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2013.05.01 Wednesday

[chapter 57]  昭和後期のゴールデンウィークの過ごし方/ サイモン・ロディア / 日本の女芸に流れている巫女的要素/ 神田川淫乱戦争/ 変態家族 兄貴の嫁さん/ 日本刀と武具発掘ほか


 日本の女芸に流れている巫女的要素
 猿女君(さるめのきみ)にゆかりのあつた神懸りといふのは、正体のない、常態を失うた境に這入る事を言ひ、巫女が神として託宣を行ふ場合には、此状態になるのが常であつた。日本の舞・歌・物語など、此神懸りから出て来るものが多数にある。酒が現今の様に時も処も定めず、用ゐられるやうになつては、此話も稍耳に入りにくいのかも知れぬが、古代に於ては、酒の用ゐられる場合は、はつきりと定り、且、其機会も、さう度々ではなかつた。神事だけに用ゐられたのである。酒を用ゐて、陶然とした境地に這入ることが、既に一つの神懸りの状態であつた。而も、さうした神酒を掌るのは女性であつた。(中略)酒を造り、酒を酌む者は女であつた。此酒により、又は暗示により神懸りする。さうして舞ひ、謡ひ、踊る。其動作・言語の中に神を見たのである。其神懸りが後に物狂ひとなつて行く。謡曲の狂ひ物は其系統に属する。博多物狂ひ・松浦物狂ひ・由良物狂ひ等、能の先行芸である曲舞の中にも其名が見える。「狂うて見せ候へ」とわきに注文せられて、狂乱の境に入る物狂ひは、大抵、さうして狂うて居る中に、尋ね廻つて居た恋しい夫なり、子なりを群集の中に見出すのである。
      (折口信夫「上世日本の文学」)
 戸板康二は、歌舞伎を通じて折口信夫と深く接した一人であったが、折口は歌舞伎の女方の





芸には何か霊的なものが憑りついていると感じていたと証言している。このメモをとった岡野弘彦「折口信夫の記」によると、歌舞伎以前に日本の女芸に流れていた巫女的な要素が、やがて女の物狂い芸に流れていることを折口は説いていたという。大阪の商家に生まれ、幼いころから歌舞伎や文楽の世界に親しんできた折口は、「狂うて見せ候へ」と言われて狂いに入る女芸に応じて、見て居る側の心も自然に狂いに引きつけられていった。そのさまは、古代の祭りの場において現出した、神話の時間・空間のよみがえりの中で、演じる神も巫女も村人も一様に流れ込んでいく共同体の集中と興奮が当時の芝居小屋にはまだ残っていたと分析している。幼い頃から折口はその感覚に特別に多感な特質をもっていた、と。(この項、未完)
(追記)今タイに住んでいて、カトゥーイとかサオプラペッソンとかオカマとか言われる人たちに自分はなぜこれほど惹かれるのだろうということについて、もろもろ考察しているのですが、折口信夫は有益なヒントを与えてくれそうな勘があり、アカデミズムの見地からではなく、もっと下種な了見から読んでいます。






 神田川淫乱戦争
 一九八三年八月、浜松のピンク映画館で観た記憶があるのだが、内容についてはまったく覚えていない。当時大学生の私は、同じ大学の友人の実家に二週間くらい遊びに行っていたのだが、連日海へ行ったり山へ行ったりしていている中で、何かのきっかけでピンク映画を観ようということになり、市内のローカル映画館に観に行ったのだと思う。勿論、黒沢清が監督だからとか、周防正行が助監督を務めているからとか、岸野雄一や森達也が助演しているからとか、そんな理由で観たわけではない。ただの偶然。(





 変態家族 兄貴の嫁さん
 一九八四年製作の周防正行監督作品。「神田川淫乱戦争」同様にピンク映画館で観た。ただ、これは公開当時から小津安二郎へのオマージュ映画である噂はまわりで聞いていたので、それで自覚的に観に行ったと記憶している。内容はまったく覚えていない。(





