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2013.01.09 Wednesday

[chapter 41] ワット・アルンの大仏塔にて / 2012年1月前半のつぶやき




こんにちは。チャオプラヤ川左岸にあるわがブログに、いつも川を渡りご来場くださり(?)、ありがとうございます。
さて、連載41回目にして初めて明かしますが、この「波照間エロマンガ島のチャオプラヤ左岸派」の題字の背景には、上に貼ったワットアルン付近の観光地図を使っていたのです(どうでもいいプチ・カミングアウト)。
そんなわけで今週は、チャオプラヤ左岸 トンブリーエリアにある、タイを代表する古刹、ワットアルンへ初詣に行ったときの話から書き始めます。

わたしは神仏を信じてませんが、神社やお寺に行って合掌することは好きです。神前や仏前では特に願いごとを浮かべず、あるがままの状態で数十秒間の時を過ごします。一種の瞑想状態なのでしょうか、目を瞑って手を合わせていると、日本の過去の伝統文化とつながっているような気がして気持ちがとても落ち着くのです。ところが、現在住んでいるタイの仏教寺院で同じようなことをしても、気が散って落ち着きません。やはり自分は先祖から受け継いだ日本のDNAを持っているのだな、とその時思いました。  11/6/18(波照間エロマンガ島) (「石川浩司のひとりでアッハッハー」「王様の耳はロボの耳」より)

インドで生まれ東へ伝承され、途中で南へ向かった仏教は、タイでは小乗仏教(上座部仏教)というかたちで、現代にまで受け継がれてきています。詳細についてはまだほとんど知らないので内容を書くのは控えますが、少しだけ書くと、すべての生きるものを慈しむところ(利他行)に菩薩心を求める、大乗仏教の宗教観をもつ日本人である私には、衆生の救済を目的とする大乗の教義とは対照的に、個人の解脱を最終的な教義とする小乗(一人乗りの舟という意味がある)の教えは、まだぴんとこないものがあります。しかし、何年かタイで生活してみて、タイ人を理解するにはこのへんの理解を深めることが一番肝要であることだけは確信しているので、どんな形かわかりませんが、今後機会を見て、研究を深めて行きたいとは考えています。(このブログを始めたきっかけも、そのためのステップアップのモチベーションを得たいという理由がありました)



ラーマ1世橋より、ワットアルン大仏塔を臨む


ワットアルン大仏塔より、ラーマ1世橋を臨む(カットバック)

ワット・アルンラーチャワラーラームは、タイ王国のバンコクにある寺院。アルンは暁の意味である。三島由紀夫の小説『暁の寺』の舞台ともなり、チャオプラヤ川の川沿いにたたずむ姿はバンコクを代表する風景にも数えられている。またワット・アルンは現在の10バーツ硬貨にも描かれている。一般にはワット・アルンの名でも知られる。また英語においてはTemple of Dawnと呼ばれているが、これが三島由紀夫の暁の寺の由来になったと考えられている。

ワット・アルンラーチャワラーラームは、創建についての記録は見つかっていないが、アユタヤ朝のペートラーチャー王時代にフランスの軍人によって描かれたチャオプラヤー川流域の地図にあることから、少なくともそれ以前に建てられていたことがわかる。当時の呼び名はワット・マコーク、その後ワット・マコークノーク、ワット・マコークナイと名を変えたが、1767年のアユタヤ朝滅亡後、この地を掌握したタークシンにより修復され、名前をワット・ジェーンとした。そしてトンブリー王朝の王宮寺院となった。
後のバンコク王朝(チャクリー王朝、現王朝)の創始者ラーマ1世は、トンブリー王朝時代の1779年にタークシン王の命を受け、ヴィエンチャンを攻略、そして、戦利品としてエメラルド仏を持ち帰り、この寺院内に安置された。しかし、1782年にバンコク王朝ができ、エメラルド寺院の建立に伴い、エメラルド仏はイッサラスントーン親王(後のラーマ2世)によってエメラルド寺院・ワット・プラケーオに迎えられた。寺院はその後、ラーマ2世により1820年ヒンドゥー教の暁神アルーナから現在の名称となる。以降ラーマ2世の個人的な保護を受け、ラーマ2世の菩提寺となった。
この寺院で最も特徴的なトウモロコシのような形をした大仏塔はバンコク様式で、高さは75m、台座の周囲は234m(異説あり)。中心の大塔を4つの小塔が取り囲み、須弥山を具現化している。大塔の上方にはインドラ神が三つの頭を持つ象アイラヴァータ(タイ語でエラワン)の上に鎮座しているのは、須弥山山頂の忉利天を表している。塔の表面は陶器の破片で飾られ、さらに基壇の部分にはラーマキエン物語に登場する鬼やガルーダ、ハヌマーンが飾り付けられている。このような陶器を用いた建築の装飾は中国美術の影響によるもので、ラーマ3世時代に多く用いられたものである。塔は19世紀、ラーマ2世のころから建設がはじまり、ラーマ3世のとき完成し、現在みられる姿となった。


