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2013.10.26 Saturday

[chapter 83] マチェーテ・キルズ/ クープランの墓/ 横浜・根岸森林公園/ 平沢進の伝説的 Tweet /「フーコン戦記」 古山高麗雄/ パッポン通りの名前の由来 / 働くことによって得られるもの/



(近況)ロバート・ロドリゲスの新作、「Machete Kills」を鑑賞しました。




 二〇〇二年一〇月二六日(水) 成田〜曼谷  四〇歳 
  クープランの墓
 行きの機内の耐えがたい退屈さを救ってくれたのがヘッドフォンステレオ放送の音楽。ラヴェル作曲『クープランの墓』ピエール・ブーレーズ指揮ウィーン・フィル・オーケストラ。自分の持っているCDと同じ音源だったので、とっても心地好く豊かな気持ちになった。
 『クープランの墓』というと思い出すのが、一九八〇年春に日本武道館で行われた小学館の雑誌『写楽』の創刊イベント。スネークマンショーとYMOが融合した、今となっては伝説的なライブイベントだったのだが、とにかくこれがすごかった。あいにく観にいけなかったのだが、スネークマンショーのラジオで中継したのが記憶に残っている。ここで女装した坂本龍一がピアノを弾き、ヴィオラ奏者とのDUOで『クープランの墓』を演奏し、これがうっとりするほどの名演奏で思わず聴き惚れたものだった。ところが、会場はその前にえんえんとスネークマンショーの犬のコントが続いていて、これが時代が早すぎたのかちっともウケず、かえって罵声怒号が飛び交い、観客の欲求不満のボルテージはマックスにヒートアップ、ラジオを聴いているこちら側にもそれが伝わるほどだった。「はやくYMOを出せ!」野次の渦巻く武道館。
 しまいには女装の教授、逆ギレ!「うるせーぞ、この野郎!」「こいよ、ばか野郎!」って今にも舞台から駆け下りて観客と殴り合いしそうになっていた。これが伝説の坂本「ばか野郎」事件ですね。『クープランの墓』というと思い出す光景。








二〇〇四年一〇月二六日(火)横浜 四二歳 
 根岸森林公園
 一八六七(慶応三)年、日本で初めて洋式競馬が行われた根岸競馬場の跡を利用した公園。競馬場は一九四二(昭和一七)年のレースを最後に廃止され、戦後は米軍のゴルフ場などになっていた。一九六九(昭和四四)年から一部が日本に返還され、一九七七(昭和五二)年に公園としてオープンした。広大な敷地内には芝生広場や桜山、梅林などがあり、散策やジョギングに最適。旧競馬場の施設は、一等観客席跡だけが残ってる。(公園案内サイトより)
 根岸台は米軍の施設が今も残っていて、公園に隣接して軍人用のハウスが多く建てられている。五年くらい前、伊勢佐木長者町に住んでいた頃はよく散歩に来ました。この公園の裏手に平楽町という町があり、見渡す限りあたり一面お墓というシーケンス景観があり不気味で好きでした。
 あいにくの曇り空でしたが、多くの市民が訪れ、くつろいだり遊んだりしていました。横浜の中心部なのに、ごらんのように彼方にはビルなどまったく見えないんです。けっこうリラックスできました。
*画像をクリックすると拡大表示します。










  二〇〇九年一〇月二六日(月) チェンマイ 四七歳  
  平沢進氏のつぶやき
 間違えてないか?私は平沢進だぞ。平沢唯じゃない。
・これはwww
・クソワロタwww
・何かすげえ笑えるw
・誰が間違ってしまったのかが気になるwww
・やべえワロタw 本人に認知されたとなればえびふらい先生も大喜びだなこりゃw
・ギャグのわかる人だなw
・これはw かきふらい先生歓喜の瞬間じゃないかw
・平沢さんは発表前にかき先生から連絡受けてるぞ
・うーんユーモアの分かる人だ。元ネタにされたのを容認するだけじゃなくて自身のネタにしてしまうとは
・もういいおっちゃんなのにミュージシャンは気が若くていいよなw
・平沢さんとこのフォローが五〇〇くらい増えたのはこのスレのせいだと思ってる





