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2014.02.15 Saturday

[chapter 99] モンマルトルの丘の階段/ 早朝のサクレ・クール寺院/ チェンマイ空港にてモダンガールと邂逅/ ラオス・ビエンチャンでタイの観光ビザ申請/ ミャンマーに小旅行/ Let's Go Away For A While ほか



2007年2月16日(金) パリ 44歳

モンマルトルの丘の階段

サクレ・クール寺院のまわりを散策してみた。フランソワ・トリュフォーの最初の長編映画「大人は判ってくれない」に、傾斜地の階段からパリ全景を見渡すショットがあったような記憶がある。もしかしたら同じ階段を見ていたのかもしれない。
映画が撮影されてから約半世紀。ドワネル少年はこの地から世界へ疾走して(逃走して)行ったと思うと感慨深いものがあった。トリュフォーのお墓のあるモンマルトル墓地にもいつか行ってみたい。


2007年2月16日(金) パリ 44歳

早朝のサクレ・クール寺院



2008年2月16日(金) チェンマイ〜バンコク 45歳

チェンマイ空港にてモダンガールと邂逅

あっというまにチェンマイ最終日。午後2時40分発のTG便でバンコクへ移動。

チェンマイを去る際に起きた出来事。わたしと入れ違いにチェンマイ入りすることになっていたKさん(女性)。わたしはそれまでお会いしたことはなかったが、以前ホルモン鉄道のライブでひときわ目立つお客さんとして颯爽と登場したのを目撃したことはあった。石川浩司さんのお話によると、Kさんは大正時代の研究をしていて、服飾からライフスタイルから何まで、自らモダンガール的生活を実践している女性とのことだった。11時45分に空港に到着予定だったので12時半ころにはホテルに現れるかと思い、ロビーで待っていたのだが待てど暮らせど姿が見えない。
そのうちにわたしの出発時間が来たので、石川さんはじめ皆さんとお別れしてチェンマイ空港に向かった。
空港に着くと、もしかしたら到着ロビーにKさんがいるのではないかと思いロビーを移動すると、遠くに、ひときわ目立つ洋装&断髪のモダンガールの後姿を見つけたのであった。Kさんは公衆電話でどこかへお電話をかけようとしているところであった。受話器を置いたKさんに話しかけてみた。すると、これからチェックインしようとしているゲストハウスの情報を記した紙を日本に忘れてしまい、困っているとのことだった。わたしはゲストハウスの名前や電話番号等記した紙片をKさんに渡し、タクシー乗り場でKさんを見送った。

不思議な出会いでありました。
2010年2月16日(金) ビエンチャン 47歳

ラオス・ビエンチャンでタイの観光ビザ申請

前日夜8時チェンマイ発の夜行バスに乗り、ウドンターニーへ。朝6時半到着。
朝8時、ウドンターニーから国際運行バスに乗り、ラオスのビエンチャンへ。
到着したのは午前10時ちょうど。国境での出国/入国審査もそれほど手こずらなかったのでウドンからビエンチャンまで約2時間の行程であった。

今回はタイ王国の観光ビザ取りのための短期旅行である。
前回日本で取得した観光ビザが2月27日に失効するので3月以降の滞在を保障するビザを取りにきたというわけである。

タイ大使館のビザ発行所は2008年とは場所が変わっていた。バスターミナルから歩ける距離なので、以前よりかは多少便利になったのではないだろうか。

大使館は思ったよりかはビザ申請する外国人は多くはなかった。それでも10時すぎに到着して1時間半ほど待って、ビザを申請した。

発給は明日の午後1時。それまでビエンチャンに1日滞在する。


バスターミナルで寝るおっさん


ゲストハウス近くの中国寺院


日本から払い下げられたマイクロバスが路線バスとして活躍していた。


メコン川にかかるタイラオス友好橋を渡るバス
2009年2月16日(月) メーサイ 46歳

ミャンマーに小旅行

チェンマイに遊びに来ている友人達と1泊2日でタイ最北端の町メーサイに行ってきました。
でもって、歩いて国境を越えてミャンマーのタチレクに日帰りで入国し散歩しました。


宿泊したメーサイのゲストハウス


ゲストハウスからの眺め。対岸はもうミャンマー。子供が無邪気に遊んでいました。


入国したとたんにミャンマー語のタイポグラフィーの洪水。目がくらくらして酔いました。

朝冷え込んだので女性からジャージの上っ張りを借りる石川さん


ゲストハウスの近くを散歩


便器を売っている店の前で


お寺の門


ツーカーセルラー東京のマイクロバス。第2の人生を歩んでいました。


ガソリンが売られていました


国境橋にて記念撮影


(参考資料)
 石川浩司のひとりでアッハッハー「王様の耳はロボの耳」 話題33(2)おすすめの外国より
タイで生活するようになってから、陸路で国境を越える機会が増えました。まわりが海に囲まれている日本では、国外に出るには大半は飛行機を使うことになりますが、タイでは国境は地続きなので、意志があれば、歩いてでも国境を越えることができます。これがなんとも不思議な体験です。国が変わると、言葉や文化ががらっと変わってしまうからです。15分前までいた1km向こうの場所と今いる場所は、違う国であり、違う法律が適用され、時には時差があったりもする。これは日本では感覚できない非日常体験です。
国境に接する町は、一種独特の雰囲気があります。隣り合った2つの国の物や人が集まるわけですから、当然価値観もぐちゃぐちゃに混ざり合うゆえ、秩序は混乱しカオス状態になっています。輸出入の禁止されている物資の流入・流出を水際で食い止めようと両国は警備をしているし、何か問題があると、国境は閉鎖されることさえままあります。そこにいると、いやおうなしに国際政治や経済の現実に直面せざるを得ません。
そして、そこにいる人間は、これが一癖も二癖もあるような、怪しい輩が多いんです。事件の当事者にならなければ、そういう人間をウォッチングするのも面白いですが、言葉がおぼつかない日本人観光客はウォッチングする前に、カモにされてしまうかもしれないですね。
タイに接している国は、ラオス、ミャンマー、カンボジア、マレーシアの4カ国あり、いずれも陸路での国境越えは可能です。
そんな「おすすめの外国」、《タイで陸路国境越え》を今回は紹介しました。  12/6/25(波照間エロマンガ島)

タイからミャンマーに渡った時、それを痛感したね。
タイではコインランドリーで洗濯してるのに、川を隔てたミャンマーではその川で洗濯してる。
おとぎ話のようだったなー。 12/6/25(石川浩司)

http://ukyup.sr44.info/o33-2.html




(今週のおまけ)

「ペット・サウンズ」の中で最も「夢」の世界に近いと感じる曲。夢にはBGMはないようだが、
もしもあるとするならこんな曲かもしれないと思いながらいつも聴いている。

ネットでひろったブライアン・ウィルソン自身のこの曲についての評価。

“I think that the track Let's Go Away For Awhile is the most satisfying piece of music I have ever made. I applied a certain set of dynamics through the arrangement and the mixing and got a full musical extension of what I'd planned during the earliest stages of the theme. The total effect is ... ‘let's go away for awhile,' which is something everyone in the world must have said at some time or another. Most of us don't go away, but it's still a nice thought. The track was supposed to be the backing for a vocal, but I decided to leave it alone. It stands up well alone.”



