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2018.07.07 Saturday

[chapter 317] Ant-Man and the Wasp/ インタビュー 柄谷行人『グローバル資本主義から世界共和国へ』(文學界 2006年8月号)/ 三上(馬上、枕上、厠上)/ 変態居酒屋での出来事@音声日記(2007年7月5日)/ 芸術の独身者/ほか


「Ant-Man and the Wasp 」鑑賞しました。(2018年7月5日)


2006年7月7日(金) 東京 43歳

インタビュー:柄谷行人『グローバル資本主義から世界共和国へ』(文學界 2006年8月号)

読書メモ。
世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて(岩波新書)を上梓。あとがきに「普通の読者が読んで理解できるものにしたい」とある。普通の読者=官僚やビジネスマンを想定しているらしい。

資本主義、国家、ネーション、宗教などの言葉とその意味するところについて、交換の様式から初めて解明することができた(今まではそれが十分にわからないまま柄谷も使っていたのだが)。それを他人に伝えたくなりこの本を書いた。

柄谷世代(1941年生まれ)の生徒が通った東大法学部や経済学部では、宇野弘蔵の「経済学原理」が必修になっていた。これはマルクスの「資本論」を独自に再構成したものであった。そのころまでは官庁や企業に入る人は全員「資本論」を読まなければ卒業できなかった。宇野弘蔵の「資本論」の理解はユニークで、史的唯物論はイデオロギーであるが、「資本論」は“科学”であると認識していたこと。つまり「資本論」は、各人がどういう考えをもっていようと何をしようと貫徹される資本制経済の原理を明らかにするというのである。

資本制経済は、賃労働=労働力商品、によって商品を生産し、さらにそれを労働者が買う、ということで成り立っている。しかしこの労働力商品というのは人間だから、必要がないからといって廃棄できないし、必要だからといって、急に増やせない。人手が足りなくなると、労賃が上がり、利潤率が下がる。このために、資本制経済は景気循環やひどいときは恐慌(大不況)を避けられない。
また、資本の移動や労働の移動(移民)は避けられない。現在、先進諸国は、資本の海外への移動で国内での失業、さらに移民問題、少子化問題などに悩まされているがそれらは今に始まったことではなく、本質的に避けられないことである。
宇野の考えでは、労働力商品という特殊な商品に基づくがゆえに、資本制経済は根本的な矛盾をもつ。そのため恐慌は避けられない。とはいえ、それが資本制経済の崩壊になるのではない。

■交換様式としての「国家」

国家とは人民を代表する政府とは別の何かである。
ふつう(われわれは)国家を政府と混同して考えてしまう。国民の意見がより忠実に反映されるような政府ができれば真の民主主義が実現されるだろうと考える。しかしそれは国家をその内部だけで考える見方である。
国家は先ず、他の国家(敵国)に対して国家である。国家は本性的に他の国家に対して敵対的であり、それそれの国民に敵対性を吹き込むものなのである。それは現在の日本や中国、韓国などの関係を見ればわかりやすい。

今回の本で、国家を、商品交換とは異なる、ひとつの交換様式(強奪と再分配・保護)としてとらえた。資本主義が共同体と共同体の商品交換から始まるように、国家も共同体と共同体のあいだで始まる。まずは強奪が先行する。いわゆる交換は、強奪や契約不履行を禁じる国家が背後にあるからこそ可能である。国家とは継続的に強奪するシステムである。そのためには相手を保護し、育成する必要がある。

もう一つの交換様式が、贈与とお返しという交換、つまり「互酬」である。これは家族や共同体の中に感情の次元の問題として多く存在する。実はネーションというものは、さまざまな共同体が崩壊した後に、相互扶助的な互酬性を想像的に取り戻したもので、国家とは違って、感情的な同一性を基盤にしている。ネーションと国家とは異なる基盤に基づいているのである。

現代の社会は、資本=ネーション=国家という、異なる三つのものの接合として存在する。このうち国家がもっとも重要である。国家が存在するのは人間と人間の間には強奪が根本的にあるからである。
2007年7月5日(木) 東京 44歳

三上(さんじょう)

ふと三上(さんじょう)という言葉を思い出しました。あれは中国の文人、王陽修でしたっけ。人間がアイディアを得る三つの場所。馬上(馬にて移動中)、枕上(寝台)とあと一つは厠上(トイレ)?さしずめ現代社会においては馬は車に置き換えられるのでしょうけど。そんなわけで私は電車に乗りながらアイディアを呟いています。
(2007/07/05/13:00)

都内某所の変態居酒屋での乱痴気〔音声日記〕

こちら
2010年7月5日(金) チェンマイ 47歳

芸術の独身者(再掲載)

「プルーストの作品の根底には、読書についての省察がある。≪一冊の本は、読者の魂と精神にいかに働きかけるか?≫という問いへの回答がある」と言ったのは、同時代の批評家バンジャマン・クレミューである(『二十世紀』)。

・・・プルーストはまず読書を、精神が自分自身に対して実り豊かな働きを続けている最中に、孤独のなかで他の思想からの伝達を受けることである、と規定する。その上で、読書の素晴らしさを認めながらもその過大評価を戒め、著者にとって結論である書物は、読者にとっては「うながし」(incitation)にすぎず、人を精神生活の入口へ連れて行ってくれるが、精神生活そのものを作りはしないのだ、と言う。そればかりか、読書が精神生活にとって代わるようになると、その役割は有害でさえある、と断定する。なぜなら、各人は読書の「うながし」を受けながら、自分で精神生活を切り開いてゆかなければならないからだ。
プルーストは、・・・・・・「このように自分本来の生を直視する勇気もなく、そこから遠く離れて博覧強記と呼ばれる逃避行をつづける」人たちに警告を発して、こう書いている。

「どれほど多くの人びとがそれ以上先に行こうともせず、印象から何も引き出すことなしに、芸術の独身者として、徒に満たされることもなく老いてゆくことだろう!」

この「芸術の独身者」というのは、自分自身の精神生活をどこかへ忘れ去って、ただ作品のなかにあるものだけを有り難がる者、と言ってもいいだろう。(・・・)
「失われた時を求めて」もまたわれわれ読者にとっては、一つの「うながし」である。(・・・)

「一人ひとりの読者は、本を読んでいるときに、自分自身の読者なのだ。作品は、それがなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっきりと識別させるために、作家が読者に提供する一種の光学器械にすぎない。」

読者は作品を覗きこむ。そこにはプルースト独自の文体で、つまりは彼独自の見方で、一つの世界が展開している。それを読み解きながら、実は読者は自分自身の内部の問題を読みとっている、というのである。

鈴木道彦「プルーストを読む---『失われた時を求めて』の世界」
何度も読んでかみしめる。読書は「うながし」。



(今週のおまけ)

2004年7月4日、シンガポールのインド人街にて食したバナナリーフカレー(南インド風)。


2018.07.14 Saturday

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