  二〇〇五年九月二六日(水) 東京  四三歳  
 (読書メモ)『フーコン戦記』古山高麗雄
 ここ数年東南アジア各国を旅行する傍ら、約65年前にかの地を侵攻した大日本帝国軍の足取りについて跡をたどり、思いをめぐらせることが多い。はじめはあまりに美しいこの自然の風景を日本人が鉄砲を担いで行軍したことなど想像すらできなかった。戦後の日本社会の平和の中で安穏として生活している自分にとって、かの戦争はなんだったのか、漠然とした興味はあるのだけど、なかなか目の前の風景と像を結ばない。敗戦後の日本軍捕虜収容所における人間模様を描いた『プレオー8の夜明け』という短編に出会ったのはそのころであった。
 その作者古山高麗雄(ふるやま・こまお)の三つ目の長編戦記が「フーコン戦記」である。大東亜戦争でもっとも悲惨な戦場だったひとつ、ビルマのフーコンの死闘から奇跡的に生き残り帰還、戦後50余年を経て老境に入った主人公がフーコンの戦いを振り返る。途切れ、欠落した記憶をつなぎ合わせて自分の動いた軌跡を記そうと白地図にマーキングをしていく。その作業を小説内時間で読者も体験する。フーコンで夫を失った戦争未亡人から提供された資料を読むことによって記憶を復元しようとするが、詳しい戦況や地名、作戦名など、一兵卒の主人公には知らないことだらけなのであった……。
 戦争を記述することの困難についてこの小説は成功しているのではないかと思った。
 「インパールもフーコンも、そして中国雲南省の





拉孟(ラモウ)、騰越、龍陵などの戦いも、天王山などというものではなく、みんな必敗の戦闘だったのである」
「フーコン作戦だの、断作戦だのは、軍の一番上の方で決めて、下達されるだけで、命令が下れば、何万人もの人間が、動き、死ぬ者は死ぬのである。俺はそういう者たちの末端の一人である」
 つぶやきがつづく。それらは全体像がない。その態度は、「事後」から歴史を解釈するのとは正反対の立場で、大局的に語ることを努めて避けているようにも見える。地面を這いつくばる虫の視点から書かれているようにも思え、とても興味深い。(未完)
*画像はタイ・チェンマイ県ファーン郡、国境近くの丘の上から見たミャンマー領の山嶺





  二〇〇一年一〇月二六日(金) 東京  三九歳  
   ウドン・パッポンパニッチ
 先日、パッポン通りの名前の由来となった人物、ウドン・パッポンパニッチ氏の生涯を綴った伝記を読んだ。
 海南島からバンコクに移り住んだ華僑の二世として生まれたウドン氏は、一九五六年父が住居用として購入したパッポンの地にソイ(小路)を造り、その道の両脇にショップハウスを建て、会社への賃貸を始めた。初めは外資系企業のオフィスなどが連なる街区だったが、同年初めての性風俗系の店がオープンしている。「バンコク・オンセン・マッサージパーラー」という名前のその店は、日本人の女性が多く在籍し日本人の移住者やタイ警察の将校などが主な顧客だったらしい。この店の営業をきっかけにパッポンがじょじょにビジネス街からバーやレストラン、性風俗などの歓楽地帯となっていったようである。
 以来幾星霜、パッポンのセックス産業はベトナム戦争と重なって成長していった。それはビジネスとエンターテーメントの街区を、バーを本拠地とする赤線歓楽地帯に変えてしまった。パッポンのソイ1は一九六九年の終わりには五軒だったバーが一九七〇年代の終わりには、一〇〇軒以上にもなり、それからも数は増え続けた。ウドン氏亡き現在もパッポンの一角はパッポンパニッチ一族が土地を所有し、世界一の風俗街に君臨している。
 私が面白いと思ったのは、戦前はこの土地がバンコクの上海銀行の本店の所在地であり、一九四一〜五年は日本軍の憲兵隊により接収されていたという事実である。第二次大戦終結後、タイ政府によって管理されていたこの土地がオークションにかけられ、そしてパッポンパニッチ一族が購入したというとのこと。普段歩いているこ