2013年1月6日日曜日、私は初めてワットアルンを訪れました。バンコクに最初に旅行者として来てから今年で12年経ちますが、何故か足を踏み入れたことのない寺院でした。どちらかというと、遠くから景色を見ていれば満足するという存在だったようです。今、住んでいるアパートからは約4kmしか離れておらず、「57番バス」というトンブリーエリアを周回する路線バスに乗ってやって来たというわけでした。

ワットアルンというと、言わずもがな、三島由紀夫の「暁の寺」という小説作品と記憶が結びつきます。
以下、Facebookの書き込みより。

−−−−−−−−−−−

年末年始休暇は三島由紀夫の「豊饒の海」四部作を精読して過ごした。「暁の寺」は学生以来、久々に読んだが、今住んでいる場所が小説の舞台のすぐ近くなので、非常に感慨深かった。しかも、1941年、大東亜戦争直前時のオリエンタルホテルから川向こうに臨むワットアルンの近景が密林だったという記述には驚愕した。

日は対岸の暁の寺のかなたに沈んでいた。しかし巨大な夕焼は、二三の高塔を影絵に縁取るほかは、トンブリの密林の平たい景観の上の、広大な空を思うさま鷲づかみにしていた。密林の緑はこのとき光を綿のように内に含んで、まことのエメラルドの色になった。(三島由紀夫「暁の寺」)

しかし、三島は実際には1941年にはバンコクに行ったわけではなく、1967年のインドとタイへの取材旅行で観た風景から想像した創作だったと思われるのだが。

今日はワットアルンに初詣に行ってこようかな。そういえば、後ろの席のタイ人女性社員に「お正月はどこかに行った?」と尋ねると、「お寺に行ってお経を唱えてきた(スワットモン・ティー・ワット)」と答えていた。・・・タイ上座部仏教は、タイの人々の暮らしの中、相当深いところまで溶け込んでいる。この女性、ふだんはおへそが見えるようなセクシィな服装で出社するのに、案外(失礼!)信心深いんだナ


−−−−−−−−−−−

この書き込みをした翌日に、ふと思い立って、ワットアルン初体験となったしだいです。


画像をクリックすると拡大します

三島のような流麗な文体でワットアルンの威容を表現することはできませんが、確かに高さ75mの高さを誇る大仏塔は間近で眺めると、それだけで神々しい気分になりました。階段で途中まで昇ることができるのですが、この階段が急すぎて、足を踏み外して落下するのではないか、というスリル満点の体験でした。以前、バルセロナの聖家族教会の尖塔に登ったとき感じた、死のスリルを想起しました。塔を下りてきた後、しばらく足が震えるほどでした。アミューズメントパークで絶叫マシーンから下りてきたような感覚だったのです。(単に私が高所恐怖症なだけかもしれませんが)でも、楽しかったです。


[参考資料]
それは暁の寺へゆくにはもつとも好もしい正に日の出の刻限だつた。あたりはまだ仄暗く、塔の尖端だけが光りを享けてゐた。ゆくてのドンブリの密林は引き裂くやうな鳥の叫喚に充ちてゐた。
 近づくにつれて、この塔は無数の赤絵青絵の支那皿を隈なく鏤めてゐるのが知られた。いくつかの階層が欄干に区切られ、一層の欄干は茶、二層は緑、三層は紫紺であつた。嵌め込まれた数知れぬ皿は花を象り、あるひは黄の小皿を花心として、そのまはりに皿の花弁がひらいてゐた。あるひは薄紫の盃を伏せた花心に、錦手の皿の花弁を配したのが、空高くつづいてゐた。葉は悉く瓦であつた。そして頂からは白象たちの鼻が四方へ垂れてゐた。
 塔の重層感、重複感は息苦しいほどであつた。色彩と光輝に充ちた高さが、幾重にも刻まれて、頂に向つて細まるさまは、幾重の夢が頭上からのしかかつて来るかのやうである。すこぶる急な階段の蹴込も隙間なく花紋で埋められ、それぞれの層を浮彫の人面鳥が支へてゐる。一層一層が幾重の夢、幾重の期待、幾重の祈りで押し潰されながら、なほ累積し累積して、空へ向つて躙り寄つて成した極彩色の塔。
 メナムの対岸から射し初めた暁の光を、その百千の小さな鏡面になつてすばやくとらへ、巨大な螺鈿細工はかしましく輝きだした。
 この塔は永きに亙つて、色彩を以てする暁鐘の役割を果たして来たのだつた。鳴りひびいて暁に応える色彩、それは、暁と同等の力、同等の重み、同等の破裂感を持つやうに造られたのだつた。
 メナム河の赤土色に映つた凄い代赭色の朝焼の中に、その塔はかがやく投影を落して、又今日も来るものうい炎暑の一日の予兆を揺らした。
三島由紀夫「暁の寺」



