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2014.07.26 Saturday

[chapter 122] 福田恆存ちょっといい話/ 白井晃の父/ バリ島ミクロ情報/ 1983年の夏休み/ ピテカントロプス・エレクトスで The Spoil / さよならお竜さん/ カーペット張替え作業中ほか


  二〇〇五年七月二九日(金) 東京 四二歳
 福田恆存ちょっといい話
 ある日、大岡昇平が福田恆存(つねあり)の家に電話をしたらお手伝いさんが出て、「先生は只今お風呂に入っていらっしゃいます」といった。それでは奥さんは?と訊いたら「奥様も只今入浴中です」 という答えが返って来たという。





二〇〇六年七月二九日(土) 東京 四三歳
 白井晃の父
俳優の白井晃の父は電飾技術の職人で、テレビジョンや舞台美術関係の電飾を扱う工房を経営している。『プロポーズ大作戦』の「フィーリングカップル5対5」の電飾は白井の父の製作によるものだったという。
(『徹子の部屋』より)
二〇〇三年七月二九日(火) 東京 四〇歳
 バリ島ミクロ情報
 バリから帰ってきた友人のキャバ嬢から聞いた話。HISの格安ツアーでバリに行ったらしいのだが、ビーチサンダルをおまけにもらったのでそれを履いて街を歩いていると、同じビーチサンダルを履いている日本人にやたら会ったという。HISツアーでバリに来ているのがモロ分かりでバツが悪く恥ずかしかったそうだ。(バリ島情報というよりも、HIS情報じゃねえか、爆)





一九八三年七月二九日(金) 東京 二〇歳
 神田の画廊で漫才パフォーマンスのあとピテカントロプス・エレクトスでザ・スポイル 
(追記)文通していた高校生の友人女性が上京したのであちこち遊びにつきあいつつも、友人のグループ展にてパフォーマンスをやったり、この数日前は吉祥寺でビデオインスタレーションショーを主催したり、ライブを観に行ったり、ごく普通に「美大生」していました。一九八三年の夏休みが人生で一番楽しかったみたいです。





 一九八〇年七月二三日(水) 東京 一七歳
  さよならお竜さん
(追記)倉本聰脚本、岩下志麻主演のドラマの第一回。面白さに随分と興奮しているふしが感じられます。この同僚たちとの飲み会のシーンはストーリーラインに絡まないことが凄いと当時感心しました。




二〇〇六年七月二九日(土) 東京 四三歳
 カーペット張替え作業中
 休日出勤の今日はオフィスのタイルカーペットの張り替え。朝から業者が来て作業中。グレーのを剥がしてライトブルーにチェンジしています。さすがに綺麗なり。
(二〇一四年メモ)当時、わたしは日本茶の会社に在籍していましたが、なぜカーペットの張り替えをやったかというと、この直後にタイ王室の某殿下がお忍びで来日され、会社と製茶工場を見学に来るので大急ぎで体裁を整えようとリフォームしたからなのでした。当時社長はタイ王室とパイプを持ち始めていて、タイに進出することを本気で考えていたようです。(わたしもその際はタイ現地駐在員に立候補しようとおもってました)しかし、その夢は事情があって水泡に帰しましたが。夢は別の形で実現し、私はタイで生活をしています。
なんだかんだでタイ生活も六年を過ぎ、だいぶん慣れました。この先どうなるかはわかりませんが、日本の寒さには耐えられないのでこちらで寿命を全うできればと思っております。





(1年前の記事)
[chapter 70] 月収900円/ 久世光彦 「母を語る」/ イポリット・テーヌ(仏・美術史家)/ 松たか子「アイノトビラ」/ 刑務所から出所した村上秀一がシャバで初めて聴いた音楽/ (人工心臓の)ヤギ殺したな/ よど号事件 時系列DATAほか
(2年前の記事)
[chapter 17]フランス旅行記(後編)〜モン・サン=ミシェル、ルーブル美術館、パリでパスカルズのコンサートほか
2013.11.30 Saturday

[chapter 88] キンタマーニ/ 栗コーダーカルテット ライブレポ/ バリ島にて/ チェンマイ動物園のジャイアントパンダ/ 日本テレビ汐留ビル/ DANCING IN FRONT OF THE CAMERA/ フランシス・ベーコン/ タイのオーディション番組で聴いた日本語の歌ほか