のパッポンの喧騒の同じ場所に六〇年前、日本軍が駐留していたということにある感慨を抱いてしまう。「ああ、ここにも日本の歴史の爪あとがあった」と。今回一一月の訪問では一九五六年以来ずっと営業している「ミズキッチン」(パッポンで最古の店のひとつ、日本人経営のステーキレストラン)を訪ねてみようと思う。
(二〇一三年メモ)「ミズキッチン」はこの直後初めて訪れ、現在に至るまで一〇年余り、かなりの頻度でビーフステーキを食べに行っています。





   二〇一三年一〇月二六日(土) 曼谷  五一歳  
  働くことによって得られるもの
 ネットサーフィン中、拾った話をメモ書き。(
 日本理化学工業は、チョーク製造の国内大手メーカーであると共に,知的障害者の雇用に力を入れている会社として知られている。なんと全体の七〇%以上が知的障害のある社員であり、障害を持たない社員と一緒に働いている。なぜ同社はこれほどまでに知的障害者の雇用に積極的なのか、その秘密が明らかにされる。
 まだ知的障害者がほとんど就職できなかった一九六〇年頃、日本理化学工業の当時の専務のところに、知的障害者の通う養護学校の先生が、翌年卒業する生徒の就職依頼のため訪ねてきた。最初は門前払いのような形で断っていたが、養護学校の先生の訪問は続き「働く経験だけでもさせてもらえませんか」と熱心に懇願され、専務はかわいそうに思い二週間の期間限定で実習を受け入れることにした。
 二週間の実習中、知的障害者の生徒たちは驚くべき熱心さで仕事に取り組み、最初は上手にできなかったラベル貼りができるようになり、その勤務態度は社員達にも好影響を与え、それから毎年定期的に知的障害者の卒業生を雇用するようになった。
(以下、この文章のキモ)専務は何故彼女たちがそれほど強い責任感を持って熱心に仕事に取り組むのか、不思議で仕方なかった。施設に入れば満員の通勤電車に乗ったり、先輩に怒られたり、辛い思いをして働くことなく,楽に一生を過ごせるのに、と。その疑問に対し、ある法事でお坊さんが明快な答えを与えてくれた。





 お坊さんは「それは当たり前のことですよ」と説いた。「人間の幸せには,『人に愛されること』『人にほめられること』『人の役に立つこと』『人から必要とされること』の四つがある。そして、人に愛されること以外の三つの幸せは,働くことによって得られるのだ」と。
 ラベル張りの腕が上達してほめられたり、「皆さんのおかげでこんなに仕事が進みました。ありがとう」とお礼を言われたりした時に、彼女たちが見せた笑顔の数々が専務の頭の中に浮かんだ。しかしながら、知的障害者を採用したからといって,作業効率の低下が許されるわけではない。生産性が低下すれば製造コストに即跳ね返り、会社の収益を圧迫することになる。そこで、生産性を上げるために様々な工夫がされ、知的障害者の人が使える治具が考案されることにより、チョーク製造の工程革新という思わぬ成果につながり、作業の効率化が圧倒的なスピードでなされ、会社は発展していった・・・。
 この話は情緒に訴える美談の要素がないとは言わないが、知的障害者でも健常者でも、働くことによって得られるものは人間として同じだと思うので、この三つの幸せは、誰にも当てはまると深く共感した次第である。労働を単に糧を得るためだけの手段と割り切り、趣味や夢の実現のために生きている人がいることは否定はしないが、一日の大半を過ごしている仕事の時間の中に、人生で大切なほとんどのことが起こっているとみるのは事実ではないだろうか。そんなことを思いながらまた来週も頑張るぞ、と決意した今日この頃である。
(追記)しかし働いていないと、この三つのこと(『人にほめられること』『人の役に立つこと』『人から必要とされること』)は本当に縁がなくなってしまうんだよな。引きこもっていてもヒモでも別に悪くはないのだが、その点だけはもったいないと思うのである。働けばいいことあるのに。





[1年前の記事]
(chapter 31) スアンドーク寺院の金色の仏塔/ 世界のご不浄画像 / タイ海軍省の集合住宅 / I Saw Her Standing Sex There / ドブ川の臭い/ たまの夜 / Bombay TV / 生まれて初めての空中遊泳ほか


(久々、今週のおまけ)

Hot/ Angel in your arms 大好きだった。全米Top40でチャートインして気に入った曲。
2017.04.27 Thursday

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