[1年前の記事]
(chapter 46) パヤオ小旅行の想い出と、それが今回のミッキー発見に展開するまでの、かなりどうでもいい話
2012.07.25 Wednesday

[chapter 17] フランス旅行記(後編)〜モン・サン=ミシェル、ルーブル美術館、パリでパスカルズのコンサートほか

前編はこちら


2006年7月18日(火)

(DAY4-1) U^ェ^U (mixi-mobile)


モンパルナス駅にて。このお嬢さんは犬を連れて旅行すると思しい。こちらでは当たり前の光景みたいだ。



(DAY4-2) モン・サン=ミシェル (mixi-mobile)


というわけで世界遺産のモン・サン=ミシェルに来ています。

(mixiのコメント欄より)
・ごぶさたです。おー、う・ら・や・ま・し・い!!!!

・ごぶさたしてます。ええええええーーーーっ!! お天気も良さそうでよかったですね。暑いのかしら!?

・おお、3月に俺も行きました。そこからバスで2時間くらいの所にあるサンマロもなかなかいいです。ちなみにどこから書き込みました?? なかなか日本語使えるネット環境なくないですか?

・塩羊!塩羊!!

・うらやましい! ここんとこ、モン・サン・ミッシェルが出てくるテレビによく巡り会っていたので、心底うらやましーい!です。楽しんできてください!

・おお!ジャストシーズンですねえ。レンヌからバスでしょうか?僕も以前いったことあります! ルレサンミッシェルというホテルで、オムレツくいました。いまいちだったかなあ。羊の肉のほうが、うまいらしいですよ。塩分まじりの草を食べるので、塩味が効いてるとか・・

・あ〜、ここは行きたい! いつか行きたい! 引き続き、よい旅を♪




(DAY4-3) モン・サン=ミシェル写真

*画像をクリックすると拡大表示します。
2006/07/18 パリ―レンヌ(TGV)―モン・サン=ミシェル(バス)―レンヌ(TGV)―パリ

TGV
=メカ
ゴジラ
トニ
カク
暑カ
ッタ
日帰
りで
パリ
戻る



一生のうち一度は行ってみたいところに思いつきのノリで行ってしまったのであった。(当初は行く予定もなかった)6年後にこうやって他人様(ひとさま)に公開して話のネタになっているのだから、まぁ、行ってよかったと言えるとは思う。



(NIGHT4-1) 赤い風車 (mixi-mobile)


パリに戻ってきました。
モンマルトルに繰り出しています。ムーランルージュのショーは以前見たことがあります。あんまりたいしたことなかった記憶があります。バンコクのオカマショーの方がまだ良かったかも。。

(mixiのコメント欄より)
・あぁそうだ、今度はフランスに行こう☆




2006年7月19日(水)

(DAY5-1) パリで山本圭一の淫行事件を知る

フランス3日目

朝7時半過ぎ目が覚める。
携帯のメールチェックをすると、友人のお父様が亡くなったというメールが目に飛び込んできてびっくりする。22日に彼のマンションで行なわれる恒例のサマーパーティーも中止との由。その日は成田からの帰りお土産をもって登場するつもりであったのだが、彼の奥さんがそのことを知っていて私に第一報をしてくれたのであった。すぐさまお悔やみの意を添えた返信メールを打った。



ホテル前景(JARDINS DE PARIS ALESIA)


8時半過ぎ部屋を出る。
ホテルを出てプレザンス駅へ。13号線で昨夜行ったプレイス・ド・クリッシィで乗り換えてディマンシュ駅へ。ムーランルージュ界隈を再びほっつき歩く。こういう岡場所は気の済むまで歩き倒すのが、私が日ごろから心がけている旅のモットーである。するとインターネット屋を発見した。2時間近くネットをする。フランスに来てからモバイルしかできなかったので、食い入るようにmixiと日本語ポータルサイトを熟読する。すると極楽とんぼの山本圭一が淫行で吉本を馘首された報に接し、驚く。なんて愚かな奴なんだろう!相方の加藤はどうなる?しかし10年前同様の事件を起こした板尾創路が謹慎で済んで、山本がクビというのは、吉本の処分の基準に解せないものがある。ケースが違うのだろうか。
とにもかくにもこれからの成り行きに注目である。


それからまたメトロに乗りOPERAへ。オペラ座近くのHISに行き、1日市内観光ツアーとかカルト・ミュゼ・モニュマン(美術館の割引周遊チケット)とかについて尋ねる。が、どれも高いので結局何も買わずに外に出る。教えてもらったFNAC(フナック)という大手CDショップに向かう。サンラザール駅の駅前だというが、近いのでメトロに乗らずに歩いていくことにする。


プレイス・ド・クリッシィ駅。


昼間のムーランルージュ前。


FNAC:フランスの大手CDショップ。



すると、突然尿意をもよおしてきた。
だが、トイレがなかなか見つからない。
突然の大ピンチに窮地に立つ波照間なのであった。



(DAY5-2) でもって、またまた便器画像 (mixi-mobile)



パリを歩いていると、本当に困るのがトイレ。公共スペースにはほとんど見当たらない。これはオペラ座近くの三越のトイレ。なんとか間に合いました。しかしご不浄の話題ばかりですみません(汗)。


(mixiのコメント欄より)
・パリのトイレって足のながいヒト用ですよね…T△T

・トイレが有料とか、地下鉄はスリだらけとか聞きますねー

・(RES)とりあえずスリには遭いませんでした。おそらくローマのほうが数は多いと思います。ローマでは子供のスリ団に取り囲まれ、ポケットをまさぐられる恐怖体験を味わいました。





1673年8月、三井高利が江戸本町に呉服店「越後屋」を創業する。



(DAY5-3) ルーブル美術館 (mixi-mobile)



ここもお約束の場所ですね。サモトラケのニケから先の階上部分が、撮影禁止なのは相変わらずでした。
DA VINCI CODE のテープツアーはマアマアでした。関連作品のタイトル脇に番号があってそれを打ち込むと解説してくれるのです。なぜか「岩窟の聖母」の解説がないのは解せませんでしたが。






(mixiのコメント欄より)
・(編集者のA氏)>DA VINCI CODE のテープツアー、フランス在住の日本人からは「その種のツアーの参加者はアメリカ人が多く、フランス人は少し白い目で見ている」という話を聞きましたが、アメリカ人ばかりでもなかったですか。あと、テープは日本語もありました?

・(友人のB女史)ルーブル、金払って入ったこと無い・・・

・(友人のC女史)ルーブル、なつかすぃー☆ 広くて全然みきれなかった。また行きたいなあ。

・(A氏へのRES)日本語ありましたよ。気のせいかヘッドセットをしている人は少ない気がしました。いかにもアメリカ人ふうの団体さんもスルーしてました。「ダ・ヴィンチ・コード」あまり人気ないのかな。

・(B女史へのRES)なんかチェック甘かったです。これはダータで入れると思いましたよ!