  二〇〇三年一一月三〇日(日)清邁 四一歳
 三度目のチェンマイ。気温は三〇度近くあるようだが、湿度がことのほか低く、風もかろやかでとってもすごし易い。六月、九月と較べるといちばん気持ちよい。
 だんだんこの都市の肝(きも)がわかってきたような気がする。もちろん自分にとっていちばん気持ちよい居場所という意味だが。バンコクの無国籍感も好きだが、チェンマイのアンティークさも心癒される。
 今日はこの一〇月にタイにお目見えしたジャイアントパンダを見に、チェンマイ動物園に行ってきた。
 中国から一〇年間のレンタル契約で来タイした二頭のジャイアントパンダ。三歳オスのほうが「カムアイ」(タイ北部の方言で長男の意味)、二歳メスのほうが「カムウアイ」(同様に長女の意味)と命名された。一一月二〇日より一般公開されている。タイ中この「平和の大使」の話題で盛り上がっている、と思ったら、案外知らないタイ人もいたりした。とにかくその姿は愛くるしく、笹を一心に食べる様子は愛嬌があり可愛かった。










  二〇〇三年一二月二日(火)バリ 四一歳
 朝六時、ホテルをチェックアウト。ホテルが手配してくれたタクシーでドンムアン空港へ。六時半、タイ航空チェックイン。ところが機材延着のため、離陸が三時間遅れることを知らされショックを受ける。午前一一時半過ぎ、遅れてバンコクを離陸。バリ島へ向う。生まれて初めて赤道を越え、南半球入り。
 午後四時、バリ島着。空港建物から外に出た途端、むっとする湿気と暑さが身体を襲った。なんだ、これは?ミストサウナみたいだと感じた。あっというまに汗が身体全体から噴き出してきた。この湿気がバリの第一印象。






タクシーでレギャンビーチのホテルまでの道中の動画(左)レギャンビーチの夕焼け(右)






バリ島レギャンビーチ近くのホテル



ウブドのモンキーフォレスト(サルが多い)



ヒンズー寺院での祈り(許可を得て撮影しました)



キンタマー二高原




  二〇〇二年一二月三日(火)東京 四〇歳
 新橋汐留地区に建設中の日本テレビ放送網新社屋ビル(来年夏完成予定)。この写真を撮った新橋駅烏森口SL広場は一九五三年頃、力道山のプロレス中継で有名な街頭テレビの設置してあった場所である。当時一〇〇〇人以上の人間が集まるイベントは、彼らを煽動して破壊活動に及ぶ輩が出ることも憂慮され、なかなか許可が下りなかったが、警視庁OBの正力松太郎は当局に特別なコネがあり、街頭テレビの許可もなんなく取ったという伝説がある。大衆を熱狂させる天才興行師の名をほしいままにしていた。





DANCING IN FRONT OF THE CAMERA

明け方か夕方の光量の足りない時分、セルフタイマーのカメラの前で踊ってみた写真。


2001年、横浜市 みなとみらい21地区にて。バックはクィーンズスクエア横浜。


2002年、第三京浜国道都筑PAにて


激し〜くヘッドバンギングしています(フランシス・ベーコン風)


明け方の横浜市都筑区の緑をバックに・・・。





  二〇〇三年一一月一一日(月)曼谷 五一歳
 栗コーダーカルテットのライブを観に行きました。バンコク滞在わずか二日の間に二ヶ所でライブをし、翌日はミャンマーのヤンゴンに向うという超ハードスケジュールだそうです。ですが、そんなことは微塵も感じさせない、独特の脱力モードが楽しいライブでした。本当に癒されました。
 最初のイメージとしてはリコーダー四本で有名な曲をアレンジしていくだけのライブを想像していたのですが、それだけではなく、曲ごとに楽器をあれこれ持ち替え、アレンジも凝り、世界中の音楽を貪欲に吸収した上で再構成するという、バラエティーと実験精神に富み、かつ非常に高度なことをやっていることに感心しました。






たちまちファンになりました。オリジナル曲を聴いていると、パスカルズに似てる部分もあるかな、と感じました。
 コンサートはMCを担当する川口さんがちょっと話すと、舞台の端に座っているタイ人女性がタイ語に翻訳するというスタイルをとっていました。曲順と話す内容が大体決まっているからでしょうか、川口さんが1〜2センテンスしゃべると、それをそのタイ人女性は流暢に翻訳していました。が、曲情報の他に話す、ミクロなネタは訳しきれてない部分もあるな、と感じました。しかし、概ねタイ人のお客さんには伝わっているようでした。
 あと、ジャパンファウンデーション(国際交流基金)の後援だったので、タイの日本人社会のVIPのお歴々風の人がお客さんとして多く招かれていました。これは、「ピタゴラスイッチ」等、NHKにも多く出ていて、政府系、外務省系の団体に心象が良いから実現できたことなのかな、と邪推したりしました。
 会場の雰囲気は日本の政府系機関がタイのハイソー向けに発信している文化事業っぽいと、多分に感じたしだいです。
 映像記録係としてツアーに帯同していたニヒル牛マガジン金曜日担当()のデニス・イワノフさんも元気そうでした。八月に会ったばかりですが、最近はタイでよく会っているという印象があって、とても不思議な感じです。






