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2024.01.13 Saturday

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2013.11.16 Saturday

[chapter 86] ポール・マッカートニー 日本公演レポ

2002年11月11日(月) 東京 40歳

ポール・マッカートニー@東京ドーム

ポール・マッカートニーの東京ドームコンサートに行ってきた。

実は前日、友人からチケットが余ったので行かないかと誘われ、急遽行くことが決まったのだ。なんてラッキーなんだろうと思った。ポールはもうライブでは一生観られないだろうと諦めていただけに、突然の電話に激しく興奮した。1966年のビートルズ公演は物心つかなくて間に合わず、1976年と1980年は不幸な公演中止の憂き目を見ている「遅れてきた世代」のわたしにとって、この機会は最後のチャンスだと確信した。そしてこのチャンスの神様の前髪を思いっきりつかんで放さず、「今がそのとき」と行くことを決心したのだ。

                      ◇◆

2時間半近くノンストップで演奏し続けた。60歳とは到底思えぬ身体の動き、オリジナルと変わらない声量、すべて良かった。そして最高なのはスピリットがロックンロールバンドだったこと。セミリタイアした息も上がったような懐メロオールディーズバンドではなかった。まったくの現役バリバリだった。“MY LOVE”や
“HERE, THERE & EVERYWHERE"のようなバラードナンバーでさえも
“I SAW HER STANDING THERE”と同じロックンロールバンドのグルーヴを持って演奏されていたのだ。このピュアでソリッドなテイスト。ここからロックの歴史が切り開かれていったんだな。世界中のロックアーチストに限りない影響を与えた、その源(みなもと)にいる張本人が目の前数百メートルのところにいるという感覚は、奇跡のようにも思えた。

印象的なナンバーをレビューすると―――

GETTING BETTER “SGT.PEPPER'S”収録曲。今回のワールドツアーで1967年のアルバム発表以来、初めてLIVE演奏された。印象的なサイドギターのカッティングはポール自らが弾いていた。オリジナルではインドのタンブールという楽器が使われていたが、今回はサンプリングキーボードを使って再現していたと思しい。GETTING BETTERというのは造語で、1964年のオランダ、デンマークツアーに病気で入院したリンゴに代わってドラムを叩いたジミー・ニコルの口癖だったと記憶している。

SHE'S LEAVING HOME 同じく“SGT.PEPPER'S”から。この曲を聴いていると知らぬ間に涙が出てきた。美しく儚くて。家出した少女の新聞記事にインスパイアされてポールが作曲したナンバー。

FOOL ON THE HILL いろいろなことを想起しながら聴いた。ステージのスクリーンに“MAGICAL MYSTERY TOUR”のこの曲のシーンの映像が映しだされたとき鳥肌が立った。1967年(25歳)のポールと2002年(60歳)のポールの競演。確かポールが少人数のスタッフとともに16ミリのカメラを持ってふらっとフランスへ行って撮ってきた画だったか。またビデオアーティストのナムジュン・パイクは、フルクサスのアーチスト仲間である小野洋子の紹介でこの曲のレコーディングセッションを見学したときに、ポールのあまりの完璧主義者ぶりに他の3人が辟易していたというエピソードを書いていたことも思い出した。しかしいずれにしても、この曲は時代を超えた名曲となっている。

そのほか、たくさんの名曲をうっとりしながら聴いていた。

モレや記憶違いもあるかもしれないが、下記の曲を演奏した(曲順は不確か)。知らないのは新しく創られた2曲くらいで、あとはすべてロックを聴き始めたころから自分の血肉となっている曲ばかりで、超弩級の大興奮状態だった!ああ、生きててよかった。
ポールもやっとビートルズの呪縛から解放され、偉大なマスターピースを演奏する気になれたのかもしれないな、と思った。


