2015.12.05 Saturday
[chapter 192] パンティッププラザ/ Our Day Will Come/ BTSトレイン遅延/ ソフトクリームバニラ&ストロベリー&生足/ チェンマイリバーサイドカフェのネコ(動画)/ 肉の写真ほか
ああ美味しかったー
(今週のおまけ)
最近食べたもの(順不同)
ラープムーディップ(生豚肉ハーブ和え)
ビーフ・ストロガノフ
ミックス・グリル
ムゥガタ
なんか、肉ばっかやー。
ワインが美味しいでやんす
2013.09.28 Saturday
[chapter 79] エリジウム/ エノケンの法界坊/ 2001年9月下旬、アメリカ合衆国西海岸状況/ 評伝 黒澤明/ 白洲次郎/ 坂口安吾「日本文化私観」/ センセーブ運河水上バス船着場ほか
(近況)「第9地区」の監督、ニール・ブロムカンプの新作映画「エリジウム」を鑑賞しました。
2003年9月27日(土) バンコク 40歳
センセーブ運河のラチャテーウィ−船着場付近(水上バスのりば)
二〇〇七年九月二七日(木) 曼谷 四四歳
バンコクの焼肉屋でハンバーグランチ
バンコク旅行中。親戚が経営するバーンシーロムの焼肉屋さんにランチを食べにきました。日本に本店があってこちらは2号店。タイ人男性と結婚した娘さんがマネージャーで頑張っています。去年の一〇月以来約一年ぶりの来店です。ハンバーグランチをいただきました。アロイです。
(二〇一三年メモ)この時は翌年からのタイ語学留学に備え、いろいろタイ生活についての質問をしに親戚宅を訪ねたのでした。日記に出てくるタイ人男性というのは、タイの警察官僚の方で、留学先を決める時は身辺調査などしてくれて、とてもお世話になりました。支払う学費はけして安い金額ではないので、タイ語学校が信頼できるのか調べてもらったのです。そんなわけで、わたくし、実はタイに親戚が住んでいるのでした。
二〇〇一年九月二七日(木) 東京 三八歳
アメリカ西海岸状況
ライターの友人がアメリカ取材旅行から帰ってきた。九一一テロ事件の後遺症はいまだ凄いとのこと。まず国内線の飛行機はほとんど止まったままだそうだ。移動は汽車かバス。西海岸から中西部への移動は飛行機だと数時間で着いていたのが、陸路で一昼夜かかると!百年くらい昔に戻ったみたいだって。それから空港に隣接した駐車場のビルが閉鎖されていて、利用客は5キロくらい離れたところに車を置いて、そこからシャトルバスで空港に行くしかないらしく、通常2時間前チェックインのところ、それではもう間に合わないので4時間くらい前に空港に行くとか。警備が厳重でシャトルバスも空港構内になかなか入れないから。軍用車輌も多く見かけたそうだ。原発や軍事基地やハイウェイのまわりは常に軍用ヘリがテロの警戒のため飛んでいるらしい。これはマジ戦時下っちゅう感じだな。そんなアメリカ。二〇〇一年九月下旬の姿。
二〇〇八年九月二七日(土) チェンマイ 四五歳
(読書メモ)「白洲次郎 占領を背負った男」
少し前に「白洲次郎 占領を背負った男」(北康利)を読み終えた。読み物としては面白かったが、だからといって白洲次郎を礼賛したり、この書物を人に薦めようという気にはならなかった。毀誉褒貶の激しい人物であり、一方向からの人物描写ではその人物は平面的にしか見えない。立体的に見るには反対側からの視点も必要だが、それが本書にはまったく欠落している。白洲を評価する立ち位置からのみ書かれているので、読みながら何かしらの胡散臭さを感じずにはいられなかったのである。元読売新聞政治部記者の戸川猪佐武(とがわ・いさむ)の「小説・吉田学校」には、白洲次郎は実名では登場せず、黒須某という名前でまったく役割を与えられず傍系の端役で扱われているのだが、戸川が書いた吉田茂から連なる戦後政治史にはまったく黙殺されていることから見ても、白洲次郎そのものの光と影にもっと肉迫する作品が読みたかった。
本書を読んで初めて知ったのは、白洲次郎が国際文化会館の創設に寄与していたということ。国際文化会館は東京都港区六本木にある宿泊施設を備えた日本人と外国人の国際交流を目的とした財団法人である。実は、私は大学3年生の時ここのコーヒーハウスでウェイターのアルバイトをしていたことがあった。庭には八重桜の木が植えられてけっこう良いロケーションであった。田中康夫も一時期、ここの図書室で執筆活動をしていたと「東京ぺログリ日記」に記されていた。同じ桜を白洲もヤッシーも見ていたのかと思うと、ある感慨を禁じえなかった。
(参考リンク)最新日本政財界地図(8)国際文化会館人脈と白州次郎(*)
二〇〇五年九月二七日(火) 東京 四二歳
(読書メモ)『評伝 黒澤明』堀川弘通
『生きる』『七人の侍』など世界映画史上に残る黒澤作品に助監督として参加し、名作の製作現場に立ち会った堀川弘通(のちに映画監督)による黒澤評伝。堀川は一九一六年生まれ、黒澤の七歳年下にあたる。一九四〇年にPCL(のちの東宝撮影所)に入社した。
映画評論家やジャーナリストなどがクロニクルに作品を論じるのとは異なり、製作現場で助監督で仕えた監督として、あるいは監督に昇進してからは映画人仲間として見た、黒澤の実像をあますとこなく活写している。現場の仕事仲間から出た言葉というものはとても重厚で説得力のあるものだと思った。ただ礼賛するだけではなく時に黒澤明の限界も述べているあたり、一段高いところから全体を俯瞰する客観性を感じ、感心した。