(今週のおまけ)2012年1月前半のつぶやき

2012年1月1日(日) チェンマイ 49歳

新年になった瞬間、ものすごい数の打ち上げ花火の轟音で強制的に起こされた。花火は15分以上続き、ほんの数分前に止んだ。そんな西暦2012年平成24年タイ仏暦2555年のはじまり。
posted at 02:23:07


2011年最後の花火 at チェンマイ-- Last Fireworks 2011 via @youtube
posted at 05:48:23

2012年1月2日(月)

1月2日、箱根駅伝のテレビ中継で、往路で芦ノ湖に着くまではまだ正月気分でいっぱいなのだが、翌3日の復路で山道を駆け下りてくると一気に現実に戻り、正月気分が取れ、その年が加速度的に始まってしまう感覚がある。
posted at 14:01:24

・・・つぎは去年すなはち昭和二十二年一月、いくさののちはじめての出会いであった。そのとき、太宰君は川柳点の、惚れたとは女のやぶれかぶれなり、というのを挙げて、これを佳什とした。(中略)・・・酒のみぶりもしずかで、ヤケ的なけはいはなかった。(石川淳「太宰治昇天」 1948年6月)
posted at 17:48:15

那覇空港に着陸する際にかなり手前から低空飛行をする理由 

2004年のクリスマスを私は沖縄の那覇で過ごすことになった。
飛行機が着陸態勢に入ったとき、私はある奇妙な低空飛行を経験した。窓を通して眼下に美しい透き通った海面が追いかけるように様々に変化するのが見え、飛行機は海面を掠めながら飛んだ。錯覚だったのだろうか、ぼんやりと水底に真っ白な珊瑚礁が見えたような気がした。珊瑚の死後の色がまさしく白色であり、白い珊瑚が濃い藍色をした海水を美しいエメラルドグリーンに染め上げるのだという。沖縄の漁民は緑色の海水を死の色と見なすが、それは水底に珊瑚の死骸があるに違いないからである。機体が翼を震わせながら旋回し角度を変えると、機外の空と海とが窓を通して斜めになりながら一つに繋がり、海と空とが一色に結びついて、空の上にいるのか海の中にいるのか分からなくなるような幻想をおぼえさせるのであった。その低空飛行がどれくらい続いただろうか、はっきりとおぼえていないが、他の空港とはまったく異なる着陸方法であった低空滑走は、ある美しい時間のひとコマとなって私の記憶に入っていった。
数日後、私は沖縄人の口からすべての那覇に入る航空機は着陸後そして着陸前に必ず一定時間低空飛行を持続しなければならないということを聞くにいたったが、なぜなら、沖縄の領空は米軍に占領されており、民間航空機は高空に進入することはできないからである。このため航空機はより多くの危険性を引き受け、より多くのエネルギーを消耗しなければならない。この事実を聞くにおよんで、私のなかで数日前のあの美しいワンカットは一瞬にして砕け散った。そして眼に浮かんできたのは、数年前海南島のわが国領空で発生した米軍機の衝突事故の場面であった。

孫歌「那覇から上海へ」(現代思想2006年9月号 特集「日米軍事同盟」より) 佐藤賢 訳
posted at 21:09:29

机はコンピュータや外付けHDDに占有されているので勉強するときはベッドでうつ伏せの姿勢ですることになる。集中してタイ語を勉強し「けっこうやったなー」と思って時計を見たら10分位しか経ってなかった。これはうつ伏せの圧迫により血のめぐりが悪くなり苦しくなっただけだと判明。とほほである
posted at 23:22:44