  昭和五十五(一九八〇)年五月 17歳
 五月三日(火) 昼間、六本木のスタジオ・マグネット(旧S−KENスタジオ)にて、コールド・ジャック、ショー・ダウン、三上理子、ヴィデオ・マニエラを見た。ヴィデオ・マニエラのシンセポップの味わいが良かった。
 五月四日(水) 日比谷公園をぷらぷらしていると、野音で「ジャパン・ロック・フェスティバル」がやっていた。なんとなく入り口付近を見ると、一瞬「す」ができた感じがしたのね。俺達は無言で目配せして、ささーっと、ゲートをキセルで通りすぎようとしたら、K美以外、全員捕まってしまった。ちょうどそのときはK美の好きなパンタ&HALがやっていて、あの女は出てくるわけもなく、残った俺達は帰った。
 五月五日(木) 渋谷屋根裏に子供ばんどを見に行く。結成五百回記念ライブ、凄すぎる!3時間近く演った。ゲストは小川銀次。





  昭和五十九(一九八四)年五月 21歳
 五月一日(火) 原宿のスタジオVで待ち合わせしてラフォーレミュージアムでシンディー・シャーマン展。そのあと、歩いて渋谷。パルコ2階の「A.I.U.E.O」にて談笑。バスで帰宅。
 五月二日(水) 渋谷道玄坂つぼ八で飲み会。東大文学部社会学科の同級生グループと某女子大の合コン。東大に通ってるわけでもないのに、誘われたので行ってきた。みんなそこそこ可愛くて大人しいのだが、一人うるさい女がいて閉口、内心大変むかついた。初対面なのにすっごく馴れ馴れしい。あとから聞くとその女は***という名前で、H(高校時代からの友人)のことを追っかけているらしい。Hが来てないのでぼやいていた。有名な骨董品屋の娘だとのこと。(小津安二郎の映画にクレジットが出てきたり、谷崎潤一郎とも縁のある骨董品屋といえば、わかる人はすぐわかっちゃいますね。おっと口が過ぎ・・・)






 五月三日(木) 早朝出宅、練馬Kちゃん宅へ。そこから出発。友人4人で浜松へ。渋滞で足柄SAまで三時間かかるが、そこからはぶっ飛ばし二時間くらいで浜松に着いた。Tと合流。ホテルコンコードの展望喫茶で顔合わせしたあと浜松城見学。ボンベイ(インド料理レストラン)、洋服屋のCなどなど。たくさん移動し、たくさん飲んで食べて、たくさんの人に会い、記憶失う。 
 五月四日(金) 昼は中田島砂丘で凧揚げ祭り見物のあと、夜は法被に着替え、浜松祭り初参加。山車(だし)の先導で市内を巡回。夜中までずーっと。超面白かった。「ねり」という独特の踊りにはまりこんでしまいトランス状態になる。ぜんぜん知らない人に酒をふるまわれ、その人の家にあがって飲んだ。なぜか唐十郎が酒保にいて、真っ赤な顔して酔っ払っていた。日本の祭りグレイトな一日だった。
 五月五日(土) 日中は佐鳴湖でボート。夕方から二日連続で法被で出陣。祭り楽し。





  昭和六十(一九八五)年五月 22歳
 五月三日(金) 友人のCちゃん、Mちゃんの引越しの手伝い。弟にワゴン車を出してもらう。Cちゃんの実家の椎名町、Mちゃんの下宿先の東高円寺、新居の方南町を何回か往復。某宗教施設の悪目立ちぶりが印象的。
 五月四日(土)浅草東宝で喜劇映画オールナイト。「てなもんや東海道」「喜劇ドッキリ大逃走」「ドリフターズですよ!全員突撃」「続・社長忍法帖」「喜劇駅前音頭」の5本。沼田元氣さんがいたので挨拶する。ドリフの映画には子役時代の西崎緑が出演していた。
 五月五日(日) Cちゃんから誘われて六本木の玉椿にてCちゃんのバースデーパーティーに行く。元JのKくんとJ話で盛り上がる。二次会は新宿二丁目へ流れる。
 五月六日(月) 新宿のHの実家の焼き肉屋にて三月のヨーロッパ旅行の8ミリ&スライド上映会を兼ねた焼き肉パーティー。





 昭和六十三(一九八八)年五月 25歳 
 ロスアンゼルスに旅行しました。往路は大韓航空でソウル経由、復路はロスアンゼルスから成田まで直行便でした。相性が合い、わりと好きな都市だと感じました。ロスアンゼルス国際空港に降り立ったときにゴムが焦げるような匂いがして、その匂いが結局最後まで鼻腔をついて離れませんでした。あれはもしかしたら有鉛ガソリンの排気ガスの臭いだったかもしれないと今となっては思います。都市の規模がとても大きくて、西側のハリウッド地区から東側のダウンタウン地区までは二〇kmくらいあって、東京から横浜くらいまで行くような距離感でした。地下鉄はまだ開通してなかったのでそこをタクシーや路線バスで行き来しました。そう、あとから考えると映画「スピード」でフリーウェイを走るノンストップの路線バスが登場しますが、乗ったバスの路線はあまり変わらなかったのではないかと思うしだいです。シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠さんが初めてLAに行ったとき、「馬が車に換ったちゅうくらいで西部劇