黒澤ファンでなくとも日本映画ファンであるならば、これほど面白い読み物はないだろう。特に巷に数ある「黒澤本」では近づけなかった、黒澤明の本当に作りたかった映画への理想と、現実のギャップが痛いほどよくわかった。日本の高度経済成長とも、けして無関係ではない、商業映画を配給する映画会社で「作家」の映画を作りつづけるということの困難と残酷がここには記録されている。黒澤プロダクション設立以降の『赤ひげ』〜『暴走機関車』頓挫〜 『トラ!トラ!トラ!』解任〜自殺未遂までのプロセスはあまりに切なく残酷な記録である。
以前より自分が知りたいと思っていた黒澤の極私的な事柄についても、堀川は推論と匿名でぼかしながらも、あれこれ紹介してくれた。ここに詳述できないので箇条書きにとどめるが
●黒澤の自伝『蝦蟇の油』に書かれなかった兄の死の真相
●黒澤が兵役を免除された真相はやはり思ったとおりだった。
●高峰秀子とのロマンスと破局についての真相(これはほかの人が書いているのと変わらなかった)
●矢口陽子への求婚を横恋慕した人がだれだったか、また少し真相に近づいた
●東宝争議において「十人の会」のできた経緯と詳細について
●『羅生門』のチーフ助監督、加藤泰の解雇の真相(堀川の解釈)
●『素晴らしき日曜日』主演の沼崎勲が大根役者すぎて、演出設計を変更
●永田雅一、城戸四郎など、当時の映画会社のトップに対する印象
●問題人物、プロデューサー本木荘二郎についての件り(いかに黒澤に資金を調達し、いかに黒澤から排除されていったか)
1982年9月27日(月) 東京 19歳
(2013年メモ) 昔の日記帳をコピーしました。今から31年前、大学1年生の時の日記です。9月28日(火)は、京橋のフィルムセンターで「エノケンの法界坊」を観た、とあります。おぼろげながら記憶に残っています。でも、本多勝一なんか読んでいたんだな、当時。ちょっと恥ずかしい過去かも知らん。
二〇一三年九月二八日(土) 曼谷 五〇歳
坂口安吾「日本文化私観」(*)より
講談を読むと、我々の祖先は甚だ復讐心が強く、乞食となり、草の根を分けて仇を探し廻っている。そのサムライが終ってからまだ七八十年しか経たないのに、これはもう、我々にとっては夢の中の物語である。今日の日本人は、凡(およそ)、あらゆる国民の中で、恐らく最も憎悪心の尠(すくな)い国民の中の一つである。僕がまだ学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった。コット先生は菜食主義者だから、たった一人献立が別で、オートミルのようなものばかり食っている。僕は相手がなくて退屈だから、先生の食欲ばかり専ら観察していたが、猛烈な速力で、一度匙をとりあげると口と皿の間を快速力で往復させ食べ終るまで下へ置かず、僕が肉を一きれ食ううちに、オートミルを一皿すすり込んでしまう。先生が胃弱になるのは尤(もっと)もだと思った。テーブルスピーチが始った。コット先生が立上った。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、丁度その日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラムを学生に教え、又、自ら好んで誦(よ)む。だから先生が人の死に就(つい)て思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談だと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談ではないこと
がハッキリ分ったのである。あんまり思いもよらないことだったので、僕は呆気あっけにとられ、思わず、笑いだしてしまった。――その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺しても尚あきたりぬ血に飢えた憎悪を凝らして、僕を睨んだのだ。
このような眼は日本人には無いのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人には無いのである。『三国志』に於ける憎悪、『チャタレイ夫人の恋人』に於ける憎悪、血に飢え、八ツ裂ざきにしても尚あき足りぬという憎しみは日本人には殆んどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。凡(およそ)仇討にふさわしくない自分達であることを、恐らく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかく、せいぜい「食いつきそうな」眼付ぐらいが限界なのである。(一九四二年)
安吾がこれを書いたのが一九四二年で、この学生時代のエピソードは一九二六、七年頃だと思われるから、それから既に一六、七年経っているわけで、コット先生の「殺しても尚あきたらぬ血に飢えた憎悪を凝らし」た睨みを覚えていること自体、安吾特有のしつこさというか、凄みを感じるのであるが。また、それは大勢(たいせい)に流され、自分の意見を述べずに周りに合わせて安寧(あんねい)を図る、日本人特有の事なかれ主義とは正反対の、真理を探究する自立した人間の姿でもあると思う。私も安吾の姿勢を見習って生きて行きたい。故に彼奴を「長年月にわたって徹底的に憎み通」す。