2012年1月3日(火)

クリント・イーストウッド「硫黄島からの手紙」を2006年の劇場公開時に観た時、渡辺謙演ずる栗林忠道中将が、武運尽きて自ら敵陣に突撃し、米軍の機銃掃射に倒れて死ぬ寸前、身体は生きているのに精神は死んでいるという「決死状態」の刹那が映像に定着されていると感動した。死について、また考えさせられた
posted at 01:39:59

なかなかKeyHoleTVにログインできなくてやっと入れたと思ったらカヨさんのパートは終わって次の小学生の夢中人だった(悔し泣き)。
posted at 17:26:16

2012年1月4日(水)

明治日本で美術において「伝統派」がまず優位に立ったということは、多くの点で、重要な意味をはらんでいる。それは過去の問題ではありえない。東京美術学校は、設立後十年も経たぬうちに、岡倉(天心)を追い出した西洋派にとって換わられた。

明治日本で美術において「伝統派」がまず優位に立ったということは、多くの点で、重要な意味をはらんでいる。それは過去の問題ではありえない。東京美術学校は、設立後十年も経たぬうちに、岡倉(天心)を追い出した西洋派にとって換わられた。しかし、「西洋派」はそれ以後根本的な背理に苦しむことになるだろう。なぜなら、日本において先端的であり反伝統的と見える仕事は、西洋においてはたんなる模倣と見えてしまい、「伝統派」に回帰したほうがかえって先端的に見えるからである。この問題は、今日にいたるまで続いている。たとえば、日本において尊敬される「西洋派」は、西洋において何の価値も与えられていない。そして、何らかのかたちで西洋において評価されるアーティストは事実上、「伝統派」に回帰している。なぜなら、そのほうがより前衛的に見えるからである。
それは他の領域においても同じである。たとえば、文学において、美術におけると同じ意味で「伝統派」が優位を獲得するのは、1930年代においてである。たとえば、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らは、西洋人によって「伝統派」として認知されるだろうが、彼らはもともと西洋派モダニストであった。彼らがある時期から伝統に向かったのは、伝統へのノスタルジーというよりもむしろ、そのほうがより「前衛的」に見えると考えたからだというべきである。だが、美的なものとしての「日本」は、何よりも、狭義の美術とそれに関する言説によって形成されたものである。したがって、明治日本における美術とそれにかんする言説の特異性が、他の何にもまして重要なのだ。それは、とりわけ、岡倉の言説において範例的に示されている。

柄谷行人「美術館としての日本」(批評空間第挟第1号 1994年)

岡倉天心らの「伝統派」を追い出し、東京美術学校の西洋画科の創設に尽力しのちに教授となった黒田清輝らによって始まる「西洋派」の画壇が、現在にいたるまで国内でのみ自己完結し、国際的な絵画市場においてはまったく相手にされていないという状況を端的に言い当てた文章である。
posted at 01:06:13


胃もたれ気味。
posted at 01:35:02

目が覚めた。ラジオをつけてモダンガールを聴く。(Tokyo FM 「Blue Ocean」)
posted at 08:44:13

今朝はベッドの横の床の上で目が覚めた。寝ているうちにひんやりして気持ちのよい床の上に知らずのうちに移動していたらしい。
posted at 08:56:27

カヨさん「残念ながらパソコンは忸怩たる思いで使っております」だって(笑)。
posted at 09:12:40

カヨさんの出番終わった。素晴らしかったです。ラジオでもカヨさんの実践しているライフスタイルや人生哲学は確実に伝わっていたように思う。朝からいい気分になった。ありがとうございました。
posted at 09:53:59



2012年1月5日(木)

石川淳の「至福千年」を読み返しているが20代のころは文章が読みづらくつっかえつっかえ遅遅として読書が進まなかったのに49歳の現在読んでみるとすらすら読めることに驚く。
posted at 04:45:04

普段はあまり話さない変態性欲についてなぜかチャットで語ってしまい、多少後悔の気持ちもないこともないがログは流れているのでまぁよしとするか。
posted at 07:29:39

「ディープ・インパクト」「アイズ・ワイド・シャット」「25年目のキス」で美少女スターとして衝撃の登場をしたリリー・ソビエスキーの近況を調べてみると、28歳になりロリから美しい大人の女優になっているようだった。「88ミニッツ」は観た記憶があるがリリーが出ているとは気がつかなかった。
posted at 13:59:03