(今週のおまけ)




先々月くらいか、日曜の夕方放送しているオーディション番組「The Voice」にて偶然耳にした日本語の曲。「君がいればそれでいい」。検索してみると、松崎しげるの1987年の曲(作詞 秋元康 作曲 見岳章)らしい。けっこうタイで話題になってるみたいです。それにしても歌っているトゥカター・ジャマーポンさん、可愛いですね。日本語の歌詞の発音は正直難はありますが、歌のあとの審査員とのやり取りは魅力いっぱいで、ぐいぐい惹きこまれてしまいました。未来のスター誕生かも、と思った瞬間でした。(参考リンク



[1年前の記事] [chapter 35] 迎賓館で火事! / メーホンソンでカレン族の村を訪ねる / ジャン=ピエール・ゴランがジガ・ヴェルトフ集団で作ろうとした映画 / 空想地下鉄路線 駒沢公園線 / 「大竹伸朗 全景 1955-2006 展覧会図録」/ 1981年8月15日の今井次郎ほか
2012.05.30 Wednesday

[chapter 9] バリはわれらのもの Bali nous appartient


rice terrace

「パリはわれらのもの」のパロディーで「バリはわれらのもの」というタイトルを思いついたので、バリの話から始めることにします。もはや「チャオプラヤ川左岸」からはるか遠くに離れてしまっていますが、お許しくださいませ。

『パリはわれらのもの』(仏語: Paris nous appartient)は、1958年(昭和33年)製作、1961年(昭和35年)公開、ジャック・リヴェット監督によるフランスの長編劇映画である。
本作は、ジャン=リュック・ゴダールの出資とプロデュースで短篇映画を監督し、クロード・シャブロルの出資とプロデュースで1956年(昭和31年)中篇映画『王手飛車取り』を発表したジャック・リヴェットの長篇映画デビュー作品である。シャブロルが『王手飛車取り』の製作時に設立した製作会社AJYMフィルムは、シャブロルの監督作『美しきセルジュ』、『いとこ同志』のヒットでの収入をつぎこみ、本作とエリック・ロメールの長篇デビュー作『獅子座』を製作した。前年の1957年(昭和32年)にフランソワ・トリュフォーが設立したレ・フィルム・デュ・キャロッスとの共同製作となった。

この頃のヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの親密ぶりはよいですね。ロメールの「獅子座」は、大金持ちの家に生まれた甲斐性なしのドラ息子の青年が、夏のバカンスのうちに無一文になって乞食まで落ちぶれるも、莫大な遺産が突然手に入って窮地を脱するといった馬鹿馬鹿しい内容でしたが、実際でもAJYMフィルム社は、確かシャブロルの肉親の遺産を資本金にして作った会社だったと記憶しています。

さて、わたしがバリを旅行したのは2003年12月。タイ旅行中に、ふと思いついてバリ行きの往復航空券を買い求め、行ってみたというしだいでした。バンコクからバリ島までは飛行時間は4時間くらいだったかな。そのとき、生まれて初めて赤道を越え、南半球入りしたのでした。

(旅日記よりばっすい)
…16時過ぎ、バリ島デンパサールのングラ・ライ国際空港に着陸した。この空港はバリ島の南部にあり、バドゥン半島のもっともくびれた位置にある。その陸地の幅いっぱいに滑走路が舗装されているのがまず不思議に思った。ここから南へはどうやって行くのだろう、空港でとおせんぼして行けないんじゃないかな、などと邪推したりした。本当はそんなことはないのだが。でも滑走路の両端は海しか見えなかった。

飛行機を下り到着ロビーに向かう。入国審査と税関はほとんど待たずにあっという間に通過できた。これは飛行機が遅れてピークタイムがずれたせいもあるだろう。3000バーツ(約9000円)だけ両替、初めてルピーとの対面と相成った。

建物から外に出た途端、むっとする湿気と暑さが身体を襲った。なんだ、これは?ミストサウナみたいだぞ。でもこの湿り気が肌にはいいんだろうな、保湿成分がね。あっというまに汗が身体全体から噴き出してきた。これがバリ島なんだ、と実感した。これがバリの第一印象。