HELLO GOODBYE
JET
ALL MY LOVING
GETTING BETTER
COMING UP
LET ME ROLL IT
DRIVING RAIN
BLACKBIRD
YOU NEVER GIVE ME YOUR MONEY
CARRY THAT WEIGHT
FOOL ON THE HILL
SOMETHING
SHE'S LEAVING HOME
LET 'EM IN
HERE THERE AND EVERYWHERE
WE CAN WORK IT OUT
ELEANOR RIGBY
MICHELLE
MY LOVE
BACK IN THE U.S.S.R.
LIVE AND LET DIE
BAND ON THE RUN
MAYBE I'M AMAZED
CAN'T BUY ME LOVE
LET IT BE
HEY JUDE
I SAW HER STANDING THERE
THE LONG AND WINDING ROAD
LADY MADONNA
YESTERDAY
SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND
THE END




[関連情報]
祝!遂に、遂に実現!11年振りの奇跡の来日公演、決定!

ポール・マッカートニーの来日公演「アウト・ゼアー ジャパン・ツアー」が開催決定!

昨年行われたロンドンオリンピック開幕式でのパフォーマンスも記憶に新しいポール。2002年以来11年ぶりである来日公演は、11月12日(火)京セラドーム、11月15日(金)福岡ヤフオク!ドーム、11月18日(月)・19日(火)・21日(木)に東京ドームで行われる。

現在開催中のワールドツアーでは、ビートルズの有名曲はもちろん、これまで一度も演奏されなかったナンバーまで披露されており、ライトなファンからマニアまで楽しめるセットリストになっているとのこと。日本公演も期待を裏切らないライブになること間違いなし!

ビートルズ、そしてソロでの大きな業績を考えると、まさに彼の歴史こそが音楽の歴史と言っても過言ではないポールの来日公演。この機会を絶対にお見逃しなく!


(今週のおまけ)The Beatlesの想い出を語る…
こちら↓↓↓
スティング(ポリス ベース)

僕のビートルズの一曲は「Love Me Do」だ。僕が初めて聞いたビートルズの曲だ。これを初めて聴いたのは11歳の時だった。たまたま友人達と公営プールで泳いでいる時に聴いた。その溶け合ったヴォーカルハーモニーと魅惑的なハーモニカに惹きつけられ僕たちは圧倒的な、ほとんど霊的と言っていいほどの衝撃をうけた。その感覚は言葉にはならない。その場で僕らは全員立ち上がり、裸のまま踊り出したんだ。それから数日でこの現象が僕らだけではなくクラスメイトにも起きていることに気が付いたんだ。それくらい強烈な一曲だった。その一瞬で僕は人生の歩くべき道を決めたのだと思う。


マイアミでポリスがちょうどステージの袖を降りた時ジョンが撃たれたと聞いて信じられなくてショックで恐ろしかった。彼のような人が死ぬということは山が消えて川がなくなるぐらいの重要な出来事だったと思う。彼の死はいかにも<ニューヨークの死>だ。ニューヨークでは有能な人間が無為な死を遂げることが通例なのだ。彼がいなくなってみんなが寂しがっている。僕はあの建物の近くを通るたび彼のことを思い出す。

ビートルズは僕の幼少期のしつけや教育を形成した。彼らの生い立ちは僕ととてもよく似ていた。僕もイギリスの産業都市の労働者階級の出身なんだ。彼らは独自の歌を作って世界を征服した。イギリスの多くの若者が同じようになりたいと思って彼らを手本とした。
 
僕がベースを始めたのもポールの影響に他ならなかった。彼のベースで僕の気に入ったラインがあると僕がそれに乗せて違う曲を書いたんだ。それが僕のソングライティングの原風景だ。彼はそれまでの音楽でのまるで置物のようなベーシストではなかった。しかも彼には恐らくロックやジャズやポピュラーミュージックというような概念がなかった。僕もそれに共鳴している。僕にとってはクラシックでさえポップミュージックのようにきこえるのだ。
(2002年 ローリングストーン誌)


エルビス・コステロ

最初にビートルズのことを聞いたのは9才のときだった。当時僕は休日のほとんどをリバプールのマージーサイドで過ごしていて、地元の女の子が映りの悪い宣伝用写真を僕にくれたのだ。裏には彼らの名前が走り書きされていた。それはビートルズがアメリカに来る前、1962年か1963年の事だ。 