・(B女史)あ、いや、月の第一日曜タダなのと、学生カードの閉館後タダつーのでかなり行きました。チェック緩いし抜け道も一杯ありそうだけどwww



(DAY5-4) 極限状態について考えること〜テオドール・ジェリコー『メデュース号の筏』を観て

今(2006年8月27日午前1時30分過ぎ)、下記の日記を書いていた。先月行ったタイ・フランスの旅日記のルーブル美術館見学のくだりである。



[tableau] テオドール・ジェリコー『メデュース号の筏』(1824年 ルーブル美術館所蔵)



ルーブル美術館では「ダ・ヴィンチ・コード・ツアー」というヘッドフォン音声サービスのサポートを得て作品を鑑賞したが、これが思いのほか面白くてよかった。
限られた時間で、巨大なギャラリースペースの中の全ての作品を鑑賞することは不可能なので、あらかじめガイドにしたがって歴史的視点を踏まえて見学するのが頭に入りやすく、知識欲を満足させたのである。
その中、今回もっとも印象に残ったタブローが、ヴェロネーゼの『カナの婚礼』(1528〜1563年)、ジャック=ルイ・ダヴィッドの『皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』(1806〜07年)、そしてテオドール・ジェリコーの『メデュース号の筏』(1824年)だった。

ジェリコーの『メデュース号の筏』は、画集などで以前なんとなく見た程度の記憶しかなかったが、実際実物を目の前にして、作品の成立した背景を日本語のガイドを通して鑑賞すると・・・・・・

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と、ここまで書きかけた。

ちょっと疲れたので、気分転換にニュースのページを見てみると、以下のニュースに出くわした。

太平洋を漂流9か月!?メキシコの漁師3人が帰国

【リオデジャネイロ支局】昨年10月末にメキシコ中部のサンブラスを出港した後、燃料切れで漂流を続けていた漁船が8月中旬、約8000キロ離れた南太平洋のマーシャル諸島で救助され、生き延びた漁師3人が25日、帰国した。

AP通信などによると、全長8メートルの漁船には漁師5人が乗り込み、数日の予定でサメ漁に出たが、燃料切れで漂流。3人は魚や海鳥を捕らえて食べ、雨水や尿を飲んで餓えと渇きをしのいだが、2人は生の食べ物を拒んで1〜2月に餓死したという。

台湾のマグロ漁船に救出された。


サンブラス出身のルシオ・レンドンさん(28)は、町を挙げての出迎えに、「岸に戻り着く信念があったから帰って来られた。もう一度海に出たい」と語った。3人の帰還は、メキシコ国内でも大々的に報道されているが、出航目的が薬物の密輸だった疑いも浮上し、当局が調査中。「仲間の遺体を食べたのでは」との憶測も呼んでいるが、3人は強く否定している。

(2006年8月27日0時4分 読売新聞)



シンクロニシティーを感じた!!

ジェリコーの『メデュース号の筏(いかだ)』は、1816年に起きたフランスのメデュース号の海難事故という実際の事件に材をとった作品である。セネガル沖で座礁した船から脱出するにあたり、わずかな救命ボートに乗りきれなかった149名の乗客が、船の端材を集めて作られた筏に乗る。しかしおりからの悪天候のため、救命ボートに引っ張られていた筏はロープを断ち切られ、わずかな食料と水しか与えられぬまま、自力で陸地を目指さなければならない事態に陥る。その12日後、漂流しているところ発見された筏にはわずか15名の生存者しかいなかった・・・・・・。
この事件は以下の点からフランスで大スキャンダルとなる。
政治的なコネを使ってその職に就いたものの全くの無能力だった船長が、責任を放棄してまっ先に救命ボートで逃げてしまい助かったこと。
筏の漂流中に乗客たちは食料を奪い合って殺し合ったが、食料が尽きたときには同胞を殺してその人肉まで食らったというスキャンダラスな噂も絶えなかったこと。
ジェリコーはジャーナリスティックな視点からこの作品を描いたとされている。だがしかしこの作品はフランスでは不評で、ジェリコーの生きている間は本国では日の目を見なかった。
作品は漂流している筏のはるかかなたに大型船の船影を認めた瞬間の、筏の上にいる人間達のさまざまな状態を描いている。死んでいる息子の亡骸を抱いて呆然とする父、転がっている遺体、船に向かって懸命に手を振る者、さまざまな群像をとらえている。激しい波の上に平行を保たず斜めにぐらついている筏と背景の海、空、光線の陰影、構図、・・・それらすべてが、人間が本能的生物から理性を取り戻すこの瞬間の希望と絶望を表現しているように見える。この絵を観て人間が極限状態で行なってしまう狂気の存在には心底恐怖した。しかしそれは他人事ではなかった。自分の身にも起こりうることだと思った。そのとき自分だったらどうするだろう。。。

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根拠はありませんが、このメキシコ人の漁師たちは、生き延びるために仲間の遺体も食べたのではないか、と思います。
しかし9ヶ月も漂流するとはにわかには信じがたいのですが。。。




2006年7月20日(木)

(DAY6-1) BUKKAKE @ CHINATOWN, PARIS

パリ4日目

深夜ホテルの冷房が切られてしまい、とてつもなく寝苦しい夜を通過しほとんど眠れなかったが、明け方うとうとしてしまい、朝8時過ぎ目が覚める。すぐに昨日の行動をメモ帳にさーっと走り書きする。シャワーを浴び、支度をして、9時15分出発。
ホテルを出てアレジア通り(Rue de Alisia)を東に歩く。5分くらいのところにあるクレープ屋さんでバナナとミネラルウォーターを買い、店の前のベンチでプロテインシェイクドリンクを作り、飲む。タブレットで栄養補給もする。日差しが爽やかで気持ちいい。でも今日も暑くなりそうだ。




食事を終えるとまた歩き始めた。
しばらく行くとアレジア駅の広場。いつもはここからメトロに乗るのだが、今日はある目的があって、広場を突っ切ってさらに東に歩いていった。15分ほど歩くとインターネットカフェを発見。休憩がてら中に入る。ミクシィチェック、ホットメールのチェックをする。勘定するときに店の主人に道を尋ねる。

今日のパスカルズのコンサート会場である
PARC de CHOISYの場所を訊いたのであった。

すると主人は、すぐそこのバス停から62番のバスに乗れ、と言う。「歩けないか?」と訊くと、「無理無理。遠いからバスに乗ったほうがいい」と言われたので、バスに乗ることにした。62番のバスはすぐにやってきた。



62番系統のバス。パリのバス初体験でした!

バスはかなり混雑していた。フランス語のヒヤリングはほとんど駄目なので、地図を頭に入れ、適当なところで下車する作戦に出た。たくさんの人が降車するバス停があったので、この辺だろうと思い、バスを降りると、ちょうど目的地のTOLBIACの駅のところだった。公園は駅のすぐ近くなのだ。

というわけで、勘を頼りに、なんとか公園にたどり着いた。
コンサートは夕方からなので、場所の下見というわけである。








ところが、公園に着いたはいいが、中を歩いてみても、野外音楽堂はおろか、広場には音響機材もクルーの人影も皆無で、およそコンサートをやるような雰囲気ではなかった。あと8時間後くらいにコンサートがやるとは到底思えなかった。非常に不安な気持ちになった。
しかし持ち前ののん気さから、まぁなんとかなるだろう、また夕方来ればいいや、と高をくくり、その場を後にしたのではあったが。



TOLVIACはチャイナタウンで、中華料理屋がたくさんあった。


これはポルノ映画館。


BUKKAKEという文字に思わず反応してしまったよwww



(DAY6-2) ポンピドゥーセンター前 (mixi-mobile)



マイタイを飲んで酔っ払うの図。
4日目にして初めて雨が降ってきた。
ポンピドゥーセンターというと、私たちの世代だと、ストラングラーズのベースのジャン・ジャック・バーネルのソロアルバムのジャケ写を思い出します。