空港は人気(ひとけ)がなく閑散としていた。旅行者はほとんどいないし、アジア特有な風景、つまり物売り、物請い、詐欺師、ペテン師、タクシードライバーなどがまとわりついてくることもなかった。これは意外だった。
いちばん手前にある観光案内所で、ホテルを予約した。ガイドブックであたりをつけておいたクタビーチのホテルは満員で、その隣のレギャンビーチでホテルを紹介してもらった。タクシーに乗ってホテルへ向かった。


バリ島の印象はこのミストサウナのような湿気と、ほのかに鼻腔をついてくるビャクダン(?)の香りとともにあります。なんていうんでしょう、心が鎮まっていくような、リラックスしていくような感じ。
レギャンビーチは西側に面していたのでサンセットが綺麗でしたが、クタの町は想像していた以上に夜は暗くて、一人歩きするには危険を感じるようなところもありました。物売りのしつこさはタイの海岸とは比較にならないほど酷かったです。また、島のあちこちで宗教的な儀礼をたくさん目にしました。それらを見て、西洋文明が世界にもたらした時間感と対極にあるものを感じました。流れている時間の速度だったり濃さだったり色だったり。こんなものが日常的空間にあるのだという驚き。多くの人がバリ島に惹かれるというのは容易に理解できるような気がしました。

以前、読んだ文化人類学者の青木保氏の「境界の時間」という著作に、バリ島に流れる時間について考察した箇所があるので、以前この本について私が書いたレビューをばっすいします。

タイで上座部仏教の僧侶の修行経験を持つ文化人類学者の青木保が、アジアにおける時間の質と量の関係について考察した書物。人間の時間に関する大まかな観念として≪直線的=前進的≫時間観と≪円環的=循環的≫時間観の二つをあげ、両者が入り混じりながら認識を適合していくという前提から、アジアの各所における時間観を分析していく。それは必ずしも「文明」と「未開」の二項対立に収斂するのではなくて、文明社会においても年中行事や祭祀の習慣があり、未開社会においても生物的時間は流れ去るということでもあり複雑に絡み合っている。時間体験の実際としてアジアを実際に旅行したら、という例が具体的でわかりやすい。量として時間が極限まで商品化された東京から始まり、次に飲茶の習慣をもち時間の商品化がストップする香港、質と量が半々の割合のバンコク、そして時間が非商品化されたコロンボまで舞台はスライド移動する。コロンボでは昼間のオフィスアワーがあり、夕方のギランパサ、夜のピリットという、全く異質の仏陀の時間が存在する。そこには境界の時間が顕在化しているというのだ。
最後にバリ島の人々の時間認識の紹介がされていてこれが興味深かった。バリでは陰陽暦と順列的な休祭日暦を併用するが、後者が圧倒的に重要である、と。儀礼を行う日を「時」「時期」と呼び、それ以外を「穴」と呼ぶ。時間は持続して蓄積されるわけでもなく、消費されるものでもない。質的な流れの中での認識はなく、質的な時間をただ尊ぶだけである。東京にいる時間となんと違うことだろう。






(旅日記のばっすい、つづき)
バリ島のなんとかいう滝。すいません名前を忘れました。写真の右側に見える緑色の鉄塔はバンジージャンプ台です。てっぺんからこの滝壷めがけて飛び降りるわけですな。それにしては観光客皆無、地元の人さえまったくいない寂しい場所でした。LONLELY PLANETに出ていたのでガイドのドライバーさんに頼んでウブドへ行った帰りに寄ってもらいました。
バリ島のことを思い返すと何が出てくるんだろう。まず日本人には一人も会わなかった。会って話したのはジモティーかオーストラリア人ばかり。夜のクタ・レギャンは暗くて怖かった。想像以上に俗化してなくて。ワイキキとまでは行かないがもちっと賑やかだと思っていたから。次回は日本軍の痕跡を訪ねてみたい。ジャワに駐屯していたという伯父はバリ島にも立ち寄ったのだろうか。あの独特なお香の匂い、着いた日には感じたけど2日目には鼻が慣れて何も感じなくなってしまっていた。あれは何?あとミストサウナみたいな湿気かな。
ウブドで見た工芸品、民芸雑貨は目移りしてしょうがなかった。いつもなら半日は店をまわって買い物するのだが、どつぼにはまってしまうことが直感したのであきらめたんだ。これは1日や2日でわかる代物ではない、と。一生はまってしまうような奥深い世界がある、と。今度はもうちょっと長期で滞在したいですね。


バリはこのとき以来訪れたことはないですが、またいつか旅したい島です。バンコクから4時間で行けるんだったらそれほど消耗もしないと思いますし。ふだん国内を10時間以上かけてバス旅行している身からしたら、飛行機の旅は快適すぎるでしょう。でも、たかが3〜4日滞在したからといって、その島の実態が掴めるはずがないし、何十回行ってもわかるとは思ってません。旅行者と生活者では同じ景色でも見え方が違うからです。
(この項、終わり)