面白いことに、リバプールの親たちや友人たちは皆この地元グループに興味を持ち、また彼らのことを誇りに思っていた。それ以前に北イングランドからショービジネスの世界に足を踏み入れた人々は、皆コメディアンばかりだったからだ。そんなわけで、ビートルズもパーロフォンというコメディ・レーベルでレコーディングをしている。

僕はビートルズに身も心も奪われてしまうような年令だった。ありとあらゆる彼らの写真を集め、シングルやEP盤を買う為にこずかいを貯め、地元のニュースで彼らの情報を収集した。ジョンは比較的裕福な生活をしていたようだがポールやジョージ、リンゴは僕と同じようにまったくの労働者階級だったことも僕の励ましになった。そんな僕のビートルズ体験は、その後世界中で繰り返し再体験されることになる。これほどの大きなスケールで、このような事が起こったことはそれまでに一度もなかった。しかし、それは数がどうのという話ではない。マイケル・ジャクソンのレコードは世の終わりまで売れ続けるだろう。だが、彼がかつてのビートルズほど、人々にとって重要な意味を持つことはことは決してないだろう。

発売されたレコードのどれもがショックだった。ビートルズのサウンドはそれまで全く聴いたことがないものだった。彼らはバディ・ホリーや、エヴァリー・ブラザーズ、チャック・ベリーなどをすでに吸収しており、その上自分たちで曲を作っていた。彼らにとって自分たちのために曲を書くことは例外ではなく、ごく当たり前のことなのだった。

ジョン・レノンとポール・マッカートニーは桁外れの作曲家だった。マッカートニーは以前も、そして現在まで真の巨匠である。私の同世代のベーシストで彼のベースの影響をうけていない人間などほとんど皆無だった。ジョージ・ハリスンはワイルドなギタリストではないし、思いがけないソロを弾けるわけでもないが、彼の弾くフレーズはそのほとんどが口に出して歌いたくなるほどメロディアスである。リンゴのドラムは信じられないほどユニークで、コピーさえままならない。彼の真似をすることは非常に困難だ。そしてとりわけなにより、ジョンとポールはすばらしいシンガーで同じグループにいること自体が奇跡だ。

レノン、マッカートニー、ハリスンは作曲家として驚くべき高い水準を誇っている。Ask Me Whyや、Things We Said TodayをB面として発売することを想像してみてほしい。彼らはPaperback Writer/Rain、Penny Lane/Strawberry Fieldsといった素晴らしい作品をシングル盤だけでしか発売していない。それらはただ単にアルバムの発売を予告するものではなく、むしろ事件とさえいえるものだった。

僕はポール・マッカートニーと共に曲を書き、彼と2度コンサートで共演する機会に恵まれた。1999年、リンダ・マッカートニーが亡くなった少し後に、ポールはリンダのためにコンサートを開いた。彼女の古くからの友人のクリッシー・ハインドが主催した追悼コンサートだ。僕がリッキー・ネルソンの歌にコーラスをつけていたとき、ポールが次にやる曲を告げた。All My Lovingだ!僕は言った、「2番のハーモニーをつけてもいいですか?彼は答えた、「いいとも、やってごらん。」でも自信はなかったけど。僕はそのパートをやるために、35年しか練習していなかったから! それはとても感動的なパフォーマンスだった。数名のスタッフと出演者たちだけがその瞬間を目撃した。

実際のショーでは、状況は一変した。Close your eyes, and I'll kiss you〜

最初のフレーズを彼が口にした瞬間、観衆の強烈な反応が曲を完全にかき消してしまったのだ。それは非常にスリリングだったが、どちらかというと僕は面食らってしまったのだった。おそらくその瞬間、僕はビートルズが公演活動をやめた理由の一つを理解したのだと思う。ビートルズの曲はもはや彼らのものではなかった。それらは人々のものになっていた。そしてポールは40年間その波の中で生活していたのだ。
(2004年ローリングストーン誌)
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