(mixiのコメント欄より)
・(高校時代からの悪友A氏)ジャン・ジャック・バーネルのソロアルバムのジャケ写も音も鮮烈だったな〜



(DAY6-3) Les Pascals@ Parc de Choisy (mixi-mobile)



そんなわけで、始まりましたよー

(mixiのコメント欄より)
・(ロンドン在住のN女史)ついでにロンドンもお越しになって★



わたしがパスカルズを初めて観たのは2005年5月、藤沢の遊行寺で行なわれた「遊行寺春の音祭り どんとこい」という野外ロックイベントででした。このイベントは2000年にハワイで客死したどんとさんを偲び、彼をリスペクトする友人のミュージシャンらが集まり毎年行なわれるイベントで、パスカルズも毎年出演していますね。
特に熱心なたまファンでなかったわたしはそこで生まれて初めてパスカルズの音楽、動く石川さん、動く知久さんに接したのですが、とにかく衝撃を受けました。世の中にこんなに気持ちのいい音楽があるのかというのが第一印象でした。特に野外で聴くとこのアンサンブルはたまらなく幸せな気分になれるなぁ、と思いました。そしてその中で、特に石川さんはムードメーカーの部分を担っているというか、会場じゅうを走りまくり、狂気の踊りを踊り、おもちゃの楽器をかき鳴らし、パスカルズの音楽の中で子どものように遊んでいました。
そこでパスカルズに一目ぼれしたわたしは、国内ライブが行くと観にいくようになりました。そしてその1年後の2006年7月、ぐうぜんフランス旅行中にパリの公園でまたまたパスカルズの野外ライブを観る機会に恵まれました。そのときも幸せの大きなシャボン玉の中にただただぽわーんと漂っているような夢心地の中で時間を共有できました。なんて気持ちがいいのだろう、なんて素晴らしいバンドなのだろう、とひたすら独り言のように反芻して宿に戻りました。
今は外国に住んでいてなかなか観に行く機会はありませんが、わたしの中では2005年以来、世界でいちばん好きなバンドの座はほかの誰にも明け渡していません。また観に行く機会があればお邪魔します。よろしくお願いしますー。

(「石川浩司のひとりでアッハッハ」「王様の耳はロボの耳」投稿した文章より)


パリ初日のParc de Choisy(7月20日)に行ってきました!
フランス旅行の最終日だったのでとってもいい思い出になりました。パリでパスカルズを見られるなんて夢のようです。

当日のお昼頃に会場の下見に行ったところ、公園のどこへ行ってもそれらしき機材がまったくないので、本当に今日はここでやるのかなー、と半信半疑な気持ちでその場を去りました。で、夕方開場時間に再び来たらサウンドチェックをやっているのが聴こえてきて、一安心しました。もしかして日にちを間違えたかも、という不安も大きかったのです(汗)。

実はそれまで連日35度以上の記録的猛暑でまったく雨も降らなかったのに、その日にかぎって午後になっていきなり夕立が降り、しかもすぐに止んでちょっとクールダウンし、爽やかなとても気持ちのよい野外コンサートになりました。

受付を済ませるとすでにお客さんは6〜7割はうまっていました。一段高くなったコンクリートの平面をステージにして、客席は土の上に直接腰をおろすようになっています。お客さんの目の前でメンバーがサウンドチェックをしていました。バンマスのロケット・マツさんがリードしてメンバー一人ひとりのマイクテストを行っています。日本ではけして見られない貴重なものを見させてもらいました。後から聞くと夕立があったのでリハーサルの時間が大幅に遅れたそうです。

だんだん人が集まってきてサウンドチェックの間にほぼ百人くらいになりました。お客さんは9割9分以上がフランス人。日本人の姿はほとんど見ませんでした。

サウンドチェックが終わるとメンバーはいったん楽屋に戻り(ステージの後方にテントが建っていました)、約15分後に司会者のアナウンスに紹介されメンバーが再登場、いよいよコンサートが始まりました。知久さん、松井亜由美さんが不在だったと思います。

最初にいきなり、石川さんがマイクに向かって、日本語で口上を述べ出しました。以下のようなことを言いました。〜今日はコンサートに来てくれてありがとうございますー。今日は突然大雨が降って開演が遅れてしまいすいませんでした。もしかしたら私たちメンバーをはじめ、お客さんも全員感電死するかもしれなかったんですよー。それはそれで面白かったかもー、あっはっはー・・・・・・。(意訳)
フランス人の観衆にはまったく伝わってなかったと思いますが、私は声を出してげらげら笑ってしまいました。
曲が始まると、もうお馴染みのパスカルズの世界にぐいぐい引き込まれていきます。音楽は世界共通言語だということを再認識しました。素晴らしい音楽は世界どこで聴いても感動するんですね。案の定、石川さんのパフォーマンスはフランスの子どもたちにも大人気で、ステージを下りて会場中を走り回ってる石川さんのうしろを子どもがついて行くという、とても楽しいステージでした。
ロケット・マツさんのたどたどしい英語の曲紹介やMCも非常にチャーミングでした。
「だんだん畑」は知久さんがいないので石川さんとあかねさんのツインVOCALで、これまた不思議な歌世界を現出させていました。
で、いつものようにグルーヴの中に身を置いていると、ひとりでに身体の中のあちこちの細胞が活性化し妄想幻想の類いが視覚を侵食しトリップしたような好い気分になっていきました。気がつくと最後の曲になっていました。

幸せな体験でした。

メンバーの皆様、スタッフの皆様、素敵なコンサートをありがとうございました。ツアーもあと少しですね。道中無事祈念しておりまする。 (波照間エロマンガ島)

(本人より)あれは実は危機一髪だったんだよね。雨が結構激しく降っていて野外だったので、直前までスタッフが「中止にするか?」と悩んでいたイベントだったので良かったー。
パリでは企画でパリ市内の五カ所で野外ライブをやるというしょっぱなの日だったんだよね。
おかげで他の会場も盛況、終始笑いの絶えないライブでした。

(「石川浩司のひとりでアッハッハ」「ザ・レポート」より)







(DAY6-4) パスカルズのコンサートが始まるまでパリ市内を徘徊

パリ4日目(2)

PARC de CHOISYの下見を終える頃、時刻は正午を過ぎていた。
今日もまたピーカンの猛暑だ。
さて、夕方のパスカルズのコンサートが始まるまで時間があるので、パリの街歩きをすることにした。



Blanche駅入り口

TOLBIAC(トルビアック)からメトロ7号線に乗りOPERA(オペラ)。ここで3号線に乗り換えてSt. Lazare(サン・ラザール)。ここで13号線に乗り換えて
Pl. de Clichy(プレイス・ド・クリッシィ)。ここで2号線に乗り換えて隣りの駅、Blanche(ブランシュ)。ここ数日メトロに乗りまくったのでだんだん路線の繋がりがわかってきて土地勘がついてきた。乗り換え通路が迷路のように分かりにくいのは玉に傷だけど、それにも慣れてきた。
いつものネット屋でお昼のmixiチェック、パリの観光スポットチェックののち、昼食。坂の途中のY字路に面したブラッセリー。