ここでなんとなく見えてきた、このブログの指針について

わたしは正直なところ、長い文章は書けないと自分で認識しているので、まとまった考えを文章で表現するのは諦めているところがあります。なので、できるだけ隙間を埋めるために、また自分の世界を知ってもらうために、昔の日記や画像や動画など日常の切れ端をパッチワークのようにせっせと並べ、引用してきました。その継ぎはぎのあいまに、2012年現在、バンコクの「チャオプラヤ川左岸」にて感じていること、思っていることを挟み込んでいるという体裁になっているわけです。時間も空間もめちゃくちゃ飛躍しまくって分裂気質な内容です。

ある読者の方からメールをいただきました。あなたのブログは分裂してますね、と指摘されました。はい、確かに自分でも分裂していると思います。普通のバンコクの名所紹介のブログかと思ったら予想と違ったものだった、でもすーっと中に言葉が入ってきた、というようなことを書いていただき、とてもうれしかったです。

日常生活を送っている中で、浮かんでは消える思いつきの断片があり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、一時(ひととき)として同じところにいない、そういうものが自分にとってはとても気になるので、できるだけそういう「日々の泡」が消える前に書きとめて、ブログに反映させていきたいのです。そういう断片はバンコクであるとか東京であるとか、あんまり関係ないんですね。
なので、今後も思いついたこととそのプロセスを、そのままアップしていくのではないか、と。

でも、いずれにしてもこれだけは自信をもって言えるのは、このブログの筆者はタイに住んではいますが、タイのことだけをテーマに書くわけでもなく頭の中でイメージが広がるだけいろいろなことを書いていくでしょうし、このブログはタイを知るのにはまったく適してないブログだということです。また、観光ガイド的なブログを書くつもりは毛頭ないということも、お伝えしておきます。いろいろな意味を消滅させていきたいのです。(えらそうでごめんなさい)









*今週のおまけ(その1)

2008年11月23日、タイ北部のメーホンソン県を旅したとき、某寺院の境内にあった仏像が…。








なんか、石川浩司さんに似ていたんだよなぁ…。

個人的に、石川さんに山下清のあとにやってほしい役は、やっぱり乞食坊主かな。次郎長一家の法印大五郎がいいな。あと、成人してから諸国を巡礼している時代の一休宗純とか。あと、河内山宗俊みたいなヒール系ピカレスク系の悪徳坊主もいいかも。歌舞伎の「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」の法界坊なんかもよいな。石川さんって、のびかけた坊主頭が破戒僧のイメージがあるんですよ。(いくらブログだからって、好き勝手言いまくってすみませんw)





*今週のおまけ(その2)

1980年上半期のライブ観覧日記& more


1980年、17歳。高2から高3にかけての音楽関係の日記を書き出してみました。



1980年1月17日(木)

未明、ポール・マッカートニー大麻所持現行犯で逮捕。ショック!これで来日公演は全部キャンセルだろう。

夜、上馬ガソリンアレイにてストライク。客は女ばかり20人ほどで男は俺を含め2人だけだった。タマ(高木英一)のトーク独壇場。ポールの逮捕話をはじめ芸能界の裏情報満載で楽しかった。まるで松山千春やさだまさしのコンサートみたく、トークの比重が高く曲とトークが半々くらいの割合だった。ロックバンドなのに(笑)。そこが新しくて面白い。おまけに男の客が少ないので目立ったらしく、ステージの上からタマに話しかけられ、トークしたりした。
(メモ…近田春夫とハルヲフォンのべーシストの高木英一が結成した3ピースバンド。キャッチコピーが「青春歌謡お子様パンク」。3回ほど見ている。結局、エンケンこと遠藤賢司のバックバンドとしてテレビに数回出たくらいで、レコードデビューもせずに解散した。いまやほとんど誰の記憶にも残ってないだろう。)



1980年1月24日(木)

渋谷屋根裏でプラスティックス。整理番号63番だったが、最前列に座ることができた。そのおかげでチカのマイクスタンドをいっしょに直したり、中西と少しコミュニケートできたりしてうれしい。しかし練習不足でミスが目立った。ハジメちゃんが島武実のシールドコードにつまづいて転んで、シーケンサーのロードを消す(「恋の終列車」)というトラブルがあって演奏がストップしてしまった。そのときギターのチューニングも狂ってしまったんだけど、言ったセリフが笑える。

「うちは、プロがチューニングしてくれることになっていまして」 (会場爆笑)