遠近両用眼鏡作ろうかな
posted at 14:18:43

LEOビールの小瓶をグラスに注がずラッパ飲み。旨い。
posted at 21:24:23

2012年1月6日(金)

今夜もほろ酔い。居酒屋で飲み、家に帰っても飲み。
posted at 22:29:32

VANに勤めていた元職場の上司に聞いた話なのだが、ピンク・ドラゴンの山ちゃんこと山崎眞行さんは会うといっつも赤いスイングトップジャンパーにリーバイスのデニムといういでたちだったそうだ。洋服屋なのにかえってその潔さにシビレタと言っていた。
posted at 23:30:32

2012年1月7日(土)

just woke up
posted at 08:23:22

今日は途中で目覚めることもなく朝までよく眠れた
posted at 08:24:02

子供の日(ワン・デック)は今日でなくて来週みたいだな・・・。1月の第2土曜日
posted at 08:29:58

When to the sessions of sweet silent thought
I summon up remembrance of things past
(Sonnet 30) by William Shakespeare
posted at 12:28:21

シェークスピアの「ソネット第30番」。失われた昔を嘆くこの詩には、法律用語が多く用いられている。
Session(法廷)、summon up(召還)、cancell(取り下げ)、account(支払い明細)など。それらの言葉の縁語的使用によって法廷的なイメージを読者に想起させる。
posted at 12:34:51

「世阿弥の様式のもう一つの特色は縁語の使用である。縁語とは同意語の中の可能なものから表面的には無関係に見えてもその含みによって、連なった響きを醸し出す意図を持って使われるいくつかの言葉である」(ドナルド・キーン「能・文楽・歌舞伎」 2001年)
posted at 12:37:14

帰宅。午後3時台から3軒はしごしたが、酒飲みっぱなしだったのでだんだん酔っ払っていって、行く先々でタイ人にしょうもない議論をふっかけていっていったようだ。素面だったら恥ずかしくてできないこと。酒の力を借りると大胆になることよ。(殺される前に少し自重したほうがよいかもw)
posted at 19:59:02

ツイッターの特性なのかな、一度会ったことのある人はツィートを読んでいるとその人の肉声が脳内で再生されるのが不思議だ。
posted at 20:02:21

2012年1月8日(日)

うたた寝してた。夜中に目が覚め。
posted at 01:29:22

今自分がいるところはユーラシア大陸の一部で、ドイツやフランスやスペイン、イタリアなんかとも地続きだから行こうと思えばそちちの方向にも旅立つことができるんだナ、ということをふと思ってしまった。いや、旅立ちませんけど。
posted at 03:22:07

ルイ・アラゴンは農夫の目をもってパリを散歩し直してみると、そこがなんと奥深い神秘にみちた都市に見えてくることかと、その驚きを『パリの農夫』に描き出してみせた。 (中沢新一「東京タワー」 群像2005年1月号)
posted at 04:46:43

大日本雄弁会講談社当時の装丁で発売された「のらくろ全集」が実家にあり、子供の頃から何度となく読んでかなり刷り込まれたと思うのだが、サーチライトや毒ガス戦、飛行機戦など当時の戦争の空気がよく描かれていた。その中で強烈に印象に残っているのが、「爆弾三勇士」のエピソードだった。先のいくさで味方の死が正面きって描かれたフィクションはほかにあまり記憶にない。(美談調なのは仕方ないが)
posted at 05:06:18

川口元郷パチンコフジのラジオCM覚えています
posted at 05:18:04

子供のころ、町でよく見かける「ほねつぎ」と「ぢ」という巨大な文字がこわくてしかたがなかった。小学生の時期は言うまでもなく、高校生になってもその文字から、秘密の地下世界を暗示するようなまがまがしさをうけとめていた。(津島祐子「骨の話」)
posted at 05:31:48

2012年1月9日(月)

ハードディスクが破損した恐れがあり、これからパソコンを修理に出しに行ってきます。どうかあまりお金がかかりませんように。
posted at 13:15:13

วันที่พระพุทธเจ้าประสูติ, ตรัสรู้ และ ปรินิพพาน
เรียกว่าวันวิสาขะบูชา ซึ่งถือเป็นวันสำคัญ
ทางพุทธศาสนาวันหนึง