ビールとサーモンピッツァサンド。めちゃくちゃ美味しかったですー。


食後のエスプレッソ。







オルセー美術館界隈


食事を終えるとまたメトロに乗り移動。Pl de ClichyからSt. Lazare、乗り換えてSolferino(ソルフェリノ)へ行き、オルセー美術館に行く。しかし入場のための行列がすごかったので入るのをあきらめ、セーヌ川を渡り、ルーブルからポンピドゥーセンター方面に歩くことにした。オルセー美術館は前回パリに来たとき(1985年)にはまだ完成してなかった。ここにある収蔵作品のほとんどは「印象派美術館」という名前の美術館に展示されていた。コンコルド広場の近くにあって行った記憶がある。マネの「笛を吹く少年」が建物の外から窓越しに見えたことが印象的だった。
オルセー美術館周辺(サンジェルマン・ド・プレ)は今回はあまり歩けなかったけれど、プルーストの「失われた時を求めて」の舞台となった街区でもあり、また訪れる際には深く散策してみようと思う。が、なにしろ暑すぎていかんせん、歩く気力も萎え気味だった。夏のパリは次回から避けよう。



セーヌを走る遊覧ボート


ロワイヤル橋ごしに見えるルーブル宮


セーヌ川にかかるロワイヤル橋を渡りルーブル宮殿。今日はルーブル美術館には入らずにそのままスルーしてパレ・ロワイヤル・ミュゼ・ドゥ・ルーブル駅。そこから7号線に乗りシャトレ下車。ここから10分ほど歩き、ポンピドゥーセンターへ。


ルーブル美術館のいちばん近くにある駅です


ポンピドゥーセンター


マイタイ大好きでっす


疲れたのでカフェーで休憩。マイタイを注文。するとそれまで連日猛暑の炎熱地獄だったのが突然雲が張り出し、気がつくと大粒の雨が降ってきた。バケツをひっくり返したようなにわか雨だった。コンサートの開催は大丈夫かなー?と心配になった。


結局なんだかんだで時間がなくなり、ポンピドゥーセンターの中には15分間もいなかった。
雨はいつの間にかやんでいた。

気がつくと18時を過ぎ移動する時間になってしまった。
Rambuteau(ランビュトー)から11号線でChatelet(シャトレ)。ここで乗り換えて7号線でTOLBIAC。再びPARC de CHOISYに戻る。

公演に入るとさっきは何もなかった場所にPA設備、ミキサーと楽屋用テントが見事に配置され、リハーサルが行われていた。
サウンドチェックを15分ほど見てから、メンバーがいったん引っ込み、そしてコンサートがスタートした。


サウンドチェック中。




2006年7月21日(金)

(DAY7-1) さようなら、パリ (mixi-mobile)



さようなら、パリ

(mixiのコメント欄から)
・(編集者A氏)旅の終わりは切ない気持ちになりますよね……

・(A氏へのRES)切ないです けっこうフランスよかったかもしれません また近いうちに来たいです




2006年7月22日(土)

(DAY8-1) 帰国 (mixi-mobile)




日本に帰ってきました。今、成田の民間駐車場から車を引き取り、首都高レインボーブリッジ付近走行中ですが、渋滞しています。画像は山本圭一が住んでいると思われる佃島の超高層マンション。レインボーブリッジから見えました。吉本興業を解雇されたのでもうここにも住めなくなるのでしょうか。カーラジオを点けたらJ-WAVEでマイミクシィの如月音流(ねる)さんが高城剛と対談していました。テーマはWEB2.0について。ねるタンかっこいい♪
たかだか1週間日本にいなかっただけなのに、帰国して30分もしないうちに「日本」と「日本語」の海に投げ出され翻弄されくらくら酔っ払っています。日本は、日本語によって海外と国境を隔てていることを再認識しました。



2012.07.18 Wednesday

[chapter 16] バンコクから飛行機に乗ってちょこっと西のほうへ旅行(前編)

[近況] 昨夜のこと、3年前にチェンマイで購入した日本製の自転車が盗難に遭いました。朝、駅の駐輪場に施錠していつものように普通に出勤していったのですが、夜帰ってくると失くなってました。とてもショックを受けています。ボロ自転車でしたが愛着があっただけに、突然の予期せぬ別れは激しく凹みました。気を取り直して警察に届け出に行ってきます。泥棒が捕まって、自転車が戻ることを祈っています。






そんなわけで、エトワール凱旋門。今回の日記の舞台です。6年前の今ごろ、行ってきました。


2006年7月15日(土) 東京〜成田 43歳

(DAY1-1) 突然の雷雨で視界をさえぎられ渋滞、成田へ大幅に遅れる

物凄い雷雨でした。そのとき私は運転中でした。立て続けにあれほど凄い稲光を目にしたのは久しぶりでした。視界が10mを切るほどで危険このうえない状況に陥りました。ワイパーが利かないってただ事でないですね。なのに1時間もするとまた晴れ上がりました。

*危険だったので画像はありません(ごもっとも)。

みなさんはそのとき、どちらにいらっしゃいましたか?
(東京ローカルな話題ですみませぬ)

(mixiコメント欄より)
・都内はすごい雷雨だったらしいですね。私は電車に乗ろうとしたのですが 20分くらい遅れて暑い中ずっとたちっぱなしで 辛かった。。

・足立区入谷という、埼玉とのモロ県境にバイトの面接に行ってきましたが、その帰り尾久橋通りをバイクで南下し
てる時にポツっと来ました。我が家に近づき明治通りとの交差点付近で大雨。都合30分ほど、雨宿りをするハメになりました。雨宿り中、すぐ近くに落雷がありまして、雷鳴が凄まじかったですね。

・千葉県船橋市周辺はそんなに激しい降りではなかったです。雨が降ってきたときはベランダの蟻んこと格闘していました(爆)。 都内は電車がとまってしまうくらい激しい雨だったみたいですね。

・一瞬、停電になったのはうちだけ?

・市川〜船橋〜四街道〜船橋と走りまわっている間の出来事だったようで・・・。市川〜船橋間でかなり降られましたが、局地的だったんでしょうね。(10分くらいで、晴れてきましたもの)





(DAY1-2) なんと離陸30分前にチェックイン、大急ぎで搭乗。なんとか間に合う
(DAY1-3) TG677 NRT-BKK
(NIGHT1-1) 2ヶ月ぶりのバンコク


(この日のあらまし)
昼過ぎに出宅。マイカーで成田空港へ。ところが首都高に乗った頃とつぜんの雷雨に襲われ、折からの渋滞も相まって空港への到着が異常に遅れ、民間駐車場に車を置いたあと成田空港のタイ国際航空にチェックインしたのは離陸の約30分前であった。これだけ切羽つまったチェックインは初めて。出国審査も人を掻き分け、順番を早くしてもらい通過、コンコースを文字通り走るようにして搭乗ゲートへ。なんとか16時55分のTG677の離陸時刻に間に合いました。
タイ時刻21時半過ぎにドンムァン国際空港着。この2ヶ月後にスワンナプーム国際空港が開港したので、実質最後の国際線でのドンムァン空港の使用であった。バンコクで1泊ストップオーバー(途中降機)して、翌日の深夜の便でフランスへ向かうというスケジュールである。
タクシーでスクムヴィットの定宿へ。チェックイン後、ひと段落すると街歩きとインターネット屋へ。そのとき書いたのが(DAY1-1)の日記である。mixiの日記読者には、海外に来ていることをまだ伝えていない。




2006年7月16日(日) バンコク 43歳

(NIGHT2-1) ウドム・テーパーニット 個展@J-AVENUE,Bangkok



というわけでウドムさんの個展を観にバンコクに来ています。

DOMCUMENTARY

Art Exhibition : Drawing, Painting, Printing and Sculpture
by Udom Taephanich

2-31 JULY, 2006 at J gallery, 4fl. J-avenue Sukhumvit 55
(Thonglor 15). Bangkok.