つまり、楽器のチューニングは佐久間正英がやるというわけなのね。きゃー、すごい。四人囃子がチューニングやるんだよ!でも、そんなアマチュアバンドでも好きだから、許しちゃう!プラスティックスはライブバンドだ。レコードで聴くとあのダンサンブルなピコピコテクノビートは絶対、伝わらない。見るのに限るのでアル。


1980年1月27日(日)

渋谷屋根裏でシーナ&ロケッツを見た。


1980年1月28日(月)

夕方6時、NHK『600こちら情報部』でテクノポップ特集。プラスティックス、ヒカシュー、P−モデル出演。ヒカシューの巻上公一(Vo)の狂気は凄いなー。思わず吹いてしまった、夕げの茶の間をパニックに陥れただろう。最後番組のテーマをこの3組のバンドが演奏してフィナーレ。演出もなかなかであった。


1980年2月8日(金)

テクニクスギンザにて文化放送の公開録音。阿川泰子が出演。すごい美人。1953年生まれの28歳。年の差9歳か、なんとか対象にならないかなあ、とアホなことを考えていた。


1980年2月11日(月)

日中、代ゼミのマーク模試。建国記念日だからか右翼の街宣車の軍歌の大音響にうんざり。数学が難しかった。勉強不足を痛感。
夜、新宿ロフトでシーナ&ザ・ロケッツ。N彦が整理券をとってくれたので座って見ることができた。しかし1月27日の渋谷屋根裏に較べ熱気に欠けたせいかアンコールは1回のみ。でも古いロックンロールメドレーをあいだに入れ、最初と最後はオリジナルで締める構成はよかった。やっぱり
『I GOT YOU〜FEEL SO GOOD』がいちばん好きだ!去年の日比谷野音のJapan Rock Festivalで東京デビューを観たときからこの曲は印象に残っている。個人的にはJBよりも好きかな。



1980年4月1日(火)


渋谷屋根裏でシーナ&ザ・ロケッツ 3DAYS、1日目。屋根裏初のオール・スタンディング・ギグらしい。縦ゆれヘッドバンギングで2時間。浅田孟の目の前50cmのところで彼のピッキングを研究。やはりダウンアップだった。もりあがりすぎてしまいにはベースの1弦(1番太い弦)を切っちゃうほど。ベースの弦が切れるなんて初めて見たよ。
鮎川さんの名言集("Hot Line"を演奏する前の曲紹介のところで)「こないだロスに行ってきたけどほんなこつ、たいしたこたぁなかった。馬が車に代わったくらいで・・・」会場大ウケ。

(注・この頃、なぜかシーナ&ザ・ロケッツのライブを頻繁に観に行っていた。たいてい、1曲目にBATMAN THEMEを演奏して曲が終わる頃に、シーナ・ロケットが登場、2曲目は「Susie Q」を演奏することが多かった)


1980年4月13日(日)

朝10時フジテレビ「HOT TV」を観る。勝ちぬきバンド合戦、SKIN。POPな8ビートニューウエーブ、期待できる。ベースはダウンピッキング。マイルス・デイビスみたいに腰ぐらいの高さにスタンドマイク立てて、下を向いてシャウトするボーカルのタコ踊り。いいよぅ。曲のタイトルは『満足できない!』。

午後、歌舞伎町ACBに、無理心中、NOISE、S−KEN、突然段ボールを見に行く。
無理心中は全員女でジャンプスーツにサングラスのいでたち。演奏はまだまだ下手だけど、曲はとても面白い。「♪よだれを垂らして女を見つめる、よっぱらいはみんな死ね!」かっちょいい!!
NOISEは「音の壁」。フィル・スペクターが楽音のウォール・オブ・サウンドならば、このバンドは雑音のウォール・オブ・サウンドなのではないかっていうような。なんか、心がどよーんと重くなっていくのでした。男女2人組(男性は工藤冬里か?)。女性のレザーのミニスカートが目を惹いた。
S−KENは2回目だけど、東京ロッカーズ系のバンドの中では最高の洗練がある。ダブルキーボードの右側のほう、ディップで髪をツンツンにかためたパンクヘアの女の子はいつもプラスティックスのコンサートに来ている子じゃないか?(のちに、坂本みつわだと判明)左側のキーボードの女の人は、あと1年でおばさんになってしまいそうな中年増だけど、ルイーズ・ブルックスみたいなボブカットが可愛いんだよ。年増のボブってそそるねー。コルグのエレピの音が、エコーかけてスコーンとぬけてて気持ちいい。S−KENこと、田中唯士の着ているズートスーツは、救世軍で1000円で買ったものらしい、ってN彦が解説していたが、どうしてそんなこと知ってるんだ!!
そしてトリは突然段ボール。これぞ俺の求めていた音楽であった!冗談、ユーモア、おふざけ、ニヒリズム、奇をてらう、・・…それらすべてを内包しMIXしたような音像。ニューウエーブとビージー4の中間地帯を行くような。演奏の下手さは学ぶべきものがある。アマチュアでもコンセプトがかっこいければ、いいものができるんだ、と目からウロコ状態だった。これからも追っかけていきたい。