の頃と大して変らんかった」とその印象を語っていましたが、LAはまさしく自動車社会の縮図でとにかく車がなければ移動は困難な都市でした。地下鉄が開通してない当時は、低所得者層の人の住む町からはビバリー・ヒルズなど高級住宅街には車がないと行けない感じでした。
 ダウンタウンの盛り場は昼間でもピリピリするような緊張感のある雰囲気だったとか、ハリウッドエリアのメルローズ通りのアメリカンカジュアルの洋服屋をはしごして買い物したりとか、楽しい思い出がたくさんありますが、わたくし的には「ワッツタワー」という建築物がいちばん印象に残りました。サイモン・ロディアという人が何十年にも渡り、拾ってきた廃品を使って建てた高層建築物です。彼は建築を勉強したことのない一介の労働者で、ある日突然自分の土地に見よう見まねで塔を作り始めて30数年後に完成したというものでかなりなイムパクトを受けました。尖塔が並ぶさまはガウディの聖家族教会に似ていると思いました。それを観たときはただただ視覚的に圧倒されただけだったのですが、







最近はなぜあの建物をサイモン・ロディアは建てたのか、ということに関心が向かっています。いわゆる「アウトサイダー・アート」の傑作のひとつであると思うしだいです。





 日本刀と武具発掘(二〇〇三年五月五日) 
 またしても一族的騒動が勃発。
祖父が遺した会社の旧社屋を取り壊すことになったので、後を継いだ従兄弟がいろいろ整理していたら、届け出のない日本刀や武具が出てきたとの由。祖母も叔父もだれもそんなものは見たことないという。鑑定してもらったらお値打ち品ということが判明した。警察に届け出たら調書を取られたらしい!
波乱万丈な生涯だった祖父が死して十年、孫子(まごこ)の時代にいたるもなお騒動を起こし続けている。
(参考)二〇〇一年十一月二十九日の日記
最近私の親族に起こっためちゃ恥ずかしい事件を、書ける範囲でここに暴露します。
ある日、祖母(母方)の家に一通の手紙が届いた。祖母はその手紙を開封するやいなや卒倒し、「すぐに来てくれ〜」と母に電話をかけてきた。その手紙はある人から出された内容証明付きの手紙だった。





 早速、父と母が祖母の家に行って手紙を読むと、こんな内容のことが書かれてあった。
 八年前に他界した祖父が、そこからさかのぼる事、五年前(つまり今から十三年前)に取り交わしたある土地の不動産登記証書一式が、倒産した会社の金庫の中から出てきたという。手紙はその会社の破産管財人からで、ついてはその証書について、ある人物が自分の物であると権利を主張している、事によったら法的に争うことも辞さないがどうしますか?という内容のものであった。
 両親はそれを読み、少し安堵した。というのは実はもっと悪いことが書かれているという予想が外れたからだ。祖父が生前行なった経済行為でだれかを傷つけ莫大な補償金を請求されている、とかそんな話ではないかと思っていたので、ちょっと拍子抜けしたらしい。「高額の金額を請求されてはいない、だいじょうぶ」と祖母に説明すると、祖母はいくぶんか不安も和らいだという。





 とはいえ、訴えられる可能性がなくなったわけではないので、家族と法律家の間で問題をどう処理していくか、現在検討中ではあるのだが。
 しかし、あきれ果てるのは祖父である。死んで八年経っても、まだ遺された家族をびっくりさせている。まったくお騒がせ爺さんだ。
 生前はかなり目先の利く、利にさとい商人だった。事業で儲けた金で不動産を買いまくり、土地を転がしていたらしい。それが89歳で死ぬ直前まで、そんなことをやっていたんだよ。
 若いころは「飲む・打つ・買う」オールマイティーで、西新宿の十二社(じゅうにそう)特飲街(青線)では「遊び人のシンサン」とその名をとどろかしていたらしい。自宅で開帳していた賭場に密告を受けて警察が踏み込んできて捕まった話とか、逸話が山ほどある超豪快な人だった。彼の伝記を書くのが私の夢なんだけどね。






若き頃の祖父(1934年頃)


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