(mixiコメント欄より)
・(バンコク在住A氏)トンローのJ-avenueですか? そこなら私でも行ってこれそうです♪

・(バンコク在住B氏)行ってくださってありがとうございます。作品の搬入手伝った身としてうれしゅうございます。

・(バンコク在住C氏)我が家から徒歩5分ですが、なかなか行けません。明日こそは観に行こう!!



(NIGHT2-2) BOARDING (mixi-mobile)



タイは1日のみの滞在、これからさらに西の方へ行ってきます!


(NIGHT2-3) TG930 (BKK-CDG)

ウドムさんの個展を観たあと、タクシーでホテルに戻り急いで荷造り。21時15分にエアポートタクシーを予約したのであと1時間くらいしかない。シャワーを浴びて髭を剃っていると電話が鳴った。出てみるとMからだった。昼間行き違いで会えなかったので友達がことづけしておいてくれたみたい。これからパリに行くと言うとびっくりしていた。また会おうと言って電話を終える。つけっぱなしのNHKの衛星放送ではフランスのフォンテーヌ・ブロー城からの生中継がOAされていた。(「世界遺産 フランス縦断の旅」)美術評論家の伊東順二と住吉美紀アナウンサーが、馬車に乗ってお城のまわりの森を優雅に案内するというもの。実は大学時代、伊東さんからフランス語を習っていた。11PMのカバーガールの朝倉匠子と別れて小川知子と結婚するとはそのときは思わなかったよ。初めて上梓した「現在美術」という本に「匠子へ」って献辞があったっけ。まぁそんなことはどうでもいいか。


21時過ぎホテルをチェックアウト。すでにエアポートタクシーは待っていてくれた。30分でドン・ムァンへ。
両替所でバーツをユーロと円に両替し、タイ国際航空のロイヤル・オーキッド・サロンでくつろいでいると搭乗時刻が近づいてきた。今回は5番ゲート。駐機場までバスで行く1階のゲートからの搭乗である。TGのヨーロッパ便は
CDG(シャルルドゴール)、FRA(フランクフルト)、LHR(ロンドンヒースロー)はじめ、みな深夜出発なのでゲートは混雑していた。そのとき携帯写メールでUPした日記が(NIGHT2-2)。更新時刻が2006年7月17日1時38分とあるので、2時間の時差で16日の23時38分ということになる。

時間がきてバスに乗り、搭乗。いつものボーイング747-400型機。座席は38D。これから12時間半かけてパリに行ってきます。


機内食。午前1時過ぎにこんなボリュームの料理はさすがに胃が悲鳴を上げた(苦笑)。

(mixiコメント欄より)
・美味しそう(´ρ`)ジュル

・ほんとにうまそう。。





2006年7月17日(月) バンコク〜パリ 43歳

(DAY3-1) 12時間半かけてパリのシャルル・ド・ゴール空港到着



午前7時25分、私の乗った旅客機は、定刻通りパリのシャルル・ド・ゴール空港に着陸。ジェット気流(偏西風)に逆らってのバンコクからの12時間半のフライト。疲れたー!
タイ国際航空機は第1ターミナルビルの駐機場に着いた(上図の左側のビル)。機を降りるとだ円形のサテライトに出る。そこから洞窟の中のようなスロープ状の動く歩道を下っていく。フランスに来たことをじょじょに実感。動く歩道が終わると入国審査のフロア。だけれども長蛇の列という予想に反して、ほとんど待たずにあっけなくスルーできたのが意外だった。スタンプを押すだけなのですいすい人が通っていくのだ。人をなめまわすように凝視するベトナムやタイの入国審査とはえらい違いだ。




そしてそこから透明のガラスで覆われたチューブ式のエスカレーターに乗って吹き抜け部分をぬけいよいよ1階の空港出口へわー、なんて未来的でかっこいいんだろう!!と度肝を抜かれる。この空港を設計したポール・アンドリューさんの「ようこそフランスへ」というウェルカムの挨拶&目配せを感じ、気持ちよくなった。日本もこんなスタイリッシュな空港ほしいなー、と思った。

この時点では、2004年5月に第2ターミナルで起きた屋根の崩落死傷事故のことや、トム・ハンクスの出た映画「ターミナル」のモデルの人がこの空港に今も住んでいることなど、意識からはすっ飛んでしまっている。また行く機会があったら、それらに目を向けて旅日記に書くこともあるだろう。

そして、空港の出口に出た。手荷物は預けなかったのでまったく待たずに入国できた。



と、ここで。



猛烈に便意を催してきた。

リラックスしたせいもあるだろう。


しかし意に反し


トイレはなかなか見つからなかったのだ(油汗)。


円柱形をしたシャルル・ド・ゴール空港第1ターミナルビルの半円部分、端から端まで歩くが見つからない。


えー?!まじっすかー?


さっきまで最高だったポール・アンドリューの評価が音を立てて崩れていった(笑)。空間デザインを優先し、人間本来の生理を無視しトイレも作らない、アホアホ建築家じゃないか!と怒りがこみ上げてきた。到着ロビーには見つからなかったので出発ロビーに移動してみた。
さんざん探して、スターアライアンスグループのカウンターの裏側にトイレを発見した。しかし、職員と乗客両方が使うようなしょぼいトイレだった。しかも男女兼用(泣笑い)!なんなのよ、これは!しかし文句を言ってもいられない切迫した状況だったので個室に飛び込んで用を足した。

しかしそのとき。

さらに最悪なことが発覚した。

ふと横を見るとそこには。

トイレットペーパーがまったく無いのであった!

(((((;゜Д゜)))))


(波照間エロマンガ島、フランス最初のピンチ!どうなるのでしょうか?以下次号)


(DAY3-2) 便器 (mixi-mobile)


到着しました。さて私は何処にいるでしょう?便器の形状から類推してください。
(まだ、この日記をリアルタイムでアップした時点では行き先は日記読者に告げていません)

(mixiコメント欄より)
・おフランスでしょうか?

・(大学の同級生で現在某大学准教授B氏)いや、これは女子用の立ち小便器では?



(DAY3-3) エールフランスのリムジンバスに乗りパリ市内へ出発!

トイレに紙がないというフランス流の手荒い洗礼を受けた私は、用を足したあと、案内係りの人にホテルを予約できる場所を尋ね、ツーリストインフォメーションを教えてもらった。そして空港内を移動する無料のシャトルバスに乗り第1ターミナルから第2ターミナルへと向かった。
(上図参照)


シャトルバス内にて。




教えられた第2ターミナルのホールFでバスを下りる。

そしてツーリストインフォメーションを探す。第2ターミナルは一見すると平屋の長屋ふうだが、半地下部分でつながっていて非常にわかりにくかった。あちこち歩いてようやく目的の場所にたどりついた。そしてそこでホテルの予約をした。
今回地方都市へ行くことも検討したのだが、とりあえずは先ずパリの土地勘を養おうと、4日間パリを拠点に動くことに決め、探すことにした。さすがコンシェルジュという言葉の語源となったフランスである。応対してくれた男性は、あれこれ希望を聞いてくれ、そこからホテルをピックアップし丁寧に紹介してくれた。いくつかあったうちのもっとも安いホテルを選択し、予約をした。そのとき、パリ市内へはどのように行くか聞かれたが、こちらがわからないと答えると、エールフランスのリムジンバスを教えてくれた。市内まで12ユーロで行けるという。予約したホテルがモンパルナス地区だったので、モンパルナス行きのバスを教えてもらい、それに乗ることにした。
そして、エールフランスのシャトルバスに乗り、いよいよパリ市内へ突撃する運びとなったわけである。

バスが出発する前、もう1回トイレに行く。少し余裕ができたので
mixi-mobileで日記を更新することにした。そのときの日記が(DAY3-2)。



いざ出発〜!!