1980年4月28日(月)

ラフォーレ・ミュージアム原宿で、ロンドン、NYのニューウエーブのビデオクリップ集を昼から7時間くらいぶっとおしで見る。あまりに良いので途中S田に電話して呼び出すほどだった。島武実目撃。YMO(第1回目のLAライブ'79)、ブロンディー、ブームタウン・ラッツ、999(ストラップの長さサイコー)、ストラングラーズ、デッド・ボーイズ、ジョニー・サンダーズ、ニック・ロウ、エルビス・コステロ、イアン・デューリー、リーナ・ラヴィッチ、ニナ・ハーゲン、B−52's、スペシャルズ、クラッシュ、ザ・ポップ・グループ、…とにかく凄い!!今見たいバンドがすべて出ている。その中で今日の収穫が2つあって、その1つ目は、モデル・シチズンズ。多分、チープ・トリックのベースのやつがいたと思うんだけど、なにしろ、編成が変わっていてラテン・ビッグバンドっぽいんだよね。マリンバ叩きながら、女の子が歌うの、キューンとなったよ。新しもの好きのアンテナがピピピと動いた。もう1つは言うまでもなくスリッツ。これはもうただただ最高。どろどろ溶けて3人のグルーピーになりたいよ〜ん!もう凄いんだから。マイケル・アルバートとドン・レッツが制作していると思うんだけど、あの「CUT」のジャケットのまんま、泥だらけのトップレスのネイティブ・アフリカンみたいなスタイルで、ピカデリー・サーカスに登場しちゃうの。もう半裸なんてもんじゃないよ。で、次にそこで衆人環視の中、洋服を着替えたりする。と思ったら、レッドライトで、マリファナの匂いと煙りが目に痛そうな、レゲエディスコでダブで踊る3人、に場面が切り替わり。最後は真っ昼間のハイドパークでカラオケに合わせて楽器を弾き、口パクで踊りまくる。

これがもうサイッコーにばかカッコ良い!!!


1980年4月29日(火)

昼間、渋谷屋根裏でストライク。観客10人足らず。に加えてギターのトオルが5月に辞めるとの由。この発表をしても、観客はしらーっとしていた。タマ、リアクションの薄さにかわいそうだった。


1980年5月2日(金)

Mちゃんという高1の女の子と知り合う。ギタリストのOとつきあっているんだって。これはびっくり。


1980年5月3日(土)

昼間、六本木のスタジオ・マグネット(旧S−KENスタジオ)にて、コールド・ジャック、ショー・ダウン、三上理子、ヴィデオ・マニエラを見た。ヴィデオ・マニエラが面白い。シンセのリフがPOPで好き。


1980年5月4日(日)

銀座ローディープラザへ18日のコンサートの申しこみに行く。その帰り、日比谷公園をぷらぷらしていると、日比谷野音で「JAPAN ROCK FESTIVAL」がやっていて、音が会場の外まで聞こえてきたの。(その前年1979年は見に行った。シーナ&ザ・ロケッツの東京デビューを体験した)
なんとなく入り口付近を見ると、チケットも切りの人とか、一瞬、「す」になった感じがしたのね。俺達、目配せして、さささーっと、何食わぬ顔でゲートをただで通りすぎようとしたの。そしたら、K美以外、全員とっつかまってしまった。(まぬけー!!)ちょうど、そのときはK美の好きなパンタ&HALがやっていて、あの女は出てくるわけもなく、残った俺達は帰った。


1980年5月5日(月)

いっしょに見に行こうと誘われていたK、H(同級生)に「急に行けなくなった」とうそついて出しぬいて、渋谷屋根裏に子供ばんどを見に行く。Mちゃんを独占したかったから。このあいだの制服姿とは見違えるほど、大人びていた。とても15歳には見えない。楽屋で0とも初めて会ったが、カエルみたいに童顔で可愛かった。(今日のゲストギタリストだった)で、子供ばんど。結成500回記念ライブだって。すごすぎる!!3時間近く演った。音楽のタイプとしては、スレイドとか、ステータス・クォーとかのハード・ブギ−・ロックなんだろうな。日本じゃ珍しい。うじきつよしのコメディー・リリーフはますますはじけていて、良いな。そして、Mちゃんにめろめろなぼくがいます。  


