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2013.07.27 Saturday

[chapter 70] 月収900円/ 久世光彦 「母を語る」/ イポリット・テーヌ(仏・美術史家)/ 松たか子「アイノトビラ」/ 刑務所から出所した村上秀一がシャバで初めて聴いた音楽/ (人工心臓の)ヤギ殺したな/ よど号事件 時系列DATAほか

2003年7月21日(月) 東京 40歳

久世光彦 「母を語る」(ラジオ深夜便)

久世光彦が母について語るのを聞いた。

独特のしわがれ声。必ずしも座談の名人ではないけれども、演出家であり作家である男の口をついて出る母を懐かしむ話は、郷愁を誘い、胸を打つものがあった。
その中で印象的だったのが受験の話。久世は浪人して大学(東大)に合格した。すでに父は亡く母が苦労して久世を育てた。合格発表を母と見に行く。自分の名前があるのを母といっしょに分かち合ったことは一生の思い出であると語っていた。その帰り、国電の乗り換え駅の上野に着いたとき、とつぜん「映画を見よう」と母に誘われて映画館(上野東宝)に入った。そのときにかかっていたのが『社長漫遊記』。3年間大好きな映画を断って息子の合格を応援しつづけた母が、森繁を観て、泣いて笑った。
「泣きながら笑うってあるんだな、って初めてわかりました」と語っていた。

久世の森繁久彌との縁はこのとき始まったという。大学卒業後TBSに入社、演出した『七人の孫』が大ヒット、以来幾度となく仕事をする機会を得る。最近は森繁の自伝の聞き書きをしているそうだ。
[関連記事]ムーの樹に花の咲く頃

2012年7月21日(土)
 バンコク 49歳

一発屋芸人の月収ランキング /全盛期と現在の月収比較

1位 波田陽区  全盛期:2800万円 現在:20万円
2位 長州小力  全盛期:2000万円 現在:5万円
3位 長井秀和  全盛期:1800万円 現在:15万円
4位 ムーディ勝山  全盛期:640万円 現在:16万円
5位 ダンディ坂野  全盛期:410万円 現在:22万円
6位 コウメ太夫  全盛期:400万円 現在:900円
7位 さがね正裕  全盛期:260万円 現在:20万円
8位 鉄拳  全盛期:250万円 現在:45万円
9位 KICK☆  全盛期:180万円 現在:4万円
10位 ジョイマン高木  全盛期:150万円 現在:6万円


(2013年メモ:鉄拳はアーチストとして売れてきたから月収も上がっているかもな。しかし、コウメ太夫、月収900円って何なんだろう。憐れすぎる)


2003年7月22日(火)
 東京 40歳

松たか子/ アイノトビラ

リリー・フランキーの生涯ベスト3 ロックアルバムは

(1) CLASH/ LONDON CALLING
(2) DAVID BOWIE/ ZIGGY STARDUST
(3) 松たか子/ アイノトビラ


との由。どこまで本気かわからないけど、でも松たか子を絶賛していたことだけは確かだ。松たか子は芝居よりも歌のほうが絶対いいと。リリー・フランキーは最大級の賛辞の言葉「エロい」を連発していた。

目茶苦茶に損壊した電話ボックスを発見(2011年7月21日 チェンマイにて)

2004年7月19日(火) 東京 41歳

Hyppolyte Taine (1828-1893)

イポリット・テーヌ。大学時代、中山公男先生の西洋美術史の授業でもっとも印象に残っている人。フランスの美術史家。文学より転ズル。以下、1984年頃の講義ノートより。

"Philosophie de l'art" (日本題「芸術哲学」(1882))

一人の作家を、その作家の環境、時代性(実証的アプローチ)、カタログ作製(Inventaire Catalogue)、財産目録などから研究した。
中世より連綿と続くフランス王侯貴族の財産目録の記録方法が以後のフランスやイギリスの美術史学の礎となった。
その方法論として―――

Catalouge reasonne(類別全作品目録)。一人の画家に対して数人の美術史家が作る目録。
それは日本人がイメージする「カタログ」の概念とは大きく異なる。現在にいたるまでヨーロッパでは新刊を出版することよりも展覧会のカタログを監修することのほうに価値と評価が置かれる傾向が強い。