(DAY3-4) モンパルナスに到着、歩いてホテルに向かう



リヨン駅前のブラッセリ

シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内までは約30キロ。およそ1時間の道のりである。道路は右側通行。高速道路は料金所がないみたいだし、交通網は発達している、というのが第一印象。
40分ほど走ると最初の停留所、リヨン駅に到着した。パリ市の東側に位置する大きな駅である。ここでごそっと人が降りた。そしてまた発車。すぐに橋を渡ったが、おおこれがセーヌ川か、と興奮した。そこから15分ほど走り、モンパルナス駅に到着。バスを下車、パリの地に約20年ぶりに降り立った。
初めはどちらが北か南かもわからない。とりあえずモンパルナスタワーを背にして南の方向に向かった。地下鉄(メトロ)でも行けたのだが、地図を見るとそんなに離れてないのでホテルまで歩いて行くことにした。メーヌ通りを南下し、アレジアを目指した。まず最初に店先に絵葉書の売っている文房具屋さんに立ち寄り、パリの絵葉書を買いがてら、ホテルの地図を見せて道を尋ねた。老齢の女性は親切に教えてくれた。「メルシー、オーヴォワー」と初めてフランス語を発した。
地図を見ながらなんだかんだ30分くらい歩いて、ようやくホテルに到着。ホテルはアレジア通りにある、JARDINS DE PARIS ALESIA。


部屋に入ると荷物を置いて、ベッドに倒れこむ。疲れたー!!しばらくごろごろして寝転がり疲れを癒しながら、ガイドブックを見て今日の作戦プランを練る。旅でいちばん楽しい瞬間である。
ホテルにチェックインして約1時間後、街歩きに出発した。



ホテルのロビーに置いてあったフィガロ紙。イスラエルのレバノン爆撃の記事がトップ。戦闘施設ではない住宅や商業地が破壊されているのが一目瞭然でわかる。とても気になる。


(DAY3-5) メトロ4号線アレジア駅からメトロに乗って移動開始!

13時過ぎ、ホテルを出発。前を通っているRUE DE ALESIA(アレジア通り)をアレジア駅方面に歩き出す。
並木の綺麗な通りだ。スーパーマーケットがあったりシェビニオンの直営ショップがあったり靴屋さんがあったり日本料理レストランがあったりした。まだここがどんな街かはわからない。けれどなんとなく、中心部から少しだけはずれた“下町感”みたいなものを感じた。お店も高級店というよりは庶民的な店が多かった。東京で言うと東大の裏の本郷あたりのイメージかな。まったく根拠はないのだが。



10分ほど歩くとアレジアの駅に着く。広場があって放射線上に通りが広がっていて、その一角に教会が建っていた。
かなり暑かったのでTABACでミネラルウォーターを買う。そしてメトロ(地下鉄)に乗るため階段を下っていった。
改札口の横に自動券売機があった。切符を買おうと前に立って呆然とした。フランス語表記でまったく何が書いてあるかわからないのだ。はじめはなんとかなるだろうと思ったのだが、レバー操作が複雑で何をどうやったらいいのかさえわからない。仕方がないので、たまたま後ろに並んだ人に買い方を教えてもらい切符を買った。日本との違いは、行き先によって値段が変化するのではなく、料金は1回1.4ユーロという値段で一定であるということだ。レバー操作が複雑なのは、日本で言うパスネットやスイカなどのプリペードカードや回数券も買えるため、その選択の表示がわかりにくかったからと思われる。
そして入り口の自動検札を通って中に入った。



さすが映画の都なり。1986年の大島渚監督作品「マックス、モン・アムール」のポスターが掲出してあった(メトロの駅の通路にて)。

「マックス、モン・アムール」は想像した以上に出来がよくて好きな映画だった。大島渚は、通常の映画監督と比較するとかなり速いタイミングで撮影していて、芝居を終えるとすぐに「カット」と声をかけてキャメラを止めたという。そのカットの時間から出る編集のリズムが松竹大船調のタイミングになっていたのが驚異的だった。ちなみに、そのテーマが嫌われたのか、日本ではまったくヒットしなかった。


(DAY3-6) エトワール凱旋門到着、35℃以上の気温で意識朦朧


(写真は、9号線のアルマ=マルソー駅ホーム)

というわけで、アレジア駅からメトロ4号線に乗った。まず地下鉄で驚いたこと3つ。

(1) 駅のプラットホームは駅名を大きな文字で壁に記しているだけで、隣り駅を示す表示はいっさい無い。ホームへ下りる階段の横の壁に線名と駅名を列記した表示板がちょこっとあるだけであった。これはわかりにくい。
(2) 電車も自動車と同じく右側通行だった。
(3)車内はいっさい冷房が効いてなかった!ドアはタッチして開閉する半自動式だった。


15分ほど乗って、シャトレ駅という駅で下り、1号線に乗り換え、シャルル・ド・ゴール・ド・エトワール駅で下りた。まずパリに来た証として凱旋門に行こうと思ったのである。完全にお上りさんコース。


(写真は、メトロビラケム駅改札出口。料金は一律で出口は自動ドアないしは押扉になっている)

改札の出口は自分の背丈以上もあるステンレス製の観音扉式の自動ドアになっていたのでまた吃驚した。パリのメトロは切符は回収されないのだ。1985年に来たときもそうだったか、まったく忘れてしまっていた。

階段を上がる。するとパリのランドマーク、エトワール凱旋門の威容が見えてきた。




やっぱでっけぇ!!

エトワール凱旋門(仏語Arc de triomphe de l'Etoile)は、フランス・パリのシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にある凱旋門である。
1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。ルイ・フィリップの復古王政時代、1836年に完成した。ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時であった。古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。
エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦で戦死した無名兵士の墓が納められている。


というわけで、シャルル・ド・ゴール広場の外側から凱旋門の写真を撮り、
mixi-moboleで写メール日記をうpしてから、門の下に行ってみることにした。道路は交通量が激しいので、地下道を使って門の下に出た。そのときのコメントはこちら。

(mixiコメント欄より)
・便器はおフランスのざましたか。シェー(古)。

・えっ!!おフランスに行ってるの?!

・ルーブル美術館には行くの?