1980年5月11日(日)

始発電車に乗ってスペシャルズのコンサートのチケットを買いに行く。

午後からフジテレビへ。


1980年5月12日(月)

急に大人びて、会うたびに成熟してゆく。それは植物の開花まぎわの恐るべき成熟の速度に似ている。夏川は外の娘の場合に未だ曽てこのような目覚しい妖艶な成熟をみたことがなかったのは、そういう世界に縁がなかったせいでもあるが。その未熟なころの肢体を知っているということが今では意外な遺恨を深めているようだった。夏川は時に、いささか迷ったものだ。金さえあれば、再び、と。
(坂口安吾『母の上京』より)

花を咲かせるためにいちばん大切なつぼみの時期に、ミツバチに存分に養分を吸い取られていく、みたいな。彼女が20歳になるころには、ケバイ、キャバスケとか、レディースとかみたく、ひからびて老け込むという危惧がある。ほっといたら成熟するのは当たり前だし、背伸びしながら年をとるのは流行りなのかもしれないけど、とっても痛ましい。


1980年5月13日(火)

学校の帰り、本屋で『GORO』(小学館)を立ち読み。「3年B組金八先生」にでていた、某女優のピンナップ&インタビュー。彼女は実はK美の同級生で以前会ったことがあるんだ。ちょっと悪ぶっている印象。

「ドラマみたいなこと、あったわよ。あたしの友だちでも赤ちゃんできたのいるし。その子は産みたいって言ったんだけど、結局カンパして堕ろした・…」「ディスコにも行ったことあるわ。ファーストキスも。でも、それ以上はやったことない・・…」


1980年5月24日(土)

大井町シブヤ楽器で一風堂コンサート。コンセプト、演奏力など、どれをとっても日本でトップクラスなんだけど、唯一ダメなのが、観客と一体化するグル−ヴ感に欠けたこと。土屋昌巳の限界なのかも。「スタンド・バイ・ミー」のチャイニーズ・レゲエ・ヴァージョンにしても客はついてこないし、だいいちむかついたのが、この曲を2回も演奏して、客に強要すんじゃねえ!てめえらが客をのせられないだけじゃねえか!未熟なんだよ!観客もドラムの藤井章司のドラム教室の生徒の内輪客ばかりで、居心地悪かった。(Sも当時、藤井からドラムを習っていた弟子の一人であった。)ただひとつ、見岳章の弾いていたローランドの安っぽい電子オルガンの音は良かった。エルビス・コステロ&アトラクションズを意識しているとみた。


1980年5月25日(日)

新宿イケベ楽器で「無理心中」(ガールズ・パンク・バンド)のオーディション。今回はドラムの募集ということで、Sについて行った。雑誌にメンバー募集が出ていて応募したのだ。
生音で初めて無理心中を聴いたが、楽曲の完成度が高いのでびっくりした。感心したのは、各楽器のVOLUMEをぎりぎりまでおさえ、各アンサンブルの基礎練習をくりかえし、みっちり行なっていたこと。『酔っ払い』を何回も演奏し、ドンカマ(ガイドの信号音)に合わせて、Sにドラムを叩かせて、オーディションした。ベースの子の運指、キーボードの子の簡単なリフの効果的使用、そして、ギター&ボーカルの子のnon effect cutting、どれもパンクというよりは、楽曲重視のニュー・ウエイブだった、リーナ・ラヴィッチみたいな。ギターの子は、近くにいた某ロック雑誌の編集の人に「『プヨプヨ』に勝てるかなあ」と言っていたのが印象的。ヒカシューをライバル視してるのかー。今日は大いに刺激を受けました。無理心中のファンになっちゃった。


1980年5月30日(金)

夜9時、TVK「ファイティング'80」のゲストはプラスティックス。ニューヨーク帰り、かの地で刺激を受けてまた成長した。「TOP SECRET MAN」なんて、以前からは想像できないくらい、飛び跳ねている。最高!またライブ観に行くぞ!!


1980年6月2日(月)

中間テストの帰り、渋谷屋根裏にCHACHA 82を見に行く。昼の部で客は10名足らず。ひとりだけでシンセサイザーとシーケンサーを操る、耽美派エレクトロニックノイズサウンド。初期のクラフトワークみたいで良かった。トランジスタラジオにトランスミッターからノイズを飛ばして曲を生成している試みが面白かった。今度ナイロン100%でハルメンズと共演するとか。観に行きたい。


1980年6月11日(水)

千石の三百人劇場にフリクションを見に行く。非常に衝撃を受ける。

(以下、次号につづ…かないかもしれない)



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