≪題名≫
たとえば「印象派」の先駆的作品として史上もっとも有名なタブローのひとつ、クロード・モネの『印象・日の出』がカタログに監修されるまでには気の遠くなるような多くの研究と解釈・議論などを経て、その定説を醸成していった。『印象・日の出』は『印象・日の入り』であったかもしれなかった、という。絵の題名でさえ、人によって解釈の誤差が生じ、美術史家が鑑定していく際の困難を与える。

≪来歴≫
シャガールやキリコなどの作品において見られる例として実作者自身が判定するのではなく遺族が鑑定する場合に、しばしば本人作か否かの承諾が食い違うケースがまま、あった。

≪署名≫
フェルメールの作品に顕著なのだが、作品完成当時のネームバリューの関係で本人の名前とは別の名前を署名するケースがあった。

その他≪素材≫≪大きさ≫≪年記≫≪記名≫≪展覧会歴≫≪文献≫など。
19世紀は印刷技術が進展しておらず図版が悪かったので著述が非常に重要であったのである。つまり絵画を言語によって著述するということであるからそれがどれほど困難な作業を伴うものかは想像するにあまりあるだろう。そしてついにはiconographie、iconologieへ展開していくのである。(以下略)
2005年7月22日(金) 東京 42歳

[読書メモ]『坂の上の雲』を読む 第八回 戦争と「広報」― 関川夏央(文學界2005年8月号)

「よど号」ハイジャック事件の時系列DATA

日時:1970年3月31日〜4月5日

事件の概況:

・1970年3月31日午前7時過ぎ「よど号」は羽田空港を離陸した。
・その約10分後、富士山南側を飛行中、模造刀、モデルガンなどで武装した犯人グループがコックピットを制圧、機長に平壌に行くよう命じた。
・犯人グループは2名の未成年者を含む9名でリーダーは田宮高麿。
・午前9時、給油のため福岡空港に着陸した。人質の乗員7人、婦女子23人を解放した。
・乗客108人を乗せたまま午後2時に離陸。乗客の中には現・聖路加病院院長の日野原重明氏も含まれていた。
・朝鮮半島東側の海上を北上、江陵上空で西に転舵したあと半島中央部から北西に軍事分界線を越えた。
・韓国政府は日本政府の要請に応じて「よど号」を撃墜しなかった。
・ところが飛行機はなぜか南に再転舵、午後3時15分頃、ソウルの金浦空港に着陸した。再転舵の理由は事件後35年経った現在も不明。
・一時犯人たちはそこを平壌だと取り違えたようだがじきに気づき、そこから事件は長引いた。
・4月3日、犯人たちは山村新治郎運輸政務次官の「身代わりになる」という提案に同意、乗客全員と一部乗務員を解放したのち山村氏を乗せ午後6時過ぎに金浦空港を離陸した。
・午後7時半に平壌近郊の、旧日本軍の美林飛行場に着陸した。闇の中で未整備の飛行場に大型ジェット機を着陸させた機長の手腕はなかなかのものだった。
・山村氏と乗員、そして「よど号」の機体は、翌々日、4月5日の午前9時、事件発生後122時間後に羽田に戻った。

その後の犯人たちの足取り:

・犯人グループは始め「日本革命」のための「武装闘争」の訓練を受けるために北朝鮮へ行ったが、北朝鮮は当時、経済不振と中国文化大革命の影響を避けるために生成された「主体思想」を旗印にカルト化が完成して5年目で、犯人たちも「主体教徒」として生きざるを得なかった。それに反発した青年(岡本武?)は不審な死を遂げた。
・それから35年経った。犯人グループは3人が死亡し、ふたりが北朝鮮国外で逮捕され、4人が依然北朝鮮国内に残っている。彼らはそれぞれ密航した日本人活動家と結婚して家族を作ったが、彼らがヨーロッパにおける日本人青年の拉致を含む、北朝鮮の国家犯罪に加担したことは確かである。

事件の前の謀議:

・事件前に2回行なわれただけ。1回目のときが初対面でお互い名前も知らない者が多かったらしい。当初はキューバに行くつもりだったが遠すぎるので北朝鮮に目標をかえたが、北朝鮮のことは中学教科書程度の知識しか持ち合わせておらず、ほとんど知らなかったという。
・実は3月27日に1回目の試みをしているが、そのときは何人かが予定していた便に乗り遅れて未遂に終わっていた。飛行機の乗り方がわからなかったらしい。
・3月29日、2度目の謀議が行なわれたときには、最初20数名いた参加者は9名になっていた。そこで3月31日決行が決まった。
・彼らは主観的には真剣に、客観的にはきわめて軽率にその後半生を選択したわけで、これが当時の青年に共有された心情だった。

(コメント)
日野原重明先生は1911年10月4日生まれだから「よど号」事件当時、58歳だったわけですね。波乱万丈の人生ですよねー。

2011年7月26日(火) チェンマイ 48歳

どんよりしたくもり。
posted at 09:51:00

チャカポコチャ
posted at 09:55:10

米ドラマ「The Office」で社員のデスクトップコンピュータの画面がかなりの確率でソリティアが開いているのが好ましい。
posted at 11:16:59

村上秀一が刑務所から出所してくると世はアヴァンギャルドロックが流行していた。Phewの「終曲/うらはら」のシングルを初めて聴いた村上は猛烈に気分が悪くなり、レコードを床に叩きつけて割ってしまった。そのとき「あ、このレコードはこれが言いたかったのか」とそのレコードの存在理由を理解したという
posted at 14:24:13

初めてプノンペンに行った2002年、キャピトルゲストハウスの前を歩いていると「いっひっひ、旦那いい娘がいますぜ、あっしが案内しやす」とカンボジア人の男に声をかけられびっくりしたことがある。「あっし」って何なんだよ、誰がこいつに日本語教えたんだよ、めちゃくちゃ気持ち悪かった。
posted at 14:32:34


Claude Monet, Impression, soleil levant, 1872

2013年7月26日(金) バンコク 50歳

(人工心臓の)ヤギ、殺したな

とつぜん昔の出来事を思い出したのだが、山手通りの松見坂から富ヶ谷方面へのカーブの辺り、東北沢の商店街を抜ける側道近くに東大の先端技術研究所があって、仕事で出入りしていたことがあった。中庭にヤギがつながれていたのを見たことがあり、あれは何なのだろうと、いつも不思議に思っていたのだが、あとから、そのヤギには人工心臓がとりつけられているという話を人から聞いてびっくりしたのだった。

今、ちょっと検索してみると、


人工心臓ヤギ300日生存 世界最長を記録

 1984(昭和59)年4月4日、心臓摘出後に完全置換型の人工心臓を付けたヤギが世界最長の生存300日を達成したと東大医学部の渥美和彦教授らが発表。95年には同じ東大の井街宏教授らが532日の動物の世界記録を更新、さらに体内埋め込み式へと発展させ人工心臓の開発に向けて大きく貢献した。


という記事がヒットした。私が見たのはその時期のヤギであることは間違いないと思う。


2001年7月26日(木) 東京 38歳

『紅の流れ星』(1967年 日活)男:渡哲也 女:松尾嘉代



ところは神戸。高台の洋館、港の見えるサンデッキ。夏、昼下がり。

「五郎、好きよ」
「暑いなあ、ウィスキーあんだろ」
「ねえ、愛してる?」
「水割り作ってくれや」
「愛してるの?」
「コーラでもいいんだ。喉が渇いたよ」
「愛してくれてないの?」
「コーラの栓抜いてくれよ」
「好きな人ができたんでしょ」
「氷のかちわりでいいからくれや」
「嫌いになったの?」
「飽きたのさ。この神戸って街も、ダチにも、女にもさ」
「やっぱり嫌いになったのね」
「違うなあ、飽きたんだ。朝が来れば日は昇る。日が沈めば夜になる。今日がそうなら明日もそうだ。あさってだっておんなじだろう。それがやりきれない。どうにかならねえかなあと思う。どうにもならない」


1981年頃、日本テレビの日曜午後にOAしているのを観た記憶がある。ゴダールの「勝手にしやがれ」に酷似していた。でも、役者に魅力があってよかった。
2017.03.19 Sunday

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