門の中は風通しがよくて非常に気持ちよかった。この空間を映画「冒険者たち」で、アラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラは複葉機で潜り抜けようとしたんだなと思うと、感慨深くなった。



第1次世界大戦で戦死した無名兵士を悼む慰霊碑がシャンゼリゼ通りに向かった床面に鎮座していた。


しかしこのとき、気温35℃以上の厳しい暑さで思考もままならず、観光気分はほとんど萎えて、水分補給しながらゆっくり日陰で身体を休めたというのが実情であった。かなりいっぱいいっぱいになっていた。門の上に登って市内の眺望を楽しむこともできたが、そこまで考えが及ばなかった。
時刻は午後2時を過ぎていた。急に空腹感を覚えたので昼食をとろうとシャンゼリゼ通りを東に歩くことにした。

[追記]
ニュースを見たら、この前後、フランス全土で何十人もの人が暑さで死んだとのことでした。記録的な猛暑だったみたいです。


(DAY3-7) VESVIO CAFE

シャンゼリゼ通りを凱旋門から東に向かって歩き始めた。だが、いかんせん半端でなく暑い。あとで確認するとその日は気温が35℃以上もあったという。意識は朦朧とし観光気分も萎えてきたので、休憩がてらランチをとることにした。

最初に見えてきたカフェに躊躇せずに入った。
入り口に立っていた顔中皺だらけの金髪の女性がまず目を引いた。年齢的には70歳を越えているのではないか。しかし口元には真っ赤な紅をさし、背筋は伸び凛として、笑顔で接客していて感動した。石川淳の『喜寿童女』に出てくる老娼妓を想起してしまった。彼女に席に案内された。



というわけで






摂氏35度の世界でいただいたビール
天国に昇る美味しさでしたww。





バーガー&フレンチフライポテト
も美味しゅうございました。


お腹いっぱいになったところで歴史のお勉強の時間。

シャンゼリゼ通り(フランス語:Avenue des Champs-Élysées, または
les Champs-Élysées)とは、フランス・パリの市内北西部にある大通りである。パリ市内で最も美しい通りとされていて、特にフランスでは「世界で最も美しい通り(la plus belle avenue du monde)」と言う表現が使われたりしている。日本では、シャンソン歌手の越路吹雪が「オー・シャンゼリゼ」を歌ったことがきっかけで広く知られるようになった。

歴史
シャンゼリゼ通りは元々は、農園と市場であったが、1616年にマリー・ド・メディシスがテュイルリー宮殿の庭園の軸を並木道で延伸したいと決めた。ヴェルサイユ宮殿の庭園なども手がけたル・ノートル(Le Nôtre)によって都市計画がなされた。1716年後半頃には、ギヨーム・ド・リズムのパリの地図によると、現在のロンポワンの地点にある丸い池によって終点となっている、並木道の植わった「テュイルリー通り」によってテュイルリー庭園の中心軸が短かく伸びた通りで農園と市場が分けられているのが分かる。すでにそのころ放射線状に延びた並木道が森と畑を通って川まで達していた。1724年には、テュイルリー庭園を貫通する軸とその通りはエトワール広場までさらにつながり延伸され、「シャンゼリゼ(エリュシオン・極楽浄土)」という園地がその通りに面して広がり、元々秩序立てて植林されていたところがすぐに茂みとなった。東のほうでは、当時好まれず無視されていた「旧ルーブル」(地図ではそう書かれていた)が建物に囲まれて存在していたが、まだその東西軸の一部にはなっていなかった。1724年の地図では、シャンゼリゼ大通りは新しく整備された「トゥルナン橋広場(Place du Pont Tournant)」---すぐに「ルイ15世広場」と改名され、現在の「コンコルド広場」となる---から西へ延びている。

18世紀末の頃にはシャンゼリゼは流行の通りになっていた。両側の植え込みは正式の長方形の緑地帯をなすほど茂っていた。フォーブール・サントノーレ沿いに建てられた家々の庭はさらに格調のある茂みを形作っていた。その最大のものがエリゼ宮である。建物の前面の半円型の部分がロンポワンの北端となっている。

王妃マリー・アントワネットは友人達とここを流し、ルイ15世広場にある堂々たるホテル・ドゥ・クリヨン(Hôtel de Crillon)で音楽の授業を受けた。ロンポワンからエトワール広場への通りは第一帝政時代に建設された。シャンゼリゼそのものは1828年に正式に市の資産となり、歩道、泉、ガス灯などが作られた。ナチス・ドイツの侵略時代には、ドイツ軍が街路樹の数を倍にし、木陰を行進したいがためにしたと言われた。最近では1993年に側道部分が拡幅されるなど、何年もの間この大通りは様々な経緯変遷を経てきた。


シャンゼリゼ=極楽浄土という意味だったのですね!
しかし「極楽浄土通り」なんて似合わないなー(笑)。


(mixiコメント欄より)
・(編集者A氏)Vesuvioっつうのはイタリアのヴェスヴィオ火山のことですかね。そういう名前のパスタもあるようですが。

・(RES)ヴェスヴィオ火山からとっているんじゃないかと思います。この店は検索しても出てこないんですね。

・(ライターB氏)極楽浄土なんですか? ひょっとして…戦争で死体がいっぱいで歩けなかったとかって聞いたことがあります。未だに骨がいっぱい埋まっているとかフランス人が言ってましたよ。だから極楽浄土なのかしら?



(DAY3-8) 公園で遊ぶ子どもたち(動画)




パリの公園で遊ぶ子どもたちを撮ってみました。
さて、ここはどこの公園でしょう?

答えはこちら↓の動画をご覧ください。



(DAY3-9) エッフェル塔にライフル銃をもった兵士が多かった理由


エッフェル塔ではライフル銃を携えた警備の兵士を多く見かけた。

わたしは2001年の「911テロ」以降の世界情勢の中での、ランドマークへのテロ攻撃に対するフランス政府の警備だと思っていたのだが、どうやらそれだけの理由ではないらしい。

以下、いつものようにwikipedia よりばっすい。

エッフェル塔(仏: La tour Eiffel)は、フランスの首都パリのランドマークとなっている塔。フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた万国博覧会のために建造された。名称は設計者のギュスターヴ・エッフェルに由来する。建設は万博に間に合わせるため2年2ヶ月という驚異的な速さで行われたが、一人の死者も出さなかった。
(中略)
なお万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていたが、のちに軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っている


なるほど、そういう理由があったのか。
そういえば兵士は10代後半から20代前半のまだあどけなさが残る青年が多く、肩からかけるライフル銃との対比が印象的だった。とつぜん彼らが銃を乱射して、たくさんの観光客が殺されたらどうしよう、なんてことを思いながらビデオを撮っていました(汗)。


エッフェル塔の建設写真


(mixiコメント欄より)
・ふむ〜〜〜。エッフェル塔は「軍事電波塔」なのか。。。




(DAY3-10) その他、パリ写真集


オペラ座近くのメガネのパリーミキ本店

(mixiコメント欄より)
メガネのパリミキって本当にパリのものだったんですね。(笑)
エッフェルさん、見忘れました。
3年前がよみがえってきました!!!懐かしっ。




オペラ座前。現在時刻19時08分。まだ西日が強く気温は30℃以上あり暑い。



マルセル・プルースト「失われた時を求めて」で「私」がゲルマント公爵夫人との邂逅を果たす舞台になったパリ・オペラ座。



The Fast and the Furious: Tokyo Drift  が劇場公開中だった。



有料の公衆トイレ。絶対数が不足している。あまり目にしなかった。


使用中。



エッフェル塔のキーホルダーはさすがに買わなかった。



エッフェル塔。20年前に登ったので今回は上には行かず。



この日は典型的お上りさんコースである、凱旋門とエッフェル塔を中心に街歩きをした。暑かった。


長くなったので次週につづきます。ということで。

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