釈迦の誕生・悟り・入滅の日をワンウィッサーカーブチャーと言う
posted at 13:46:56

日中からフォローしている人のtweetが多いと思ったら今日は日本は祭日だったか。
posted at 13:49:27

คำสอนหนึ่งทางพูทธศาสนาได้กล่าวไว้ว่า ความอาฆ่าตแค้นทำให้เกิดทุกข์แก่ผู้นั้น
仏教の教えの一つに憎しみをもつことはその人自身を不幸にさせるということがあります。
posted at 13:59:48

タイ語タイプの練習でタイ語の短文集をノートからリライトしています。
posted at 17:35:23

年が明けて日中だんだん暑くなってきている。喉の乾きにファンタストロベリーがよく合う。美味なり。
posted at 17:40:26

昨日レモンツリーの前でバイク同士の接触事故を目撃してしまいちょっと憂鬱。どちらも二人乗りだった。スピード出しすぎなんだよな。
posted at 17:42:40

2012年1月10日(火)

チャットログを見ると「チェンマイ、一般の人も同行するんですね」という言葉が残っていた。人にはそういう風(スターとファンのファンクラブ旅行)に見られてるのかと、ちょっと心外。でも、あのスペースを言葉で説明するのはかなり難しいだろうな。「2月チェンマイ逃避組」は、確かに石川さんがいなかったらできなかったグループだが、しかし毎年チェンマイにやってくる人は、石川さんのファンばかりではなく、縁があってチェンマイに個人旅行に来ている人もいる会、というのは理解しにくいのかも。別に四六時中、行動を共にするわけでもないし。
それと、「来年こそチェンマイ行きたい」なんて言う人にかぎって、その翌年になると行けない理由をつくって、ほとんどの人は来ない。行けない理由を作るのは簡単だから(お金がない、仕事で休みがとれない、うんぬん…)。その壁をのり越えてまでしてチェンマイに来るのは相当に凄い人なのだと思う。ある意味、馬鹿というかww(←褒め言葉)。今年はどんな2月になるのだろうか。
posted at 15:19:18

เวลาปอกเปลือกของผลไม้ ชาวตะวันตก
ส่วนใหญ่มักจะหันคมมีดเข้าหาตัวเอง
ซื่งตรงข้ามกับวิธีที่คนไทยทำ

果物の皮をむく時、大部分の西洋人はナイフの刃を自分の方に向けますがタイ人は反対を向けます。
posted at 15:30:41

31 new follower requests
posted at 21:46:28

2012年1月11日(水)

「ここで私は、他人のことに興味をもつよりは自分の仕事に熱心な、きわめて活動的な多数の人々の群れの中で、最も人口の多い町で得られる生活の便宜を何一つ欠くことなく、しかも最も遠い荒野にいるのと同様な、孤独な隠れた生活を送ることができたのである」(ルネ・デカルト「方法序説」)
posted at 15:10:47 

2012年1月12日(木)

今朝めずらしく雨が降ったので折りたたみの傘をもって外出している
posted at 14:32:33

しかし自分の傘が見つからずに女性の友人が置いていった女性物の傘しかなかったのでそれをもってきているのだが、再び雨が降ってきたらそれをささなければならない。ちょっと恥ずかしいかもしれない
posted at 14:35:17

1万円=4110バーツ(ณ ニマン・ソイ13のレートのよい両替屋)
posted at 14:53:02

それにしてもタイ語の電話の通話は何年経っても苦手。日本にいるときはお客様注文窓口&苦情受付業務をやってたくらい電話応対ばかりしていたときもあったのだがその反動かな。携帯電話(メール)時代に入ったころからもう仕事以外では電話をすること自体嫌になってたし。
posted at 18:24:15

一時期は電話魔だったのにな。ほんとに信じられない。
posted at 18:25:08

猫カフェでお姐さんにバナナをもらった。アローイチンチン
posted at 19:37:21

2012年1月13日(金)

今日もくもり。涼しくててふどよい気候。
posted at 12:25:22

2012年1月14日(土)

洗濯屋のおばちゃんがタンブン旅行に行っていて昨日今日と不在だった。下川さんか誰の本だったか忘れたが、タンブン旅行に関する文章があったことを思い出した。いつか機会が合えば一度参加してタイ人のディーープな部分を垣間見たいと思うこのごろである。
posted at 01:31:48

朝、乾季に入って2回目の大きな雨が降った。
posted at 12:23:24

この時期、チェンマイはほとんど雨が降らないので、雨は心の中をざわざわさせてしまふ。
posted at 13:02:01
2017.03.26 Sunday

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