたしましょう。
(この項、おわり)








*今週のおまけ(1)
『水の話』(Une histoire d'eau)は、フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールの共同監督による1958年製作のフランスの短編映画である。
洪水に見舞われた町からなんとかパリへ行こうと奮闘する女の子の姿を描く。いわゆる傑作とは言い難いが、ヌーヴェルヴァーグを代表する監督として特に人気のい2人による唯一の共同監督映画として貴重な作品である。しかも2人は後に袂を分かっている。
きっかけは、新聞にパリ郊外の洪水の写真が載ったこと。これを見たトリュフォーが「この洪水を利用して映画を撮るべきだ」と言うと、ゴダールが「それはいい。ぜひ撮るべきだ」と答えたという。即興的に撮ったものの、映画にはならないと諦めてトリュフォーが一日半で切り上げたものをゴダールが編集した。(中略)サイレント期の映画監督マック・セネットに捧げられている。また、1954年に刊行されたポーリーヌ・レアージュことドミニク・オーリーの性愛文学『O嬢の物語 (Histoire d'O)』とタイトルの韻がおなじであるのは、ゴダール的いたずらである。

学生時代から私の大好きな映画です。公開されたときにブーイングの嵐だったというのも、逆に「不憫な子ほど可愛い」という作品の一例でもあります。



ちなみに上記のwikipedia文中にある性愛文学の「O嬢の物語」は1975年映画化されていますが、主演女優のコレンヌ・クレリーが来日した時、テレビのインタビューで言った言葉が鮮烈に印象に残っています。「美と健康の秘訣は?」という司会者の質問に、コレンヌは「Sex at six」(朝6時にセックスすることよ)と答えたのでした。中学生の私にとって、ドッキドキしてしまった瞬間でした。





*今週のおまけ(2)
「チェンマイの石川浩司」(プチ・エログロ注意)
アニメーションgifの石川浩司さんです。こちら(↓)からどうぞ。
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2012.05.09 Wednesday

[chapter 6] 猫をならべて in チェンマイ

4月の最終週と5月第1週は、タイも日本同様、飛び石連休がありました。
運良く3連休がとれたので、2月まで住んでいたチェンマイへ国内旅行してきました。

実は、自分の意識の中では、チェンマイは「行く」場所ではなく、「帰る」場所になっています。
丸4年住んで、すっかり愛着がわいているからです。
久々にのんびりし、よい休暇を過ごせました。

今週と来週は、このブログはバンコクから離れて、チェンマイについて特集します。

第1週目は、わたしの体の上を通り過ぎていった(?)、チェンマイの猫たちの特集です。
(深い意味はないです、ハイ。期待してもらっても困るっていうかw)


題して、
「猫をならべて in チェンマイ」



猫嫌い、猫アレルギーの人は申し訳ないのですが今回はお引取りいただいて、「猫まっしぐら」な人は、お楽しみいただければ、さいわいです。
こちら(↓)からどうぞ。
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2012.05.02 Wednesday

[chapter 5] エロマンガシマ・ モナムール 〜24時間の情事〜 erromango, mon amour

《前回までのあらすじ》
2012年3月、バンコクのチャオプラヤ川左岸のトンブリー地区に引っ越してきた波照間エロマンガ島は、仕事帰りにシーロム地区にある、タイ古式マッサージ店に行った。すると受付の人に「男性と女性どっちにしますか?」と訊かれ、たまには指圧力の強い男性の施術を受けてみたいと思い、「男性をお願いします」と頼んだ。ところがそれが運のつき。現われたマッサージ師の男性はそっちの気があり、微妙な場所ばかりマッサージしてくる。何か変だぞ、と思った私は、意を決してマッサージ師に問い質す。するとマッサージ師は「だって、男性のマッサージを選択したでしょ。ここはそういう店なのよ」と言い、私は吃驚仰天した!…その後の波照間エロマンガ島の貞操がどうなったか、知る人は誰もいない……。

(嘘嘘、こんなあらすじはもちろん嘘ですー!!!こんなん、前回も前々回も書いてまへんーww)







リトルインディアのシーク教寺院にて無料の朝食をいただくの巻き

さて、私の住むトンブリーのアパートから自転車で15分くらい走ると、ヤワラート通り(中華街)に着きます(チャオプラヤ川を渡ってすぐのエリアです)。この界隈は東南アジアでも有数の規模を誇るチャイナタウンです。でもって、ヤワラートに隣接するようにインド人街があるのですが、その中央部にシーク教の寺院があります。
このシーク教寺院で、毎朝8時から10時半まで、朝食を無料で与えてくれるという情報を入手、さっそく行ってきました。

つまり

「どんなに困窮しても、バンコクにいれば餓死することはない!!」

ということが判明したわけです。

寺院に入ると靴を脱ぎます。付近をうろうろしていると、教徒の人が食堂は2階だと教えてくれました。その際、短パンの場合はジャージみたいな長ズボンと、頭にかぶる黄色いターバンみたいなものを渡されます。





2階に上がると大きな体育館みたいな空間がありました。そこはビュッフェスタイルの食堂で、ビュッフェでは、カレー2種類にナン、ごはん2種類、ヨーグルトなどがあり、水やチャイもつけてくれます。そしてマットを敷いてある床に並んで座って食べるのです。これはお得です。
別にシーク教徒でなくても、食事や寝床を無料で提供してくれるというのですから、なんとも慈悲深い宗教です。

そこにいる人たちは、日本人のバックパッカーみたいな人が多いのかと思いきやほとんど見かけず、圧倒的にインド系の人が多く、その他西洋人が少しだけいるという感じでした。あんまり知られてないのかな?

食後は5階にある礼拝堂みたいなところで行われていた、お坊さんの読経みたいな経文朗詠を、ほかのシーク教徒とともに聴きました。食事をしたことによってなにかこの宗教に親しみのようなものを感じたのも事実です。(それはあまりに即物的というか、現世利益ということなのでしょうか)

就職が決まり、働き始めてからも、私は時間があると、このシーク教寺院にお参りがてら、ちょくちょく朝食をいただきに行く習慣ができてしまいました。私は、宗教心はあいにく持ち合わせてはいませんが、この空間は涼しくて居心地がよく、ぼーっとするのにちょうどよい場所なのです。
チェンマイに較べて時間の流れが速いバンコクで、ぼーっとできる場所はなかなかなかったのですが、ここはその意味で、自分の求めている場所であったと言えます。

ある日のこと。
朝食を終えた私はいつものように5階にある礼拝堂に上がっていきました。
すると、なぜかはわかりませんが、人だかりができています。
「何だろう」と思い、人をかきわけて、人垣の中に入っていくと、10代の可愛らしい少年が座っていて、その周りをその少年のファンらしきおばちゃんやらおっさんやらが代わるがわる横に座って、記念撮影していました。

インド人の映画スターなのでしょうか?

宗教施設だったので、さすがに嬌声はありませんでしたが、そこにいたインド系の人たちにとってのあこがれの有名人であったことだけは間違いないです。
私もミーハー心を発揮して、ポケットからデジカメを取り出し、撮影してしまいました。






王子様みたい。手紙もたくさんもらっていた。


誰なんだろう?




というわけで、リトルインディアにある、シーク教寺院で無料で朝食をいただくの巻きでした。
今日はこの辺にいたします。また、来週お会いいたしましょう。
ではでは。




*おまけ(その1)今週のタークシン


いつもこのポーズで寝ていることが多いです。



*おまけ(その2)今週の映画
二十四時間の情事(にじゅうよじかんのじょうじ)は、アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本の被爆地広島県広島市を舞台に第二次世界大戦により心に傷をもつ男女が織りなすドラマを描いた、日本・フランス合作映画である。フランス語の原題は「ヒロシマ・モナムール」(Hiroshima, mon amour)で、アラン・レネ監督の第1回長編劇映画作品である。日本での邦題は当初「ヒロシマ、わが愛」だったが、公開時に「二十四時間の情事」へ変更された。ただし近年では日本においてもヒロシマ・モナムールと紹介される場合もある。


今週のサブ・タイトルについては、解説は割愛させていただきます。もしパロディーを不謹慎と感じた方がいましたら、すみません。他意はないことをお伝えしておきます。



*おまけ(その3)10年間並行日記

先週、試験的に掲載したところ、けっこう反響があったので、今週も懲りずに掲載します。
この2002年から2011年までの5月2日の日記を並べました。
実は、タイでも5月の1週は飛び石連休になっていて、日本の大型連休と似たような趣きがあります。
日本にいる時分も休日でドライブに行ったり、アクティブに動く年が多かったです。
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